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egg 2
己の身に、何が起きたのか。
こともあろうに、人兎の存在を噂で聞いたと話したばかり人間の前で、颯大は本来の姿を晒していた。
体の震えが止まらない。
その間にも、颯大が潜む木製のテーブル下の外から、尚の息の多い小さな声が聞こえている。
「羽崎さーん! はわぁ、真っ白だぁ……。じゃなかった、出てきてくださーい!」
出る訳ないだろう、と颯大の揃えた四肢は震え続ける。
颯大の目に映るのは、覗き込んでいる尚とその後ろでもぬけの殻となった白シャツに紺色のスーツの上下。袖がソファーの上で項垂れている。
「羽崎さーん? ウサギちゃ……じゃなくて、羽崎さん!」
先ほどから、こういった間違いを聞く。
尚は目の前に存在している白い兎を『羽崎さん』と紛れもなく認識している。
けれど、彼の様子はどことなく楽しんでいるように思えてならない。
(誰が出て行くか!)
再び決意をした時、見えていたはずの己のスーツの残骸と尚の姿がない。
颯大は恐る恐るソファーへと近づくと、尚の潤んだ瞳が顔を出して小声で囁いた。
「羽崎さん。とりあえず場所、変えませんか?」
どちらにせよ、このままという訳にはいかない。
颯大は腹を括って、テーブルの下から這い出た。
途端に、尚が颯大の体を掴む。彼は颯大の脱げたジャケットで兎の体を包んだ。
暗闇の中、尚の足音だけが聞こえている。
随分と歩いているみたいだった。
エレベーターにも乗ったような気がする。
しばらくして、扉の開く音と鍵が閉まったような音がしたあとで、尚の足音はようやく止まった。
次に颯大の視界が開けると、どこかの部屋の中だった。
「羽崎さん、スーツと靴、置いときますね」
声のする方を見ると、尚は椅子の背にスーツを掛けてくれていた。
未だ震える四肢を動かしながら、颯大は椅子の近くへと足を伸ばしていく。
「僕、今日、会議室の鍵持ってたんで、よかったです」
尚はネクタイをシャツの上に重ね置くと、こちらを見ていた。
「……確認なんですけど、人間の羽崎さんにはどれくらいで戻れるんですか?」
颯大はテーブルらしきところから床へと着地。尚が掛けてくれたスーツの置かれた椅子へ近づいた。
「俺たちは変化は自在だからな。さっきは油断しただけだ」
尚に後ろを向くように促して、颯大は人型へと戻った。
背中越しの尚から問いかけられる。
「羽崎さんは、人兎なんですか?」
衣服を全て身に付けた颯大は、どこか割り切った気持ちになっていた。
颯大は椅子に腰掛けて、靴下を履きながら愛想なく言う。
「もうこっち向いていいぞ。悪かったな」
尚からの問いには、颯大は答えなかった。
こちらへと向き戻った尚は、鼻息を荒げている。
「羽崎さんは、噂に聞く『人兎』だったんですね!」
尚の様子は興奮にも似た、いや、かなり興奮している。
「僕、お、お会いできて、嬉しいですっ!」
大上尚という人間は、どうやら頭のネジがどこか緩んでいるか、もしくは抜けている子らしい。
普通ならば、どう考えても、人間にとってこんなにも非現実的なことが目の前に降ってかかれば、気を失うか恐怖に慄くはず。
けれどこの大上尚という人種は、それよりも何よりも〈愛兎家〉という血が勝っているらしい。
「あのさ、大上。驚かないの? 俺のこと、怖くないの?」
颯大が冷静な口調でそう問うと、尚は頭を左右に激しく振って再び目を輝かせた。
溜め息が漏れ出た颯大は、片手で眉間を押さえた。
(どうする。大上とはいえ、人間に俺が人兎と知られてた……)
その時、尚が小さく呟いた。
「どうしよう、僕……、信じられない」
尚は両手で顔を覆うと、肩は小刻みに揺れている。
時間差か? 今になって恐怖という現実を見たのか、と颯大は為す術もない。
とりあえず尚のその恐怖を拭おうと、颯大は声を掛けた。
「ああ、ええっと、大丈夫。怖くないよ」
根拠はある。
人兎は無害。兎が人型になれる。……ただそれだけなのだから。
すると、尚が顔を上げて言葉を続けた。
「好きなものが一つだったなんて、奇跡が起きました!」
なんだ? どうした? と颯大の中では点と点が繋がらない。
「あ、すみません。こっちの話です」
尚はそう言って微笑んだ。
颯大が理解できずにいると、尚は胸を張るようにして言い切った。
「誰にも言わないので、安心してください。僕、口が堅いですから」
なぜか誇らしげな表情をした尚の姿に、颯大は思わず吹き出す。
