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「大丈夫?」
声と同時に何かが私の肩の辺りにかかって、最初、自分でも何が何だかよく分からなかった。
視線を上げると、白いカッターシャツに濃紺のネクタイを付けた男性が自分の傍に立っていて、そこでようやく肩にかかっているのが、この人のスーツの上着だと気付いた。
「こっち。」
その人は有無を言わせない強さで私の手をとると、人混みを器用にすり抜けて、食堂から外へ出て行き、途中で
「彼もタオルを取りに行く前にすることがあるだろうに。」
と、一言だけラーメンの汁をこぼした相手に文句を言うと、後は無言のまま誰もいない空き教室に私を連れ込んだ。
助けてもらった……んだよね……?
空き教室に入って、繋がった手が離れた瞬間にそのことに気付いて、深々と頭を下げた。
「あの、ありがとうございます。こんな見ず知らずの女を助けていただき。」
「いいよ、別に。学生さんが平和に学校生活を送れるお手伝いをするのも、仕事の一環なので。」
彼の首にはこの大学職員の社員証がかかっていて、[学生課 河邑梓]と名前が書いてあった。
「と言っても、その格好でこの後の講義を受けるわけにもいかないよね。着替えとかないの?」
「サークル棟にジャージがあります。」
サークル棟は、私達が普段講義を受ける棟とは少し離れたところに、グラウンドやテニスコートがあり、その傍に建てられた部活やサークルのための荷物置き場のような棟だった。
「じゃあ、取りに行こうか。あ、でもその前に……」
河邑さんは私にスーツの上着に袖を通すように言い、通したら前のボタンを閉めてくれた。
「それで少しは隠れるでしょ。」
「あの……」
「ほら、早くして。昼からも講義があるんじゃないの?」
……一緒に付いてきてくれるんだ。たかが学生一人のためにそこまでしてくれるなんて……
「か、河邑さんって優しいんですね。」
「優しい?」
「だって、じゃあ俺はこれでって立ち去ってもいいのに。」
「あそこであんなに動揺していた君を、すぐには一人にはできないでしょ。」
「……。」
この人、気付いていたんだ……私があそこで足が震えて動けなくなっていたこと。
「あ、あの、私、社会学部一年の正木美織って言います。」
「学生課の河邑梓(カワムラ アズサ)です。」
「本当に今日はありがとうございます。」
「だから、別にいいって。」
空き教室を出て行こうとする河邑さんの後を、私ははぐれないようにテトテトとついて行った。
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