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見えない出口 SIDE B
人肌が恋しくなるような寒い日、駅のホームで彼に出会った。
大学時代の同級生、同じ学部、同じクラスに在籍していた男。
1クラス50名の殆どが男性だったから、顔と名前を一致させるのは容易ではなかった。それでも彼の事は、はっきりと覚えている。
彼と私の間に特別な思い出は無い。だけど彼の優しさだけは、しっかりと私の心に残っている。思い出はないが、彼の対しての思いはあった。
学生時代のある日、授業と授業の間、教室を移動する時に、激しいにわか雨に遭遇した事がある。
私は全身びしょ濡れになった。それは頭から水が滴り落ちるほど酷い濡れ方だった。そのまま授業を受ける訳にはいかず、私は途方に暮れた。
その時偶然、私の前に現れたのが彼だった。
同じようにびしょ濡れになった彼は、背負っていたザックの中からスポーツタオルを取り出し、濡れた頭を拭こうとしていた。
次の瞬間、私の視線に気づく。
頭を拭こうとしていた手を止めた彼は、つかつかと私のほうへ近づいてきて、握っていたスポーツタオルを差し出してきた。
「良かったら、どうぞ……」
そう言い残して、彼は私の前を去った。
先に使ってください。私はそう言うつもりだった。
だけど私に背中を向けた彼は、あっという間に遠ざかってしまう。
私は渡されたタオルで、顔を拭き、髪の毛を拭き、全身を拭いた。
タオルは、ずしりと重くなった。そのまま返す訳にはいかない。だから洗濯をしてから返す事にした。
「昨日は有難う…… お陰で助かったわ……」
そう言ってタオルにお礼のクッキーを添えて返した。
少し緊張していたように思う。
「良かった…… 風邪、引かなかった?」
彼はそう言って微笑んだ。その優しい笑顔は私の緊張を解きほぐし、心にぽっと灯りを点してくれた。
あの優しい笑顔…… 思い出すと今でも胸がキュンとする。
今、私に付き合っている男は居ない。
以前付き合っていた男とは三ヶ月前に別れた。
偶然、飲み屋で知り合った男だった。行きずりの恋に落ち、一夜で終わる筈だったが、二度、三度と会う事になり、気付いたら一年も付き合っていた。
初めのころは多少のときめきがあったと思う。でも月日が経つにつれ、ときめきは無くなり、会話は減り、身体を交し合うだけの関係が残った。
終わりだな。そう思ったタイミングが一緒だったのは幸運かもしれない。
後腐れの無い別れは、清々しさと、虚しさを同時にもたらしたが、そこに切なさは含まれていなかった。
理系の学部を卒業し、技術職として就職した私は、男社会の中で揉まれてきた。
心がときめくような甘い恋愛をしてみたい。そんな願望もあったが、生き抜いていくのに必死で、恋に焦がれている余裕なんて無かった。
何人かの男と交際はしてみた。だけど、どれも理想とはかけ離れたものばかりだった。
救い出してくれる人が現れないだろうか……
そんな事を思って居る時に彼に出会えた。
「やっぱり、そうだよね……」
私のほうから声を掛けた。そこに躊躇いは無かった。
寒さに首を竦め、電車の到着を待つ彼の姿を見たとき、私の心はほんのりと温かくなった。
電車の方向が逆だったのは残念だったが、連絡先を交換する事が出来た。
随分と長い間忘れていたような、心のどよめきを感じ、ドキドキしながら電話を掛けた。
弾む心を必死に抑えて、話を紡ぎ、なんとかデートの約束まで漕ぎ付けた。
デートまでの三日間、私はエステに通い、ダイエット食に切り替え、美容パックをして眠った。 そんな事をしたって何ひとつ変わらないのは分かっていたが、何かをせずには居られなかった。
彼は、私にとっての王子様……
雨に濡れて途方に暮れていた遠い昔も、心が荒んで消えてしまいたいと思っていたあの時も、白馬に跨って、私の前に現れてくれた。
彼の事を思うと、胸が高鳴り、息が苦しくなり、頭がぽーっと熱くなる。
きっと、これこそが本当のトキメキなのだろう。
横浜駅の西口で待ち合わせをした私たちは、お洒落なイタリアンレストランで食事をした。
寡黙な彼に話しかける私。私の話し掛けに一生懸命応えてくれる彼。沈黙が漂うのを恐れた私は必死になって喋った。暴走していないかと心配し、彼の笑顔を見て安心する。ずっとその繰り返しで、料理の味なんてちっともしなかった。
彼の優しい笑顔、落としたハンカチを拾ってくれたり、料理を綺麗に取り分けてくれたり、空いたグラスにワインを注ぐ仕草も、テーブルの上で組んだ手も…… 何もかもが素敵だった。そこには常に優しさが込められていた。
二軒目のバーに入ったとき、彼が帰りたがっているのが分かった。
きっと私の事を気遣っての事だと思う。
私の身体を目当てにしていた、これまで付き合ってきた男とは全然違った。
きっと、このまま帰ったほうが良い……
「そろそろ、行こうか……」
彼がそう言った時、私は頷くつもりだった。
彼が描いている出口から退場するのが、一番スマートな答えだったように思う。だけど私の心は、それを許さなかった。
私は彼を誘った……
嫌われると思った。ふしだらな女だと思われたかもしれない。
だけど、こんなチャンスはもう二度と来ない。
このまま、このデートが終わってしまったら、もう次はやって来ない。そう思えてならなかった。
優しい彼は、私の誘いに付き合ってくれた。
ベッドの中でも彼は優しかった。
私が激しく求めても、彼は最後まで優しい人だった。
彼のその無垢な優しさを感じたとき、私の心に切なさが込み上げて来た。
彼の優しさは私への気遣いに他ならない。
下心のない優しさが恋へ発展する事はない。
もはや私に出来るのは、女として綺麗な去り際を演出する。
ただそれだけだった。
空の色が変わり始めた頃、私はそっとベッドから抜け出し、彼に気付かれないように身支度を整えた。
口紅を取り出した時、鏡に映っている彼が起き上がった。
残念な気持ちと、嬉しい気持ちが一緒に湧きあがってきた。
「おはよう……」
精一杯の笑顔を作って、そう言った。
「朝イチの会議があるから、先に出るね」
今日は土曜日、会議なんてある筈がない。
私は左手でスカートを握り締め、クールな女を装う。
少しでも油断したら、色んな思いが溢れてしまいそうだった。
だけど彼の優しさに報いるためには、取り乱してはいけない。
私は、どこまでもクールである必要があった。
「そんなに悪く無かったでしょ……」
彼の気持ちを断ち切るために言った捨て台詞だ。
そう言い残して部屋を出る筈だった。
それなのに最後に未練が零れてしまった。
「もしも続きがあるのなら連絡ちょうだい……」
パタン。
扉が閉まる音がすると同時に、部屋の中の世界が消えた。
私と彼の儚い恋が終わり、無の世界が目の前に広がる。
私は、ドアの前にしゃがみ込んで、涙を流した。
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