ねえ、千鶴、逃げようよ

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「傷ついちゃうよ……貞晴」  貞晴はそれでも掻き続けるので、あたしは腕を掴んだ。貞晴はあたしをぼうっと見て、きゅっと眉を寄せると、「すまねえ」とあたしの手を掴んだ。 「おれ、梶原の父親が許せねえ」  低い、声だった。貞晴は千鶴から移してもらったみたいに暗い、絶望色した瞳をしていた。シーツを掴む指は白くなっている。 「絶対、絶対許さねえ。どうにかして償わせてやる」  歯ぎしりの音が聞こえる。目に涙を溜めて貞晴は虚空を睨みつける。真っ暗な瞳が怖くて、あたしは押しとどめるように貞晴に抱き着いた。不意に千鶴が最初にあたしにぎょっと思わせた言葉が思い出された。  ――チヅ、そうしたら人を殺せるから。十三歳は刑事責任にはならないから。  このままじゃ貞晴がどこかに行ってしまう気がした。それは千鶴が行ってしまった世界ととても近いところだと思えた。血の臭いと硝煙の、生々しい香りのする戦場だ。 「貞晴、何考えてるの?」 「何って、お前は憎くないのかよ!」  あたしは貞晴の憎しみを押さえつけるように、腕の力を強めた。今度は離したくなかった。離したら、千鶴のそばに行ってしまう。それが怖かった。  そうしていると、ぼたっと腕に雫が落ちてきた。貞晴は目を真っ赤にして、牡丹雪のような涙を流し始める。大粒の涙があたしの腕を濡らしていく。苦しそうに呻いて貞晴があたしの腕に触れた。あたしより大きい、だけども、子供の、まださらさらとした手の平。あたしたちはぼとぼとと涙を流しながら、抱き合っている。 「貞晴まで、どうにかなったら、あたし、耐えられないよ」  貞晴は頷くと、あたしの肩にこてんと頭を預けた。「ちくしょう……ちくしょう」と小刻みに震えながら呟いている。  あたしには貞晴のような大きな怒りはこなかった。絶望に染まって、ただ悲しむしかできず受け入れもできなかった千鶴に申し訳なさを抱いていた。  千鶴に会いたかった。今度こそは、今度こそは友達らしい会話をちゃんとしてそばにいてあげたかった。後悔だろうか。それとも違うものだろうか。  あたしが殺したという気持ちだけが胸に残っている。  あたしたちの夜は、そうやって正反対に終わった。
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