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「増援を呼べ!」
そう声を発して、すぐ歯を食いしばった。少しでも力を抜けば敵の刃に真っ二つにされてしまう。刃こぼれした己の刃に、相手の大太刀が交叉している。火花さえ飛び散らん力で圧されている。
だが背後からは何の反応もなかった。
「何をしている! 早く行け!」
腹の底を震わせるようにして叫ぶ。踏みしめる踵が己の意志と反対方向へ、土の上を半歩滑った。
「は、はい!」
裏返った声の返事が聞こえ、ばたばたと足音が遠ざかった。
安堵の息を──吐きたいところだが、そんな余裕はない。己の二倍以上もの背丈の鬼を相手に、この場を凌がなければならないのだ。奴の目は闇夜にもぎらぎらと赤く光っている。欲望のままに他の命を殺め蹂躙する、醜い存在であることの証だ。
指先が、掌が、感覚を失いつつある。手首が、腕が、ずきずきと痛んでいる。
一番年若の隊士に呼びに行かせたことには少しだけ罪悪感があった。責任感の強い彼のことだから、戻ってきて俺がくたばっていたら己を責めるだろう。かといって此処にとどまらせておけば、自分も参戦すると言って敵に斬られに行きそうだった。
けれど俺と鬼の他には彼しかいなかった。そもそも俺について来た時点で彼の不幸は始まっていた。
さて、どうするか。
俺には勝算があった。むしろ初めから負ける気などしていなかった。
それでも彼に増援を呼びに行かせたのは、万一のための備えか、無様に負ける姿を見せまいとする己の矜持か──どちらも俺には似つかわしくない。そのように考えること自体、笑止千万だった。
喉の奥から絞り出すような笑い声が漏れた。その声は次第に体中を震わせた。その間も俺の踵はずるずると後ろへ下がっていく。
なんと滑りやすい土か、と我ながら暢気なことを考える。
反対に、相手の呼吸は荒くなる。理性を失った、いや初めから持たぬ者の姿だ。
俺は敵が刃に力をこめた瞬間を逃さなかった。己の狂気に慄いたのだろう──とは、さすがに思い上がりもいいところだろうか。
とはいえ、俺はこの時を待っていた。
敵をかわすようにさっと脇へよけた。圧されていた刀が鈍い音を立てて相手の刃を削る。拮抗するものがなくなり、巨体が思いきり前へつんのめった。
──好機だ。
さっと身を翻すと敵の背中に渾身の一振りを食らわせた。太い唸りが大地を揺るがし、重いものが倒れる鈍い音が響いた。
終わったのだろうか。
辺りには俺の呼吸が谺するのみになった。
闇夜の中で、静寂が耳を掩う。だのに、断末魔の叫びがいまだに張り付いている。
俺は暫しの間、刀を構えたまま巨体を睨みつけた。起き上がってこないのを確認しても尚、慎重に奴に近づいた。
赤く光っていた目は、もはや宵の湖面のように黒々としていた。
俺は拳を握った。歯ぎしりした。体の何処に力を込めても、この憎しみは逃がせそうになかった。
憎い、憎い、憎い。
俺は、硬い皮膚を持つ鬼に刃を突き立てた。
鬼の隊長、どちらが敵か判らない、惨酷極まりない──どれほど誹られようと揶揄われようと、構わなかった。
俺を慕う者など不要だ。あの年若の彼でさえも。こんな姿を彼に見せなかったのは、隊長としてのせめてもの情けだった。
俺の役目はただ鬼を狩ることのみだ。
目を赤くぎらつかせ、肩を怒らせ、唾の糸を引いた牙で獲物を食い破る──穢れた存在をただ音もなく虚無へ還すのだ。
そのためには憎むべき対象に近づくことも必要だった。
何度弾かれようと、俺は刃を突き刺した。カン、カンと硬い音が執拗に鳴る。
不意に刃が奥へ入り込んだ。隙間を偶然掘り当てたようだ。柄を持ったままぐるぐると掻き回す。
今、俺は奴を仕留めただけでなく、思いのままに蹂躙している。
軟らかい肉が刃に纒わりつく。その感触が手に伝わる。
己のものとは思えない不気味な笑い声が地平線の彼方まで響いた。
快、快、快。
──愉快だ。
その時、俺の心臓がどくんと大きく脈打った。
何かが胸を圧迫している。幾重もの花弁を開かせた桜か、無数の脚を突き出す蟲か。いずれにせよ、そのようなものがかさかさと音を立てながら擦れ合い振動している。
饐えた花の臭気が口を杜ぎ、鼻を撲ち、己の存在を嘲笑う。
まるで心臓に茨が絡みついているかのように、浅い呼吸しかできない。視界が明瞭になったり、曖昧になったりを繰り返す。意識を手放すまいと目に映るものを見据えると、妨げていた何かがすっと消えていった。
「隊長! 増援を! 増援を、呼んで……」
ばたばたと大勢の足音が空気を割った。先頭を走ってきた年若が俺と目を合わせてぴたりと立ち止まった。
「き、ました……」
他の者も彼につられて俺を見る。そして、やはり同じようにその場に固まった。
皆、異質なものを見るような目で俺を見ていた。異質なもの、例えば鬼。
──鬼?
俺は己の顔を撫でてみた。別段変わったところはない。
ならば、何故。
「た、たい、ちょう、め、目が、赤く、光って……!」
年若がよろよろと後ずさった。
まさか、この俺が鬼になったとでも言うのだろうか。
己の刀を覗き込んだ。血と膏で曇った表面に顔を近づける。するとそれ自体が光り出したかのように、赤い光を反射した。
ああ、この赤は。
意識すると同時に、激しい飢えが襲ってきた。鬼の巨体を掻き回すだけでは物足りない、執拗な飢えが。
俺は、年若の隊士に一歩、また一歩と近づいた。彼は脚を震わせながら後ずさる。
さて、今宵の犠牲者は幾人か。
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