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一日限り人間
ある家に、住人が一人、飼い犬が一匹、住んでいた。
毎日夜になると、そこへ魔法使いが訪れる。家の様子を外から窓越しに、優しく見守ってくれるのだ。
ある日、飼い犬はご主人様と、いつもの公園へ散歩に行く。
飼い犬が公園を歩いていたとき、すぐさま他の犬たちがそれに反応して、注目し始める。
「彼って良いよな。毎日美味しいご飯を食べて、楽しい所にも連れていってもらえる。こんなに幸せな犬は他にはたぶんいないだろう」
「僕もそう思う。あいつのご主人様は優しいのに、僕のご主人様は怒りっぽいもん。できれば、あいつとご主人様を交換したいね」
他の犬たちからすれば、彼は夢のような楽しい生活を送っているように見えるのだ。
しばらくは散歩を楽しんでいた彼だが、そんな楽しい時間も長くは続かなかった。
いつも自分の邪魔ばかりしてくる、意地悪な犬がその場へ現れたからである。
二匹はお互いを睨み合いはじめる。今にでもお互いに噛みつきあいそうな、気まずい空気が流れていた。
飼い主たちもこのままでは危ないと感じ、それぞれの愛犬を抱きかかえ、その場から遠ざかった。
意地悪な奴はいなくなったが、楽しい散歩を台無しにされたこともあってか飼い犬はまだご機嫌斜め。
そのとき飼い犬は、仲の良い恋人たちが幸せそうにくっついているところを見てしまったことで、今度は嫌な気持ちに羨ましい気持ちが加わってしまう。
その夜、ご主人様に気づかれないよう彼はこっそりベランダへ出る。
かと思えば、夜空を見上げ、お祈りをはじめた。
彼のもう一つの日課は、毎晩一日も欠かすことなく流れ星にお願いごとをすることだった。
彼にはある願いごとがあったのだ。
誰も知らない、彼のみぞ知る秘密であった。
一生に一度だけ、せめて丸一日だけでもいいから人間になってみたい、という願いごとであった。
人間は自由な生き物だ。
いろいろなことをしたり、他の生き物にはできないことを楽しんだりする、ずるい生き物でもある。
犬はリードに縛られる生き物だ。それに対して、人間はリードに縛られない自由な生き物だ。
そんな自由な生き物に、彼は憧れていたのだ。ずっと長い間。
ある朝。ご主人様が家を出ようとすると、飼い犬が邪魔をした。
「どうして、出て行っちゃうの? ご主人様、行かないで!」
うるっとした瞳で、ご主人様を見つめる彼。寂しそうな表情だ。
しかしご主人様は、「時間がないから、行かなくちゃいけないんだ」と言い残し、家を出て行ってしまった。
飼い犬は、悲しみと怒り、そして今までこらえていた涙を露わにし、ついに泣き出した。
「ご主人様は僕のことが嫌いで、僕を置いていったんだ。冷たいご主人様なんかもう知らない! 大嫌い!」
そのとき、飼い犬の前に突如、謎の人物が現れた。
自らを魔法使いだと名乗るその人物は、「君の願いごとなら、なんでも叶えてやろう。なんでも言いなさい」と飼い犬に言うのだった。
飼い犬は動揺しながらも、正直に「僕は人間になりたい」と答えた。
魔法使いは願いを聞き入れ、飼い犬に魔法をかける。すると、飼い犬は人間の姿になったのだ。
大喜びの飼い犬に、魔法使いは加えてこう言った。
「何でもいいから、色々な場所へ出かけて色々な事をしてきなさい。そうしているうちに思いがけない出会いや発見にめぐりあうかもしれないよ」
「いいね、それ。よし、散歩に行くとしよう」
人間になった飼い犬は早速家を出て、少し不思議な散歩へ出かけるのだった。
普段の犬である自分では味わうことができない体験を、彼は今日、おもいっきり楽しんでいた。
映画館に行って映画を見たり、図書館に行って本を読んだり、美術館に行って絵を見たり……。
今日は最高に楽しい気持ちだ。
やっぱり犬より人間のほうが楽しい。そして自由だ。リードに縛られる必要なんてないのだから。
そんなこんなで少し疲れた彼は、近くにあった飲食店で休憩を取ることにした。水を飲んで、ほっと一息。
しばらくはゆっくりくつろいでいた彼だが、そのとき思わぬ出来事に出くわす。
「私ね、生まれ変わったらね、犬になりたいの!」
振り向くと、そこにはお茶を飲みながら賑やかに会話をする若者たちがいた。
彼は驚いた。犬よりも人間のほうがずっと楽しいはずなのに、なぜ自由な人間が不便なはずの犬を羨ましがるのか、と思ったのだ。
「人間は勉強したり働いたり、嫌なこともしなければいけないけど、犬はそうする必要がないから! いやむしろ、犬はたくさん遊んで良いし甘えたって良いし!」
犬である彼は、犬よりも人間が良いと思っていた。ところが、人間のほうはと言えば逆に、自分が人間であることに不満を感じているようだ。
「それね、ほんとわかる! 私も来世で生まれ変わるとしたら、人間以外の生き物になりたい」
他の若者たちも、強く共感した。
そのことにも彼は驚くが、次の瞬間、
「確かにな。この世界って本当不公平で不平等だよね! 人間ほど苦しくて大変な生き物は、他にどこを探しても絶対いないと思う。
それに対して、動物は良いよね。誰にも文句を言われず、自由気ままに楽しく生きているから!」
その言葉は、さらに彼に衝撃を与えた。
人間って世界で一番、大変な生き物なのか?
