ねえ、千鶴、逃げようよ

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 学校へ着くと校長室に行かされて、あたしたちは事情を話させられた。あたしたちは千鶴の父親が何をやったのか、千鶴が助けを求めていたこと、でも耐えきれずに死んでしまったことを、なるべく冷静に話した。校長先生は難しい顔をしてあたしたちの話を聞いて、ふぅんと頷いた。あたしたちの怒りはよくわかったという風に話し出して、最後にこう付け加えた。 「しかし、それには証拠はあるのかね?」  証拠などない。あるのは、胸についたキスマークだけだ。それを千鶴の父親がつけたのかなんて、千鶴でさえ口にしていなかったことに気づく。  あたしたちは一般常識として、葬式で騒ぐのはいけないだの、証拠もないのに人を糾弾してはいけないだの、べらべらと語りつくされた。千鶴の死は、そんなものだった。  あたしたちは無理やり謝らせられて、終わった。本当に終わってしまった。  どうしてかまったくわからなかった。一人の生徒が死んだ。それも父親に犯されていた事実に耐えきれなくなってだ。なのに、大人たちは誰も千鶴の父親を責めることも、それこそ警察が出てきて逮捕することもなく、終わらせようとしている。  千鶴はなんで死んでしまったのだろう。  こんなにも無感情な世界を始めから知っていたのだろうか。  あたしたちは無力で、惨めな姿のまま校長室を出た。貞晴は停学を二週間くらい、あたしは一週間だ。千鶴の父親ではなく、罰はあたしたちに与えられた。  貞晴は昇降口まで出ると、がんっと一発ドアを蹴り上げた。それから、座り込んで頭を抱える。 「結局、おれたちってなんだよ……。死んでも無視されるなんて。そんなのってあるのかよ」  苦しそうな声だった。 「梶原……お前をもう、どうにもできねえよ。おれらじゃ、どうにも……」  あたしは昇降口を出ると、千鶴の墜落した現場へ向かった。ブルーシートが張ってあるのをどかして、中に入る。千鶴の血はまだ残っていた。それもいつしか消えていくのだろう。誰かが自殺したという噂だけを残して。なんで、どうしたかも、あたしたちの叫びのせいで残るかもしれない。だけど、それには力がない。  千鶴は自ら、何も残さず消えてしまったのだ。
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