egg 1

1/1
前へ
/3ページ
次へ

egg 1

「たまらない(にお)いだ……」  春の(ひる)()がり、会社の連絡(れんらく)(つう)()()(ざき)(そう)()(あし)()めた。  人間(にんげん)(ばな)れした颯大の(きゅう)(かく)が、鼻先(はなさき)(かす)めているものを()(のが)せるはずがない。  颯大は()ている紺色(こんいろ)のジャケットのボタンを()ける。黒髪(くろかみ)(あたま)(かる)(かし)げて、ネクタイを(すこ)(ゆる)めた。 「こっちだな」  (つう)(じょう)よりも(うご)きが(にぶ)い鼻で(かん)()しながら、颯大は匂いの(もと)へと足を(すす)めた。  颯大は『(じん)()』。  人兎とは(じゅう)(じん)(いっ)(しゅ)で、颯大の()(あい)本来(ほんらい)(うさぎ)姿(すがた)(くわ)えて、人間と(おな)じ『人型(ひとがた)』になることができる。  けれど(いち)()(のぞ)き、『人間』は『人兎』の存在(そんざい)()らない。  人兎は(おのれ)(しゅ)(ぞく)(まも)意味(いみ)()めて、人間には姿を(かく)して()(つづ)けている。 「(ちか)いな」  (しゃ)(しょく)()かう往来(おうらい)のなか、『人型』の颯大の鼻は(とら)えた匂いへと、確実(かくじつ)(きょ)()(ちぢ)めていく。  (しょう)(じき)なところ、颯大は(いま)鼻息(はないき)(あら)くなるのを(おさ)えて、(こう)(しん)(ちょう)()(すじ)()ばして(ある)いている。 『クールな(おとこ)(まえ)』で(とお)る人型の颯大を、少しでも()()けば、(きょ)(どう)()(しん)にもなりかねないほど、この匂いが(まど)わせていた。   「ここだな」  ()(まえ)にあるガラス(せい)(かべ)()ち止まる。  フロアの(ひら)けた(ひろ)いリフレッシュスペースの(いっ)(かく)。  颯大の(こころ)を、もとい颯大の嗅覚を、(つか)んで離さない匂いの根源(こんげん)がここにある。  (とびら)のない()(ぐち)から、()()たる大窓(おおまど)(めん)した(せき)へと向かう。  ()(すう)(はく)(ちゅう)(かげ)に隠れて、()もたれの(たか)一人(ひとり)()けのソファーが(いろ)(ちが)いに(なら)んでいる。  その(あいだ)をプランターと木製(もくせい)のテーブルが、(いっ)(きゃく)ないし()(きゃく)ずつとソファーが仕切(しき)る。  颯大は(ひと)()がないその(さい)(おく)()にある水色(みずいろ)のソファーへと近づいた。  (だれ)かが(こし)かけている。  (ふか)(しず)み込んでいるのか、背もたれ()しの()(こう)(ひく)い。  そこから見える(ちゃ)(いろ)がかった(やわ)らかそうな(かみ)時折(ときおり)()(ゆう)()れる。  颯大は足音(あしおと)を抑えてさらに近づくと、その誰かは()(もと)(しろ)(まる)いものにペンで色づけている。  横顔(よこがお)を見ると、その誰かとは後輩(こうはい)大上(おおかみ)(なお)だった。  (にゅう)(しゃ)()(ねん)()(かれ)は、(じょ)(せい)(しゃ)(いん)から「可愛(かわい)()」と(にん)()がある。 『オオカミ』の()といえど、こじんまりとしていて童顔(どうがん)性格(せいかく)温厚(おんこう)で、どちらかといえば(おおかみ)よりも()(ひつじ)みたい。  颯大に気が()くことなく、彼は(いっ)(しん)()(らん)にペンを(はし)らせている。  けれど颯大はそれよりも、濃灰(のうかい)(しょく)のスーツを着た彼の(ひざ)()っているものに目が(くぎ)づけになっていた。  