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というのが今朝の話である。
駅で合流した美波には「坂がキツいから嫌よ。それに一応部活あるのよ、今日」とあっさり断られ、もう一人の幼馴染みの弘康にも「俺も部活だからパス〜」と断られてしまったので、結局薫と二人でパン屋への坂を登った。
僕たちの通う私立咲桜学園高等部の最寄駅は、鉄道3社が乗り入れるそこそこ利用客の多い駅で、故に反対側の出口というのは案外遠い。
そしてさらに坂を登り、目的のパン屋を見つけると予想以上に混んでいて、これは予想通りに女性だらけの甘い香りの店内で、どうにか店主を見つけ出し、挨拶をして買い物をし、帰路についた。
学園の最寄駅からは少し遠いのだが、ここは別の路線の駅が近くにある商店街の一角で、近くには高校などもあり割と賑わっている、ただ、残念ながらここの路線はウチの方向には走っていない。
という事で、来た道を下っている。時計を見ると母との約束に間に合うかどうかは微妙なところだが、あの店の混み具合から考えるとかなり順調だと言える。
それもこれも、付き合ってくれた薫のおかげだったりする。店内外の女性客の大半が薫に見惚れている間に、僕は用事を済ませる事ができたのだから。
「裕那、この道入ろう。その方が早い」
そう言って薫が指差す先の道は、見るからにアヤしい道である。ただ、まだ時間が早いので人影はまばらだ。
「で、でもこの道はちょっと…」
躊躇う僕に、
「半分の店は準備中だ。サッと通れば大丈夫さ。あやめさんとの約束に間に合わせたいだろう?」
薫はイタズラっぽい笑みを浮かべて言った。
大きな手が伸びてきて腕を掴まれる。
「ほら、行くぞ」
「ホ、ホントに大丈夫?補導されたりしない?」
腕を引かれてドキドキしながら大人の通りに踏み入れる。
「通り抜けるだけだろ。平気、平気。そんなに気にするな」
笑いながら歩く薫に連れられて、夜に向けて目覚めかけた街をうつむいて進む。もう薫の手は離れているけれど、ぴったり横にくっついて歩く。
ガチャガチャと重そうな酒瓶のケースや、大きな花束などが忙しそうに運ばれて行き、すれ違う僕たちに気を向けるヒマはなさそうである。
僕は少し落ち着いて通りを見渡した。
細い路地があちこちにあって、どこまで街が続いているのか見当もつかない。
「ほら裕那。もう出口だ」
薫の声に前を見ると、行きがけに登った坂の途中の辺りに出るようだ。
確かに近道である。
元の坂道に出て、ホッと息をついた。
遠くから電車の音が聞こえてきていた。そろそろ夕方のラッシュの時間である。
「このペースなら次の快速に乗れそうだな」
腕時計を見ながら言う薫を見上げると、薫は「よかったな」と言って笑った。
「遅れたら週末にあるあやめさんの華道展の手伝いがキツくなりそうだもんな」
「それは…考えてなかった…。てゆーか、元々金曜の放課後からガッツリ手伝わされる予定だし」
と答えながら、台所のカレンダーがふと頭に浮かんだ。そういえば今日の夕方には「打ち合わせ」と書いてあった気がする。母のこの後の予定だろう。
母は華道の家元なのである。ちなみに普段の母と花を活けている母は、ほぼ別人だと僕は思っている。
上り下りの電車の音を聞きながら、駅に続く坂道を下っているとポケットの中でスマホが震えた。ややペースを落としつつスマホを取り出すと、手帳型のケースを開いた。
薫は少し前を歩いている。
駅を通過する特急電車の音が一際大きく響いていた。
だから僕は気付かなかったのだ。細い脇道を走ってくる足音に。
そして、
「うわっ!」
飛び出してきたその人と、思いっきりぶつかってしまった。
その衝撃で宙を舞う僕のスマホ。
相手も前をろくに見ていなかったのだろう。マスク越しでも分かるほど荒れた息遣いで崩れた体勢を立て直し、黒いサングラスを押さえつつ再び走り出そうとしている。
僕は手を離れたスマホを追った。
その時、
「裕那!」
声と同時に強い力で引き寄せられた。
僕のスマホのすぐ脇を車のタイヤが通り過ぎるのが、スローモーションのように見えた。
ややあって薫が詰めていた息をついたのが耳元で聞こえた。
走り去る車と、さっきぶつかった人物が走りながら振り返るのが、小さく見えた。
「走行音が静かすぎるのも問題だな」
僕のスマホを拾いながら薫が言った。渡してくれた時に触れた手が、ひやりとする程に冷たかった。
「スマホ無事か?」
薫が自分のカバンを拾って土埃を払いながら訊いた。
慌ててスマホを確認すると、いつも通りに動いてホッとする。画面には母からの「メロンパン買えた?」というお気楽なメッセージが届いていた。
「大丈夫。ありがと、薫。外でスマホ落としたの初めてかも。ヒロとかよく落としてるよね。あー、怖かった。お母さんには電車で返信するよ」
そう応えて、再び駅への道を下り始めようとした時である。
「きゃーーーーー!!」
「?!」
どこからか女性の叫び声が聞こえてきて、僕と薫は顔を見合わせた。
それはさっき僕とぶつかった男の人が飛び出してきた路地の奥からのようだった。
明らかに常軌を逸したその声に、僕たちは思わずその道を奥へと駆け出していた。
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