それにしては、便利なサービスや快適な環境の中で、毎日豊かに暮らしているようにしか見えない。
もちろん、常時リードに縛られているわけでもない。
そんな生き物の、一体どこが大変なのだろうか?
飲食店を出たあと、彼はしばらく道を歩いていた。先程の若者たちの会話とは一体何だったのか、考えながら。あのとき若者たちは何を思っていたのか、彼には気になって気になって仕方ないのである。
「俺が何をしたっていうんだ!」
「それはこっちの台詞だ!」
道を歩いていた途中、どこからか、大きな怒号が聞こえてきた。
複数の人たちが言い争いをしていたのだ。警察が必死に止めようとするが、一向に収まる気配がなく、喧嘩はエスカレートしていくばかり。
「お前、本当に不愉快なやつだな!」
気まずい雰囲気を感じたのか、彼は、自分でも気づかないうちに早歩きになり、その場から離れる。
その一方で、言い争う人たちを見た彼は、こないだまでの自分を思い浮かべていた。
「そういえば僕もさっきの人達とまったく同じことをしていたな。
あの意地悪な奴とは、いつも喧嘩していたし」
人間はみんな仲良しで、いつも楽しいことばかりしているものだと、彼は思い込んでいた。
言い争う人たちを見かける、そのときまで、ずっと。
「でも、犬だけでなく人間だって喧嘩するときはあるのか。
犬も人間も、いつもみんな仲が良いわけじゃないんだ。
人間もトラブルに遭うときがあるんだな」
その後も彼は、しばらく道を歩いていた。
突然、弱々しい鳴き声が聞こえてきた。
声がした方向をたどると、そこには自分と瓜二つの小犬がいた。
長い間何も食べていなかったのか、小犬はすごく弱っていた。弱々しく鳴くことしかできなかったようだ。
これはまずい! ……でもこんなとき、どうしたらいいのか? 僕一人だけでどうやって助けるか? ……いや、考える暇なんてない。この子は今危険な状態にある。一刻も早く助けなくては!
そう感じた彼は小犬を抱きかかえ、急いで動物保護施設へ向かうのだった。
施設にたどり着いた彼は、小犬を施設職員に託した。
その職員というのが偶然にも、彼のご主人様だった。
実は、ご主人様は動物保護施設で働いていたのである。
家にいるときと同じく、職場にいるときのご主人様は相変わらず優しく温かい感じだった。
彼の中には、なぜか懐かしい感情にも似たふしぎな感情が生まれた。
彼が幼かった頃。
彼は生まれて間もなくすぐ、街中に捨てられた。
それからというもの、日に日に彼は衰弱していくばかりだった。
そんなかわいそうな彼を、道ゆく街の人々は誰も助けてくれなかった。一人もいなかった。
彼がどんなに悲鳴をあげても、誰も助けてくれなかった。
自分が助けなくても、そのうち誰かが助けるだろう。人々の誰もがそう思っていたのだ。
そんなある日、彼はようやく保護される。
その後は里親が見つかるまでこの動物保護施設で過ごすことになった。
施設職員は、温かく優しい笑顔で彼を迎えた。
その表情の裏には、命を預かり育てていく、重い責任感があった。
彼の体調は日増しに良くなっていき、少しずつだが元気を取り戻していく。
ついにある日、近くにある広場で、彼は他の犬たちと活発に遊び回る姿を見せた。
それを見ていた施設職員たちは、嬉しさのあまり感動した。
こうして、楽しい日々は風が吹くように早く、すぎていくのであった。
しかし、それでも未だに里親は見つからなかった。
楽しい毎日が過ぎていくと同時に、殺処分の最終期限も近づいてきていたのだ。
一ヶ月前になっても見つからない。
二週間前になっても見つからない。
一週間前、三日前、二日前、それでも見つからない。
彼との楽しかった毎日を思い出すあまり、施設職員たちの涙は止まらなかった。
「いつまで経っても里親が見つからない。でもどうしても、この子を助けたい……。大切な家族だから! それ以前に、大切な命だから! だけど、どうしたらいいのか、まったくわからない……」
誰もが、心のうちでこう思っていた。絶望と悲しみに陥って。
ところが、殺処分の一日前、誰もが思いもしなかった出来事が起こる。
タイムリミットが迫っていた、まさにそのときだった。