透明(とうめい)のラッピングが(ほどこ)された、おそらくはカップケーキ。  そう、たまらない匂いの(しょう)(たい)は、その(すう)()のケーキから(ただよ)う『人参(にんじん)』。  人兎は、人参が(だい)好物(こうぶつ)。  (とく)に颯大は、()(さかい)がなくなるほどに人参を(あい)して()まない。  (われ)(わす)れて(むさぼ)ることも、(すく)なくない。  だからこそ人型の(とき)には、(じゅう)()(ぶん)に気を()きしめて(せっ)(しゅ)している。  颯大は興奮(こうふん)を抑えながら、(やさ)しい()調(ちょう)で尚へと()いかけた。 「大上、(なに)をしてるんだ?」  平静(へいせい)(よそお)ったまま、()いている尚の(つい)のソファーへと腰を()ろした。  彼はすぐさま(かお)()げて、颯大へと()(がお)を見せた。 「羽崎さん! ええっと、これはイースターエッグを(つく)ってます」  尚の手元には、プラスチック製のような(たまご)(がた)のカプセル。  (すう)(しょく)のパステルカラーのペンで、(かん)()(てき)草花(くさばな)やら()(よう)やらを(えが)いていた。  友人(ゆうじん)たちとその()(ぞく)とで(おこな)うイースターで使(つか)うものらしく、尚とソファーのアームの(すき)()に、色づいた数個の卵が()まっていた。 「(きょ)(ねん)(はじ)めてしたんですけど。(じゅん)()()()わなくて(しょく)()だけになっちゃって。それで今年(ことし)こそは『エッグハント』をしようって。あっ、エッグハントっていうのは子どもたちの(あそ)びなんです」  彼は(うる)んだ(ひとみ)でカールした(まつ)()(しばた)いた。  続けて「お菓子(かし)作りが(しゅ)()」だと(はな)すと、今朝(けさ)『イースター用のお菓子の()(さく)』としてキャロットカップケーキを作り、その()(しょく)()ってきたと言う。  尚が笑顔を(まじ)えて友人たちとのイースターの話を進める(いっ)(ぽう)で、颯大は()れるヨダレを(ぬぐ)い隠すのに(せい)(いっ)(ぱい)。  その時、不意(ふい)に尚が問いかけた。 「あの、よかったら、これ()べますか?」  颯大の(よう)()に気が付いたのか、尚は持っていたペンと卵をテーブルに()くと、膝の上に乗るラッピングの一つを持ち上げた。 「ニンジンをたくさん使(つか)ってるんです。それにニンジンジュースも(はい)ってます。(からだ)に優しいんですよ」 「ありがとう」  颯大は(えん)(りょ)をする素振(そぶ)りも見せずにカップケーキを()()った。  ようやくこれに辿(たど)()いた、と(よろこ)びを()みしめながら()(ちゅう)で食べていると、話の(なが)れで尚がイースターバニーのことに()れた。  その間に颯大はカップケーキを(たい)らげて、(しあわ)せな()(いん)(あじ)わっていた。 「エッグの(そば)偶然(ぐうぜん)いたのがウサギだなんて最高(さいこう)です!」  尚は体をくねらせる。  なんでも尚は、ふれあい(けい)動物(どうぶつ)(えん)に一人でも()くほどの〈(あい)()()〉らしい。 「(ぼく)、動物で一番(いちばん)『ウサギ』が()きなんです。だから、イースターも(たの)しみなんです」  颯大は尚に相槌(あいづち)()ちながらも、彼が(ぜん)()でくれた二つ目のカップケーキを(くち)(なか)へと(はこ)ぶ。  その時だった。 「羽崎さん、知ってますか? 人間に()けてるウサギがいるって話」  尚は颯大へと潤む瞳の顔を近づけてきて、真剣(しんけん)(ひょう)(じょう)を向けている。  