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egg 1
「たまらない匂いだ……」
春の昼下がり、会社の連絡通路で羽崎颯大は足を止めた。
人間離れした颯大の嗅覚が、鼻先を掠めているものを見逃せるはずがない。
颯大は着ている紺色のジャケットのボタンを開ける。黒髪の頭を軽く傾げて、ネクタイを少し緩めた。
「こっちだな」
通常よりも動きが鈍い鼻で感知しながら、颯大は匂いの元へと足を進めた。
颯大は『人兎』。
人兎とは獣人の一種で、颯大の場合、本来の兎姿に加えて、人間と同じ『人型』になることができる。
けれど一部を除き、『人間』は『人兎』の存在を知らない。
人兎は己の種族を守る意味も込めて、人間には姿を隠して生き続けている。
「近いな」
社食へ向かう往来のなか、『人型』の颯大の鼻は捉えた匂いへと、確実に距離を縮めていく。
正直なところ、颯大は今、鼻息が荒くなるのを抑えて、高身長の背筋を伸ばして歩いている。
『クールな男前』で通る人型の颯大を、少しでも気を抜けば、挙動不審にもなりかねないほど、この匂いが惑わせていた。
「ここだな」
目の前にあるガラス製の壁で立ち止まる。
フロアの開けた広いリフレッシュスペースの一角。
颯大の心を、もとい颯大の嗅覚を、掴んで離さない匂いの根源がここにある。
扉のない入り口から、突き当たる大窓に面した席へと向かう。
多数の白柱の影に隠れて、背もたれの高い一人掛けのソファーが色違いに並んでいる。
その間をプランターと木製のテーブルが、一脚ないし二脚ずつとソファーが仕切る。
颯大は人気がないその最奥地にある水色のソファーへと近づいた。
誰かが腰かけている。
深く沈み込んでいるのか、背もたれ越しの座高は低い。
そこから見える茶色がかった柔らかそうな髪が時折、左右に揺れる。
颯大は足音を抑えてさらに近づくと、その誰かは手元で白く丸いものにペンで色づけている。
横顔を見ると、その誰かとは後輩の大上尚だった。
入社二年目の彼は、女性社員から「可愛い子」と人気がある。
『オオカミ』の名といえど、こじんまりとしていて童顔。性格も温厚で、どちらかといえば狼よりも子羊みたい。
颯大に気が付くことなく、彼は一心不乱にペンを走らせている。
けれど颯大はそれよりも、濃灰色のスーツを着た彼の膝に乗っているものに目が釘づけになっていた。
透明のラッピングが施された、おそらくはカップケーキ。
そう、たまらない匂いの正体は、その数個のケーキから漂う『人参』。
人兎は、人参が大好物。
特に颯大は、見境がなくなるほどに人参を愛して止まない。
我を忘れて貪ることも、少なくない。
だからこそ人型の時には、十二分に気を引きしめて摂取している。
颯大は興奮を抑えながら、優しい口調で尚へと問いかけた。
「大上、何をしてるんだ?」
平静を装ったまま、空いている尚の対のソファーへと腰を下ろした。
彼はすぐさま顔を上げて、颯大へと笑顔を見せた。
「羽崎さん! ええっと、これはイースターエッグを作ってます」
尚の手元には、プラスチック製のような卵型のカプセル。
数色のパステルカラーのペンで、簡易的な草花やら模様やらを描いていた。
友人たちとその家族とで行うイースターで使うものらしく、尚とソファーのアームの隙間に、色づいた数個の卵が詰まっていた。
「去年、初めてしたんですけど。準備が間に合わなくて食事だけになっちゃって。それで今年こそは『エッグハント』をしようって。あっ、エッグハントっていうのは子どもたちの遊びなんです」
彼は潤んだ瞳でカールした睫毛を瞬いた。
続けて「お菓子作りが趣味」だと話すと、今朝『イースター用のお菓子の試作』としてキャロットカップケーキを作り、その試食で持ってきたと言う。
尚が笑顔を交えて友人たちとのイースターの話を進める一方で、颯大は垂れるヨダレを拭い隠すのに精一杯。
その時、不意に尚が問いかけた。
