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お昼前に美波から連絡があった。「どっちの家にいるの?」と「じゃあ14時前頃に行くわ」という短い会話で電話は切れた。
予告された通りの時刻に美波と弘康がやって来た。弘康はいつにも増して険しい表情で、美波は無表情だった。
美波は僕と薫を順に見て、
「私はね、坂本先生が話さなかったその先を聞きたいの」
と言った。
「私が、私たちが部室を出るまでは、坂本先生はいつも通りだったわ。裕ちゃんもアーチの仕上げを任されてっていうか押し付けられて、ちょっと不満気に見えたけどそれだけだった。なのに次に行ったらまるで別世界だったわ。いつの間にか薫くんは来てるし、裕ちゃんの足元には倒れた椅子があったし。変だなとは思ったのよ。思ったんだけど、正常性バイアスっていうの?とりあえず普通のつもりで入ったの。そしたら…」
「分かった、美波。そこからは部屋の方で聞くから」
薫が美波の肩に軽く触れて言った。幸い母も幸子さんも玄関に出てきていなかった。
2階の僕の部屋に入って襖を閉めた。
弘康は一つため息をついて上着を脱ぐとハンガーに掛け、美波を振り返ると無言のまま美波のショールを取った。美波は弘康を流し見て、コートのボタンを外し肩まで下ろした。弘康はそのコートを美波の華奢な両肩からスッと下ろすとハンガーに掛けた。
僕は美波の顔をじっと見て言った。
「…お母さんたちには全部は話してないんだ。でもみなちゃん、あの後にわざわざ聞くほどの事は起きてないよ?」
美波は強い瞳で僕を見返した。
「それでも、よ」
階段を上ってくる足音が聞こえてきた。
幸子さんがお茶を淹れてくれたんだなと僕は思った。僕たちはいつも通りの、ただの集まりを装って幸子さんからコーヒーとクッキーののったトレイを受け取った。
バレていたかもしれない。でも幸子さんは母には何も言わないだろう。
僕たちは各々いつものように座った。
「俺はアタマっから全部聞きたい。美波の説明に不満がある訳じゃねぇけど所々曖昧だったし」
弘康は胡座をかいた膝に肘を突いてそう言った。
「裕ちゃんはわざわざ聞くほどじゃないって言うけど、何があったらああなるのかは聞かないと分からないわよ」
床に座った美波のスカートがふわりと広がってスッと落ち着いた。
僕のデスクの椅子に座った薫を見上げると、左手の親指を顎に当てて思案気な顔をしていた。それからふうっと息を吐き、僕を見た。
少し苦しそうな表情に思えた。
それから薫は起こった事を順を追って話し始めた。途中、田中さんから聞いた話も交えて、俯瞰で淡々と語られた事件のあらましは、その輪郭を鮮明にしていた。
僕は完全な当事者なのに、事件の内容はこの3回目になる薫の話でやっと頭に入ったような気がした。
1回目は心がついていけなくて、2回目は母の様子が気になって、僕はどこか上の空で聞いていた。
薫は時折、僕や美波の様子を確認するように視線を送った。
僕が少ししんどいなと思っていると話は中断された。
ただコーヒーを飲んでいるだけのふりをして、薫は僕や美波の心が落ち着くのを待っていてくれた。
弘康も、話が止まっても何も言わずにいてくれた。
改めて聞いた話に、美波は赤い唇を噛んで黙り込んだ。
弘康は眉間に深い皺を刻んで頭をババっと掻いた。
僕は昨夜の薫の言葉の意味を考えていた。
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