颯大の喉元(のどもと)を、()み込んだケーキが通る。  随分(ずいぶん)(なが)(いっ)(しゅん)(かん)じた。  ()(たん)に、尚が笑顔を()かべた。 「まあ、フィクションですよね。でも、()(てき)です。本当(ほんとう)にいたら、(うれ)しいな」  颯大の喉元を、飲み込んだケーキが通り()ぎた。  一瞬でも「正体を知られた」と勘違(かんちが)いした()(ぶん)()ずかしい。  (じつ)のところ、人兎の(れき)()(じょう)、人間で()う『イースターバニー』とは、「人兎が初めて人間と出会(でくわ)した()(めん)」のこと。  尚の()(じゃ)()な笑顔に(はん)して、颯大は()(あせ)(つた)う。 「これ美味(おい)しいな! (りょう)()上手(じょうず)だね」  尚の気を()らそうと伝えると、なぜか彼は(もう)(わけ)なさそうな顔をして(たず)ねる。 「……あの、コスプレ、お好きなんですか?」  尚の話の論点(ろんてん)()れる。  颯大は呆気(あっけ)に取られた。けれど、ひとまずは(あん)()して言葉(ことば)(かえ)した。 「そんな趣味はない」  (いっ)(しゅう)した口調になって、颯大は気まずさを隠しながら尚の顔を見ると、彼の()(せん)は上を向いている。  尚は颯大と()(てん)を合わせないまま、言葉を続けた。 「(さわ)っても、いいですか?」  不意に、颯大の顔の前に向かって尚が手を伸ばす。 (……なっ、なんだ?)  こそばゆい(かん)(しょく)が颯大の全身(ぜんしん)()(めぐ)る。  途端に、尚の高揚(こうよう)した(こえ)が聞こえた。 「わあ! あったかいんですね!」 「えっ、あっ、()てっ……」  颯大は体が(よじ)れそうになるのを()える。  一方、尚は恍惚(こうこつ)とした表情を見せていた。 「()(ざわ)り、最高です」 (へっ? あっ、ちょっ、おい、おいおい、まさか……)  颯大は自分の頭へと(かた)()を伸ばした。 (出てるーっ!)  尚は再び一心不乱になって、颯大の(うさ)(みみ)()んでいる。  混乱(こんらん)した颯大は、次第(しだい)()(かい)(せま)くなっていく。  * * *  (ほほ)(なん)()も揺れて、颯大は目を開けた。 「あの、羽崎さんですか?」  聞こえた声で()()がる颯大を、尚は(のぞ)き込む(じょう)(たい)で、加えてなぜか満面(まんめん)()みで見ている。 「なんだよ、(あらた)まって」  颯大が(しず)かに(まばた)きをして(あい)()なく(こた)えると、途端に自分の体が浮き上がった。 「なっ、なっ……、えっ!」 「ですよねぇ。この鼻筋(はなすじ)の通った感じとか、()(なが)の目とか……」  尚は(つぶや)きながら潤んだ瞳を(おお)きくする。  颯大を()(まわ)すかのように尚が見ている。 「なっ、なんだ? なんなんだっ!」  たまらず颯大が声を荒げると、尚は今度(こんど)(いっ)(てん)に見つめながら口を開いた。 「……だって、羽崎さん。白くてふわふわな、ウサギちゃんですよ」  尚の(ささや)いた一言(ひとこと)で、颯大は自分が兎の姿に(もど)っていることに気づいた。  (あせ)った颯大は、文字(もじ)通りに()(ばや)脱兎(だっと)。  尚が囁き声のまま(さけ)ぶ。 「あっ、待って! ウサっ……じゃなくて、羽崎さん!」 (待つ訳、ないだろ!)  尚を(のこ)して、颯大は()(ひと)つで目の前の狭い空間(くうかん)へと駆け(もぐ)った。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加