「ああ、ありがとう」
颯大の返事のあとで、尚は三度、目を輝かせた。
* * *
ありがとう。とは言ったものの、颯大は臆病になっていた。
大上尚という人間は、約束を破ったりはしないだろう。
けれどまた彼の時みたく、人間の前で兎に戻ったとしたら、その時自分はどうなるのだろうか。
そんな不安を無視するかのように、尚は毎日颯大の元へとキャロットスイーツを持って現れる。
パウンドケーキにマフィン、ムースの乗ったゼリーにレアチーズケーキ、ドーナツにクッキー、加えてスコーンや蒸しパン、時には羊羹や大学いも風にアレンジしたものまで。
尚のそのレパートリーに、颯大もこの頃は感動すら覚えている。
「羽崎さんはドワーフホトですね。僕の四つ上だから、ウサギ年齢は二歳ぐらいかぁ。白くて柔らかい毛並みもそうですけど、なんと言っても目元のアイライン! 切れ長の羽崎さんの目だぁ」
尚に口数の多い印象はなかったけれど、兎を前にした彼は饒舌。
胡座をかく尚の片方の太腿に乗せられて、抱きかかえられて撫で回されて、颯大は其処此処を触られる。
正直、颯大は尚との接点を絶ちたかった。けれど、彼は愛兎家の血が騒いでいるらしく、毎日のように颯大を人参のお菓子で誘惑しては、まさに〈一人ふれあい動物園〉。
冗談じゃない、と初めは憤りを感じていた颯大だったけれど、尚は単に『兎に触りたい』だけの理由だった。
だから最近では、鍵の掛かる会議室の床で、『大上尚の作った菓子を、兎姿で食べる羽崎颯大の兎尻を、大上尚がもふもふする』という、颯大としてはなんともカオスな構図となっている。
尚は颯大の兎尻に顔を埋めると、しばらくは動かない。
颯大も何を気を遣っているのか、尚が触れている間は動かないようにしていた。
恍惚とした尚の小さな溜め息が、颯大の背後から等間隔に聞こえてくる。
「ふぁ~~」
元が兎とはいえ、人型の同僚と知っていて気色が悪くないのだろうか、と疑問を浮かべながら、颯大は尚の作った菓子を食べ進める。
(……あれ? もしかしなくても俺、餌づけされてる?)
そんな感覚を持ちつつも、尚が自分に懐いてくれているようで、兎の己を見る度触れる度に笑顔を浮かべる彼に対して、悪い気はしない。
むしろ、優越感さえ覚え始めている。
だけど、今日は尚の様子がおかしい。
いつものように会議室の床に並んで座ったものの、尚は菓子は持ってきているけれど、兎になれとは言わない。
ワッフルを食べている人型の颯大をも尚は見向きせず、先日描いていたカラフルになったイースターエッグのカプセルに小さな菓子やシールなどを詰めながら、時折深く溜め息を吐く。
颯大はどことなく調子を狂わされて、尚へと話しかけた。
「どうかしたのか?」
尚は浮かない顔をしたまま大きく溜め息を一つ。
「僕って、羽崎さんが好きじゃないですか」
危うく聞き流しそうなほどに、尚が素知らぬ口振りで言った。
唐突に後ろから一発殴られたような感覚の颯大を置き去りのまま、尚は表情も変えずに言葉を続ける。
「だからパートナーがいない僕だけ、友だちとのイースターに一人で参加なんですよね」
再び尚は大きく溜め息を吐くと、何ごともなかったかのように手元を動かしては、卵のカプセルに中身を詰めている。
けれど、すぐさまその手が止まった。
尚はなぜか笑みを浮かべて颯大を見る。
「な、何?」
颯大は先ほどの彼からの告白の答えさえも出せていない。
何かを期待したような尚の眼差しに、颯大は居心地が悪くて仕方がない。
「羽崎さん、一緒に行きましょう!」
尚が発した言葉の意味を、颯大はしばらく理解できなかった。
けれどなぜか、颯大は尚の潤む瞳に見惚れていた。
「羽崎さん?」
その呼びかけで、颯大は我に返る。
「えっ? ……ああ、俺は遠慮しておくよ」
颯大は訳も分からないまま生返事をした。視線を外して食べかけのワッフルを口に運ぶと、隣から重い呟きが聞こえた。
「……食べましたよね」
颯大が視線を戻すと、尚は顔を伏せて膝の上に両手で拳を握っている。
「……食べましたよね? 明日の分、なくてもいいんですかっ!」
尚が顔を上げると、彼の瞳はさらに潤みを増して、赤らんだ両頬は膨らんでいた。
その愛らしさに、颯大は不覚にも心を掴まれる。
徐々に顔を近づけてくる尚に、颯大は次第に絆されていた。
「一緒に行ってくれますよね?」
そう尚にトドメを刺された颯大は、頷いていた。
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