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「月修儀! 否、月玉桂!!」
この場所で聞こえるはずのない男の怒鳴り声に、穏やかな春の午後は、一瞬にして吹き飛ばされた。
慌てふためく侍女を制して、私は立ち上がる。
曲がりなりにも後宮の妃の一人であるからには、男の前に姿を見せるのは褒められた行為ではないが、向こうが呼びたてるのだから仕方がない。
「月修儀も月玉桂もわたくしのことですが」
月玉桂が私の名前、修儀は妃の位の一つ――現在私が賜っている位だ。位のはずだ。
男は最初、常識に照らし合わせて、私を位で呼んだ。
その上で、氏名を呼び捨てにしなおしたのだ。
皇帝の妃を呼び捨てにするなど、いかな高官であっても眉を顰められる行為だ。
「わたくしに何の用ですか」
扉を開けた先に待っていたのは、数名の武官だった。ご丁寧にも武装している。
これは、やばい。
ただの武官に過ぎないものが、妃を呼び捨てにする。
それはつまり、私が位を剥奪されたことを意味する。
その上で、たかだか女一人呼び出すのに、複数の武官を用意する、その意味とは。
「お前には、皇上の寵姫様に呪詛をかけた疑惑がかかっている! 中を検めさせてもらう!」
「目の前にいるのだから、そんなに叫ばなくても聞こえます」
反射的に言い返して、睨みつける。
こういうところが可愛げがないのだと、昔から父兄に叱られていた。
こんなことでは、皇帝の寵を得ることはできないぞ、と。
彼らの心配は的中し、入内から二年経った今でも、私の元に皇帝が訪れたことは一度もない。
しかし今、そんなことは問題ではない。
寵愛がどうとかいう話どころかこれは、私の人生の危機だった。
「それは勅命ですか」
「無論だ!」
「では、どうぞ」
勅命には逆らえない。逆らうこと自体が罪だからだ。
ゆえに、私に選択権は存在しなかった。
侍女が丁寧に整えてくれた室内は、男たちに土足で踏み荒らされる。
ここまでやるということは、もう、私の罪は確定しているのだろう。
その上、武官たちが証拠を捏造するまでもなく、私の私物にはそれらしい用具がだっぷりあるのだ。
「これは何だ!!」
「玉です。水晶です」
掲げられたのは、ざっくりと磨かれた大きな水晶の塊だ。
調度品ではなく実用品だ。置いておくと悪霊が寄り付かない。
「これは何だ!!」
「柊です」
常緑樹には魔除けの効果がある。同じく悪霊除けになる。
「こっちは!!」
「ここにも何かあるぞ!!」
出るわ出るわ、残念ながら怪しい呪具に事欠かないのが私の部屋だった。
「これは呪符だな?!」
「そうですね」
「ついに自白したか!! これで月貴妃に呪いをかけたのだろう!!」
「それは違います」
誓って、真実だった。
月貴妃――月柳玲は、私の妹だ。どうして可愛い妹を呪い殺すようなことをしなくてはならないのか。
けれど、客観的に見れば、私には動機があると思われても仕方ないのは分かっていた。
二年前、私と妹は同時に後宮へ入内した。
その時の位は、私は修儀、妹が修容。年長の私に配慮して、私の方がやや高位をもらった。
しかし、二年後の今はどうだ。
二年の間に、皇帝の寵愛を確固たるものにした妹は、とんとん拍子に出世し、今や筆頭たる貴妃の位についている。
一方、二年間皇帝に見向きもされない私は、入内したときの身分のまま、代り映えもしない。
可愛さあまって憎さ百倍。
同じ条件で妹を憎む姉は、きっとそれなりにいる。
天地神明に誓って、私は妹を憎んだことなどないが、それを立証するのは難しい。
「言い訳は無用!! ひっ捕らえろ!!」
後ろ手に縄を掛けられて、引きずられる。
男の力にかなうはずもない。踏ん張ることもできず、顔から床に倒れこんだ。
こんなことで、人生を終えることになるなんて、思ってもいなかった。
最悪の事態を想定し、さすがの私も、目の前が真っ暗になるのを感じたのだった。
※ ※ ※
引き立てられた部屋の奥には、高座があり、皇帝と寵姫である妹が並んでいた。
一方、私と言えば、縛られた上床に転がされて悲惨な状態だ。
ここまでの短い道中、無理やり引きずられてきたせいで、髪はぼろぼろ衣は乱れ、全身あざだらけだ。
大惨事だ。
「お姉さま……」
ハラハラと涙を流す女を、男が抱きしめる。“月貴妃”と皇帝だ。
妹は、生まれた時から可愛らしく、成長してさらに輝きを増し、清楚華憐たおやか上品な目覚ましい美少女となった。
姉の私でさえ、思わず見とれるくらいなのだから、折り紙付きだ。
まさに月の雫のような涙をこぼすさまは、抱きしめずにはいられないだろう。だが。
黒曜石のようなその目が、にんまりと下劣な愉悦に歪んでいるのが、なぜ分からない。
ソレは、私の妹などではない。
後宮にも、寵愛の中身が入れ替わっていることにすら気づかないボンクラ皇帝なんぞにも未練はないが、愛しい妹をこのままにはしておけない。
「柳玲!」
妹の形をしたソレを見据えたまま、声を張る。
みぞおちが痛むのは、どこかに打ち付けたからだろう。
妹に届いているのかは、分からない。
ソレに押しつぶされて意識の底に眠っているのかもしれないし、どこかにはじき出されたのかもしれない。
それでも、一縷の望みをかけて、語り掛ける。
「待っていて! 必ず、必ず、取り戻して見せるから!」
「黙れ!!」
がつんと頭を殴られて、顎を打ち付ける。ついでに舌も噛んだらしく、血の味が広がる。
それでも目だけは、決して逸らさなかった。
それを反抗的だと取られても仕方がない。だが、妖物は、こちらが少しでも弱気を見せると増長するのだ。
見えるだけで対処もできない私が、十八年の人生で学んだ唯一のことが、それだった。
「この期に及んで貴妃に暴言を吐くとは許し難い! 即刻、刑を履行する。お前のような愚劣な女でも、朕の愛しい貴妃にとっては姉だ。命までは取らないでおいてやろう。髪を切って額に焼き印を入れろ。その上で追放で許してやる」」
皇帝が宣言する。
貴族に生まれて侍女にかしずかれて生きてきた女が、目立つ印を付けられ、市井に放りだされて、生きていけるはずがない。事実上の死刑にも等しいだろう。
だが、なんでもいい。死罪でなければ、なんだってやってやる。
生きてさえいれば、いつかは願いを叶えられる。
大体、私は従順でおとなしいお姫様ではない。泥水啜ってでも生きてやる。
覚悟さえ決まれば簡単だった。
ザンバラに切られた髪と、焼けた肉の臭いに、じくじくとした痛み。
衣ばかりは高級なままだが、さっきからの騒動で一気にくたびれた。売り物になるかは不明である。
これ以上ないくらい悲惨な姿で衛兵に蹴り出された私は、後宮に向かって叫んだ。
「ふっざけんじゃないわよ!!」
これは追放じゃない。これまでの何もかも決められた人生からの卒業だ。
何もできない自分をやめるのだ。
私は、私の人生を歩く。
そして、キッチリ柳玲を助け出すのだ。
土地勘もなけりゃ宛もない。
それでも、意思だけはしっかりと、私は歩き出した。
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