ねえ、千鶴、逃げようよ

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「駄目じゃない。逃げ出せば――」 「駄目だよ! もう、耐えられない。背負ったまま、生きていけないよ!」  そう叫ぶと、千鶴は走って屋上の端まで行ってしまう。大きく手を開いて、そのまま絶望へ沈むように、宙へと飛び出した。  さっきよりも、冷たい、夏なのに凍えるような風があたしたちに吹き付ける。 「梶原っ」  貞晴が叫んで、宙へ手を伸ばした。だけど、髪すら掴めず、千鶴は落ちていく。  あたしは悲鳴をあげて、取って返して、階段を駆け下りた。まさか、飛び降りるなんて。どうして千鶴。どうしてそんなことをするの? あたしたちは、そんな結末を望んだわけじゃないのに。  あたしは千鶴が墜落した場所まで走った。美化委員会がせっせと管理している花壇の向こう側に、まず真っ赤な血が飛び散っているのが見えた。校庭からぴーっと高い笛の音がする。上履きは音もたてずにコンクリートを蹴る。  あたしは走り寄り、頭から血を流す千鶴を見てまた悲鳴をあげる。そこにいた女の子は真っ暗な絶望を刻み付けて、目を潤ませながら空を見上げたまま止まっていた。  誰かが走り寄ってくる音がする。  ――チヅ、もう駄目だよ……。  千鶴が最後に残した言葉が反響して聞こえる。  ―― こんな世界、全部、全部、全部いらない……チヅ、もうなんにもいらない。  千鶴は、自分がどんな目にあってるのか、自覚して、でも受け止めきれずに、死んでしまった。  あたしたちが、あたしが「犯されている」と教えて、被害者と教えたために……!  あたしが殺したの?  千鶴に縋り付こうとすると、大きな手があたしを押さえつけた。誰か先生の腕だった。あたしは暴れて、千鶴のそばまで行こうとする。先生たちが集まって千鶴の周りを取り囲む。慌ただしく人が行きかう。あたしはずるずると引きずられて、千鶴との距離がどんどん遠くなっていく。  あたしは千鶴が見上げている空を見上げた。貞晴が項垂れて屋上の端を掴んでいる。  貞晴に向かって、あたしは声の限り叫んだ。 「千鶴が死んじゃった……お父さんに犯されて、死んじゃったよ!」  貞晴はその場から動かない。ガクガク肩を揺らして、千鶴を見下ろしている。先生たちがやってきて、貞晴を屋上から引き離そうとしているが、腕をぶんぶん振って、誰も近寄らせないようにしている。  生徒たちが何事かと集まってくる。先生たちが千鶴を見ないように声を張り上げている。あたしは力も尽き果て、抵抗するのをやめた。先生があたしを羽交い絞めするのをやめて、手を離した。あたしはその場にくずおれて、ただ千鶴がいる花壇の向こうを見つめていた。  しばらくすると、救急車がやってきた。あたしはもう動かない千鶴が運ばれていくのをただ見ていた。  見ているしか、できなかった。  あたしの友達……助けたかった、あたしと同じ惨めな兵士。  ああ、  ああ、  ああ……!  あたしは、追い詰めたかったわけじゃない。殺したかったわけじゃない。  ただ、逃げてほしかっただけなのに……!
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