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薫が電話を切って、室内には再び静寂が訪れて、時折美波が小さく鼻をすする音だけがしていた。僕はハンカチを出して美波の頬を拭った。
少しすると藤川先生が戸田さんたちを連れて来た。
ずいぶん早い気がしたけれど時間の感覚がおかしいのかもしれない。
戸田さんと西野さんが入ってきて、坂本先生の方へ向かった。
僕は薫の背に頭を預けたまま、その気配だけを感じていた。
「ちょうどこちらに向かっていたところだったんですよ。あのフリーライターの部屋が見つかりましてね。そちらの坂本先生との繋がりが見えてきたものですから」
戸田さんがそう言うのを意識の遠いところで聞いていた。
部室内の空気が動く感じがした。
止まっていた足音が再び聞こえてきた。
ふと、薫が後ろ手に僕に触れた。なんだろうと思って薫から身体を離すと、美波もつられるように薫から離れた。
薫が振り返って僕の腕を掴んだ。
「オレたちも行くぞ。このままじゃ終われない」
そう言うと薫は僕の腕を掴んだまま戸田さんたちの後を追った。
僕はまだぼんやりと、薫に腕を引かれるままに歩いた。
美波もついて来ていた。
不思議と誰にも会わずに薫が電話で話していた通用門に着いた。西野さんが車の方に急いでいて、戸田さんと坂本先生がその後に続いて歩いていた。
僕たちの足音が聞こえたのか坂本先生が振り返って立ち止まった。
「…3人とも、悪かったね。巻き込んでしまって」
坂本先生が僕たちの方を見て言った。
僕は何と答えればいいか分からなかった。
美波も何も言わず僕の腕を取って両腕で抱きしめた。
「謝られても、オレはあなたを許しませんよ」
見上げると、薫は強い視線で坂本先生を見据えていた。その視線を受けた坂本先生は、束の間気圧されたように目を見張り、やがて薄い笑みを浮かべた。
「怖いなあ、朝比奈。心配しなくても、もう僕は2度と君たちの前には現れない。もう2度と、君の大切な松宮を傷付けたりしない」
そう言って坂本先生は僕たちに背を向けた。
僕の腕を掴んだ薫の手に力がこもった。美波は僕の腕を抱いたまま俯いていた。
僕は、僕はただ、先生の後ろ姿を見ていた。
もう2度と、会う事はないのだという。
西野さんが運転席に乗り込んだ。戸田さんが後部座席のドアを開けて坂本先生に乗るように促している。
黒い男はもう現れない。
日常が戻ってくる。
でもその日常に坂本先生はいないのだ。
もう、朝の校門で僕たちを出迎える事はないのだ。
こんなに簡単に、日常は壊れてしまうのか。
冷たい風が目に染みた。
戸田さんが会釈をして車に乗り込んだ。藤川先生が頭を下げるのが視界の隅に入った。
バタンとドアが閉まる音がして、同時にどこかでブツッと何かが切れる音が聞こえた気がした。
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