「誰も引き取らないなら、私がこの子を引き取ります」
何の前触れもなく、救済者が現れた。
「誰もこの子を助けようとしない。なら、この子を救えるのは私ただ一人しかいない」
その救済者こそ、現在のご主人様であった。
施設職員たちは、歓喜の声をあげ、みんなが涙を流した。
こうして彼は、かけがえのないたった一つの大事な命を、救われた。
それからというもの、彼とご主人様は同じ屋根の下で暮らすことになった。
彼が今、平凡な毎日を過ごしていたのも、あの時ご主人様が自らの手で彼を育てようと決意したからに、他ならないのだ。
「なんか、懐かしい気持ち……。初めて君と出会った、あの頃を思い出すね……」
我を忘れた彼は、本音を隠せずにうっかり呟いてしまった。
「えっ、何ですか」
ご主人様のこの一言で、彼は慌てて気を取り直した。
「いいえ、何でもありません! 大変失礼しました!」
なんとか誤魔化して、急いで施設を飛び出した。
ご主人様に怪しまれるのでは、もしかしたら本来の正体がバレるのでは。モヤモヤした気持ちで、彼はいっぱいになっていたのだ。
「何なんだろう、あの人」
ご主人様は不思議に思いながらも、特に気にする様子を見せなかった。
施設を出たときにはもう夕方になっていた。冷たく荒い風に吹かれながら、彼は家へ帰った。
赤ちゃん犬の無事を祈って。
「あなたがそんな人とは思わなかった。もういい! 私、あなたのこと嫌い!」
「ああ、君がそういうなら、好き勝手にしろ!」
帰路の途中、また怒鳴り声が聞こえてきた。こないだ出会した恋人たちが大喧嘩をしていたのである。
互いに言い合ったあと、こないだまで仲良しだったはずの恋人たちは別れてしまった。
帰宅後。彼は、ベッドに寝転びながら、しかし、真剣に物事を考える、ただそれのみに集中力を注いだ。
「人間も、怒ったり悲しんだりするんだな」
今まで彼は、ご主人様が家を出る行為を、自分を置きさりにして一人だけ楽しみのために家を出る行為なのだと思い込んでいた。
「実はご主人様は影でこんなにがんばっていたんだ。なのに僕はいつも甘えてばかり、ワガママばかりだった。そう思えば、こないだは書類にイタズラをしてすごく怒られちゃったな」
過去の自分を見つめ直す彼。それだけではなかった。
飲食店の若者たち、路上で言い争う人たち、喧嘩別れした恋人たち。
そして、尊い命を救う英雄、すなわち動物保護施設の人たち、その一人であるご主人様。
みんな、彼が散歩の中で出会った人たちだ。みんな、人間だ。
人間は、ときに誰かと衝突する。
誰かと傷つけ合うときもある。
しかし、ときに誰かを助けようと、誰かのためになろうと、がんばるときもある。
その誰かとは、自分と同じ人間だとは限らない。
犬や猫、他の生き物を助けてあげるときもあるのだ。
彼はそんな優しい生き物に、ますます恩返ししたくなった。
せめて、感謝だけでもしたい気持ちが強まった。
「僕のために、みんなのために、毎日がんばるご主人様のためになりたい。だけど、犬である僕には何ができるのか?」
彼の様子を、窓の外からそっと魔法使いが見守っていた。
「彼が成長する予感が感じられる。とても嬉しいことだ。ああ、私もそろそろ、ここを離れなくては……」
魔法使いは一人こう呟くと、家の屋根から飛び立ち、どこかへ去っていった。
日付が変わる頃の深夜、「ただいま」の声が聞こえ、飼い犬は目覚める。
ご主人様が帰って来たことに気づいた飼い犬は急いで玄関に向かう。
そのとき飼い犬はすでに、元の犬の姿に戻っていた。
仕事で疲れていたのか、ご主人様は元気をなくした様子だった。
しかし愛犬を見た瞬間、それは和やかで穏やかな顔つきに変わる。
「君がいると、辛いときもがんばれる。ありがとう」
ご主人様は、愛犬を抱きしめた。
「犬である僕にも、できることはあるんだ。ご主人様のためになることはできるんだ」
一人と一匹は、暖かい気持ちになった。
それから数日後、彼の家へ新しい家族がやってきた。それはとても可愛らしい小犬の赤ちゃんだった。
おわり
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