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「裕ちゃん、帰りにココ寄ってきて」
朝食を終えて登校準備をしていた僕に、母は一枚のハガキを手渡しながら言った。
「ほら、学校の最寄駅からちょっと行って、ね?」
僕と同じくらいの身長の母が、満面の笑みを浮かべていて、コワい。
こういう時はロクな事がない。
そう思っていると背後から、
「あやめさん、そこは確かに学校の最寄駅ですけど、反対側な上にちょっとどころか結構な坂を登った辺りじゃないですか」
と、幼馴染みの薫が僕越しにハガキを覗き込みながら言った。
隣家に住む薫は、登校前にウチに来てお茶を飲んでいく。
「やっぱり幸子さんの淹れるお茶は美味しい」だそうである。
因みに幸子さんとは我が家の住み込みの家政婦さんの事で、僕たちが生まれる前から勤めてくれているから、最早家族のような存在である。
幸子さんは幸子さんで「朝から薫さんのお顔を拝見できるのは本当に眼福です」と言ってご機嫌なのでWIN-WINである。
「いいじゃない若いんだから。高校一年生なんて体力有り余ってるでしょ。友達のお店なんだけど、見ての通り今日がオープンなのね。行くって言ってあったんだけど、仕事が入っちゃって行けないの。だから代わりに、ね?」
裕ちゃんが行ってくれれば、私が行けなくてもギリセーフだから、とか言いながら電子マネーのカードをハガキの上にのっけてきた。母が僕にお遣いをさせる時用にわざわざ作ったカードである。
変なところが細かい。
「…分かりました。何買って来るの?」
母の「ね?」に、僕の拒否権はほぼないのでサッサと諦め話を進める。でないと電車に間に合わなくなる。
遅刻は嫌だし、薫を巻き込んでは申し訳ない。
薫は気にしないだろうけど僕は気になる。
「メロンパンとクリームパン。後は好きなもの買ってらっしゃい」
僕の制服のネクタイをちょこっと直しながら母が言った。メロンパンは母の好物だ。
クリームパンは幸子さんの分かな?幸子さん、この前まであんぱんブームだったけど変わったのかな?
そんな事を考えながらコートを着、マフラーを巻く。
薫と共に玄関に向かっていると、見送りに母と幸子さんが追いかけてきた。二人とも短時間の見送りとは思えない完全防寒仕様である。
蕾が膨らみ始めた梅を横目に見ながら、前庭を抜けて通用門から外に出た。
朝の空気は澄み切っていてとにかく寒い。
「いってらっしゃい。気をつけてね、二人とも」
白い息を吐きながら笑顔の母と幸子さんが手を振った。
薫の家の方を見ると、薫の母親の都さんも庭から手を振っていた。
まあ、しんどいし面倒だけど、今日の放課後はちょっと頑張って坂を登ろう。後に用事がある訳でもないからゆっくり行ってこよう。
そう僕が前向きに考えた時である。
「あ、裕ちゃん。5時半には帰ってきてね。お母さん次の用事があるから。メロンパン食べてから行きたいの」
「えっ?」
邪気のない母の声に思わず振り返ると、これまた邪気のない笑顔の母が、
「ね?」
と念押しした。口が開いたままの僕の背中を、横に立つ薫がぽんぽんと叩いた。
「パパッと行って快速に乗れば間に合うさ」
「そうかもだけど…」
見上げると、薫の少し色素の薄い長めの前髪が、朝の光を受けてキラキラと輝いている。
僕はうなだれ気味に歩き出した。
「その調子じゃいつもの電車に乗れないぞ、裕那」
少し前を歩いている薫が微笑みながら振り返る。
僕は慌ててスピードを上げた。
薫の隣に追いついて、
「このハガキの感じだと可愛いお店っぽいよね。みなちゃんも誘ってみようかな?」
と、勝気な美少女の幼馴染みを思い描きながら提案してみる。
「そうだなあ。店自体は美波の好みだと思うけど、問題は坂だよなあ」
顎に親指を当てて「お前もそう思わないか?」という視線を送ってくる薫に、僕は小さく頷いたのだった。
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