ねえ、千鶴、逃げようよ

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 あたしは動けなかった。糾弾する勇気もなく、怒りに任せる度胸もなく、目の前の展開にただ足を震わせていた。こんなのドラマの中でしか見たことはなかった。 「おれは、おれたちは知ってるんだよ! 梶原の胸に何があるのか、それをつけたのは誰かってこともよ」  千鶴の父親はまだ笑顔で「子供のやることですよ」と優しい声色で言っている。へらへらとして、本当に憎たらしい子供みたいな顔つきをしている。 「千鶴の胸に何があるのかは知ってるよ。ぼくも見たさ、でもきみ、それをぼくがやったという証拠はあるのかい? ないだろう? なあ」 「こいっつ……!」  貞晴がもがいて、大人の手からするりと抜けたかと思うと、まっすぐ千鶴の父親のもとへ体当たりした。立ち上がりかけた千鶴の父親はぶざまに畳の中を転がり、そのまま逃げるように外へと這うと真っ赤な鼻血を出す。  外へ出た千鶴の父親に、貞晴は今度こそ馬乗りになると、ぐしゃっと鈍い音を出して殴りつけた。貞晴は目を真っ赤にして泣いていた。泣いたまま激しい表情をして、もう帰らない千鶴の前で父親の襟を掴んで揺さぶる。 「梶原は……死ぬと決める前は、お前のこと恋人だって言ってたんだよ。それすら裏切って保身に走って……」  大人たちがわらわらと集まり、貞晴を掴んで千鶴の父親から離させる。千鶴の父親は逃げ出そうともがきながら千鶴の祭壇へ向かっていく。あたしは走り出していた。反射の行動だった。貞晴がやったように千鶴の父親へ体当たりをする。二人ともその場へすさぁっと転がり、あたしは慌てて立ち上がると外と内での境界の前で両手を広げた。 「千鶴に、もう近づかないで!」  千鶴の父親は、娘と同じ年であるあたしを見てきょとんとする。  それから両手で顔を覆うと「ああ」と叫んで大声で泣き始めた。  あたしも貞晴みたいに大人たちに引きずられて祭壇から離されていく。だけど千鶴の父親を睨み続けた。千鶴の父親の鼻から伝った血が地面に落ちて、雨に濡れて一筋の線になっていく。  あたしと貞晴は車に乗せられた。どうやら、担任教師が運転する車のようだ。車の中からあたしは大混乱を極めたお寺を見ている。千鶴の父親が立ち上がり、ふらふらと千鶴の祭壇へ向かい、何やらむせび泣いていた。  発車する車の中であたしたちはそれを見ていた。もうとめることもできず、何もできず。
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