「あの、よかったら、これ食べますか?」
颯大の様子に気が付いたのか、尚は持っていたペンと卵をテーブルに置くと、膝の上に乗るラッピングの一つを持ち上げた。
「ニンジンをたくさん使ってるんです。それにニンジンジュースも入ってます。体に優しいんですよ」
「ありがとう」
颯大は遠慮をする素振りも見せずにカップケーキを受け取った。
ようやくこれに辿り着いた、と喜びを噛みしめながら夢中で食べていると、話の流れで尚がイースターバニーのことに触れた。
その間に颯大はカップケーキを平らげて、幸せな余韻を味わっていた。
「エッグの傍に偶然いたのがウサギだなんて最高です!」
尚は体をくねらせる。
なんでも尚は、ふれあい系の動物園に一人でも行くほどの〈愛兎家〉らしい。
「僕、動物で一番『ウサギ』が好きなんです。だから、イースターも楽しみなんです」
颯大は尚に相槌を打ちながらも、彼が善意でくれた二つ目のカップケーキを口の中へと運ぶ。
その時だった。
「羽崎さん、知ってますか? 人間に化けてるウサギがいるって話」
尚は颯大へと潤む瞳の顔を近づけてきて、真剣な表情を向けている。
颯大の喉元を、飲み込んだケーキが通る。
随分と長い一瞬を感じた。
途端に、尚が笑顔を浮かべた。
「まあ、フィクションですよね。でも、素敵です。本当にいたら、嬉しいな」
颯大の喉元を、飲み込んだケーキが通り過ぎた。
一瞬でも「正体を知られた」と勘違いした自分が恥ずかしい。
実のところ、人兎の歴史上、人間で云う『イースターバニー』とは、「人兎が初めて人間と出会した場面」のこと。
尚の無邪気な笑顔に反して、颯大は冷や汗が伝う。
「これ美味しいな! 料理、上手だね」
尚の気を散らそうと伝えると、なぜか彼は申し訳なさそうな顔をして尋ねる。
「……あの、コスプレ、お好きなんですか?」
尚の話の論点が逸れる。
颯大は呆気に取られた。けれど、ひとまずは安堵して言葉を返した。
「そんな趣味はない」
一蹴した口調になって、颯大は気まずさを隠しながら尚の顔を見ると、彼の視線は上を向いている。
尚は颯大と視点を合わせないまま、言葉を続けた。
「触っても、いいですか?」
不意に、颯大の顔の前に向かって尚が手を伸ばす。
(……なっ、なんだ?)
こそばゆい感触が颯大の全身を駆け巡る。
途端に、尚の高揚した声が聞こえた。
「わあ! あったかいんですね!」
「えっ、あっ、待てっ……」
颯大は体が捩れそうになるのを耐える。
一方、尚は恍惚とした表情を見せていた。
「手触り、最高です」
(へっ? あっ、ちょっ、おい、おいおい、まさか……)
颯大は自分の頭へと片手を伸ばした。
(出てるーっ!)
尚は再び一心不乱になって、颯大の兎耳を揉んでいる。
混乱した颯大は、次第に視界が狭くなっていく。
* * *
頬が何度も揺れて、颯大は目を開けた。
「あの、羽崎さんですか?」
聞こえた声で起き上がる颯大を、尚は覗き込む状態で、加えてなぜか満面の笑みで見ている。
「なんだよ、改まって」
颯大が静かに瞬きをして愛想なく答えると、途端に自分の体が浮き上がった。
「なっ、なっ……、えっ!」
「ですよねぇ。この鼻筋の通った感じとか、切れ長の目とか……」
尚は呟きながら潤んだ瞳を大きくする。
颯大を舐め回すかのように尚が見ている。
「なっ、なんだ? なんなんだっ!」
たまらず颯大が声を荒げると、尚は今度は一点に見つめながら口を開いた。
「……だって、羽崎さん。白くてふわふわな、ウサギちゃんですよ」
尚の囁いた一言で、颯大は自分が兎の姿に戻っていることに気づいた。
焦った颯大は、文字通りに素早く脱兎。
尚が囁き声のまま叫ぶ。
「あっ、待って! ウサっ……じゃなくて、羽崎さん!」
(待つ訳、ないだろ!)
尚を残して、颯大は身一つで目の前の狭い空間へと駆け潜った。
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