1 遭難

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 1 遭難

    西暦二千数百年。  亀裂だらけで所々抜け落ちたアスファルト。白線はてんでばらばらに散らばっている。燃えずに残った民家の基礎がそこに人間がいたことをほのめかしているが、そこに生者の気配はない。  荒野の一角に山のように積まれた人間だったもの。暗い顔で歩いてきた青年は、その山に肩から引きずり下ろすように新たな骸を投げた。ひと仕事終えた、と汚れた両手を叩き、額に浮かんだ汗を拭ってからすっかり色の消え失せた街を見渡す。所々小火があがっていて、焦げ臭い匂いが風に乗って鼻腔をつんざく。その匂いの正体が人だと知っているだけに吐きそうになるのをこらえて山を後にした。  夜。人山を肌寒い秋の風が撫で、そこがかつて栄えていた都市――東京とは思えない静けさが荒野を包み込む。  真夜中になった頃だろうか、山の頂から突如黒い筋が立ち上った。ろうそくの煙のようにゆらゆらと揺れたそれはだんだん大きくなり、生草を燃やしたときのようにもくもくと上がる。  山が炎を出さずに燃えている。暗闇の中でさえ視認できるほどに真っ黒な煙があがり、何かがパチパチと音を上げいる。  翌朝残っていたのは骸がまとっていた布だけだった。人肉の山は忽然と姿を消していたのである。  ――四百年後  三月半ばのこと。そろそろ春になっても良い頃だがここ数日間ずっと雪が降っていた。東京の外は随分前に放棄され誰もいないはずなので分からないが、とにかく冬は雪が積もるほど降るのだ。  東京から西へ、白く染まった山道を進む人影がある。その人は灰色のフードを目深にかぶり、鼻から下を真っ赤なマフラーで覆っていた。体格からして女性のようだが、目すら見えないフードのせいでよく分からない。  ここは東京から徒歩一日ほど進んだ名も無き土地。かつて伊豆と呼ばれていた冬の原生林だ。彼女は足場の悪いその森を、疲労のせいで背負ったリュックの重さに揺さぶられ、右へ左へふらつきながらなんとか倒れず歩いていた。 「やっと日が出てきた……」  私、一葉(かずは)は不審者のような格好で西へ進んでいた。長く続いた夜闇と寒さに凍えた手足には感覚がなく、頭もぼんやりしているのを気合いで寝ないように必死で前へ進んだ。  八時頃になってやっと顔を覗かせた太陽の光が雪に反射し、下から突き刺す銀に目を細める。朝日が当たり背中が少し気持ち暖かくなったのでうーん、と背筋を伸ばすと、刺すような冷たい風がフードを掴んで取り払ってしまった。耳と頭がキーンと痛み、慌ててフードを被り直す。  景色は歩けど歩けど変わり映えがしない真っ白な雪景色だ。辺りが明るくなって「こんなに白かったんだ」と驚きもするが、それは一瞬だけで、あとは進んでいるのかすら分からないほど同じ景色の繰り返しだった。  枝の上に積もった雪を見ながら、何でこんな寒い思いをしているのだろう、と家を出てきたことを後悔した。  理由は勿論自分が一番よく分かっている。私は家出をしたのだ。寒くて冷たくて仕方なくても、それでも戻るよりはマシに思えるほど。 「あ、思い出すだけで吐き気してきた」  思考を他に回そうと独り言をつぶやく。口を開けた途端に「煩い」とでも言いたげに木々がどかどか雪を落とした。 「……さっきまでは何も反応しなかったじゃない!」  苛々してさっきより大きな声で吐き捨てる。今度はなんの返答もよこさなかった。よく知った反応、無視である。  マフラーを首まで押し下げると世界が大きく開けた。自分より大きなものばかりが大きな枝を広げて侵入者を睨みつけているようだった。  家族は捨てて、友人には捨てられた。思考回路を持たない木にすら嫌われているのだから、私の居場所はどこにもないのだろう。仕方の無いことだ、全て私が悪いのだから。  空を仰ぐ。考え無しに飛び出してきたことを後悔した。  私は東京を飛び出した瞬間から死ぬつもりでいたのではなく、生きる環境を変えたかっただけだ。しかし計画を立てて地図とにらめっこしてから目的地を決め歩いているわけではない。冷えた頭があまりに無謀なことだったと過去の自分を笑った。  体力が限界を迎えている。  ここで止まったら二度と動けないだろう。動けなくなったら雪の下の死体になる。嫌なことから逃げて挫折したみっともない人で終わるのは嫌だ。世界がどれだけ生きにくい場所だとしても、死にたくない。負けたくない。  太陽が真上に来たくらいの時、やっと坂を登り切って開けた場所に出た。三六〇度どこをみても飽きるほど真っ白だが、疲れ切った身体で見るその霞んだ銀世界は一生忘れられないほど綺麗だった。 「あれは……」  霧の下に小さな村が見えた。屋根や壁が剥がれ落ちているのが遠くからでも分かるほどに荒廃しているが、人がいた証拠だ。あそこまで行けば風裏になるだろうし少しくらい眠ってもいいだろう。  ゴールだ。ゴールが見えた。ああやっと休める。もう頑張らなくてもいい。あのとき諦めずに進んで良かった! 「あははっ」 「……」  また背後の木の上から重いものが落ちる音がした。  振り向いた後のことはよく覚えていない。ただ、それはうんざりする落雪ではなく宝石のような金色を纏った人間で、私は自然と懐かしいそれに手を伸ばしていた。 「お願い……私、家――」
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