揺れ動く若き武将・小早川秀秋

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揺れ動く若き武将・小早川秀秋

 ああ、うっとうしい。いい歳こいたおっさんたちが、寄って集って、私に意見してくる。あ~だ、こうだと五月蝿くて仕方がない。  少し前なら秀吉様には恩義はあった。10歳の時に貰った亀山城。でも、元城主はあの明智光秀だよ。何か不吉なものを感じるよ。それまでは、秀吉様の後継と担がれていたのに…。あの時、運命が変わった。秀吉様と淀殿の間に拾丸(すてまる)(後の豊臣秀頼)が生まれた時だ。秀吉の後継者を我が子に。それは分かる。でも、あっさり私の豊臣籍を外すぅ。はい、お払い箱って、冷たくない。  それで邪魔だから出て行ってくれって、毛利家と関わりのある小早川家に養子に出すなんて。でも、文句は言えないよ。だって、逆らえば兄・秀次みたいに切腹させられるからね。今はちやほやしてくれるけど、お役御免となったら兄弟、親戚まで葬られた。そんな過去を見せておいて信じろはないよねぇ。割に合わないでしょう。  悪夢から逃れるために酒に走ったら、「埒も無き振る舞いが目立つ」と小言を言われ、それでも、今一度、信頼を勝ち取ろうと頑張った朝鮮出兵。意気揚々で帰ってくると、秀吉にお目玉を食らう。はぁ、やるせない。  何やらきな臭くなり動向を探ると、上杉討伐に徳川家康、福島正則、本多忠勝らが向かうと言うのでそれに参加しようと大坂に向かったのに。時既に遅し。大坂に着くともう家康打倒の挙兵が行われていて、西軍に就けと。ここで断れないじゃない。断ったらその場で(いくさ)だよ。世間的には、豊臣家とも縁があるから合流するのは問題ない。穏便にやり過ごすには、それしかないじゃない。家康様率いる軍勢は、東軍ということで敵側に。家康様は、秀吉からの不義理で落ち込む私を救ってくれた人。ついてないよなぁ私は。よりによって、三成と一緒だって。  あいつが秀吉にちくったせいで、私の人生は、狂わせられたのに。またかよって感じだよ。この(いくさ)だって流れでそうなっただけで、興味なんて全くない。それ以前に大義名分そのものがわかってないよ。勝手にやってくれ、巻き込まないでくれって、感じだよ」  関が原を一望できる松尾山に居た小早川秀秋は、東西両軍を眺めながら、これまでを回想し、思いを定めようとしていた。その心の囁きを一羽のカラスが聞いていた。  カァ~カァ~  闇夜のカラスが、秀秋の心情を代弁するも、誰も気づくはずはなかった。  小早川秀秋は、大人の世界の狭間で悩んでいた。大坂城中では、秀吉の正室・北の政所が、黒田官兵衛に相談を持ちかけていた。  「官兵衛、秀頼が跡目となる今、頃合を見て、秀秋にはどこぞやの大名家を継がせてやりたい。後継者に悩んでおる、大名はありませぬかのう」  「それでしたら、中国地方の毛利輝元様が、後継者で悩んでおられるとお聞きしております」  「おう、そうか。それでは早速、勧めてもらえぬか」  官兵衛は、北の政所の意を受け、毛利輝元に話を持ちかけた。  「お気遣いは有難いが、できれば血縁関係で後継者を決めたい」  その成り行きを生駒親正から打診を受けた小早川隆景は、驚き、慌てた。  隆景は、黒田官兵衛に本当の賢者と言わしめた人物だった。  「これは、おちおちしてはおれぬわ。秀秋が毛利家に取られてしまうではないか。ゆくゆくは、小早川家の後継者にと考えていたのに。ああ、急がねばならぬわ、急がねば」  小早川景隆は、すぐさま豊臣秀吉の元を訪れた。  「秀吉様、そろそろ隠居を考えておりまする。つきましては、秀秋様を後継者にと考えておりまする」  「うん、そうか、秀秋を後継者にか。それは良いこと。認めまするぞ」  「有り難き、幸せ」  名実ともに小早川秀秋は、筑前30万石の独立した大名となった。  これに、毛利家の裏で暗躍し、天下を狙う毛利家の外交僧の安国寺恵瓊が、いちゃもんをつけてきた。  「隆景殿、筑前は毛利の分国となるべき所、それを毛利家から離し、秀秋に譲ると申されるのか」  「何を申されるのか。考えてもみなされ、恵瓊殿、毛利家は既に八ヵ国を有しておりまする。そこへ筑前を加えれば九ヵ国となりまするぞ。豊かそうなれば、秀吉に睨まれ、いかなる難癖をつけられ、災難を受けるやも知れませぬ。だからこそ、筑前は毛利にあらず、小早川秀秋に譲ることにしたのですよ」  「そうでありましたか、短才のため、つまらぬことを申し上げて、面目を失いました。しかし、後学のために良きことを学びました」  僧侶でありながら野心家の恵瓊は、隆景の存在を疎ましく思っていた。  恵瓊は、小早川隆景の戒めを無視して、毛利輝元に石田三成を力添させ、その後に天下取りを、とそそのかした。恵瓊の怒りは、秀秋の後継者を認めた秀吉から、勢力図を塗り替えようとした邪魔な家康へと変わった。  「秀秋のがきに関わっている場合じゃないな。家康の奴、目に余るわ。三成の起こしたいざこざにここは便乗致しますか。秀吉なき今、家康を倒せばそれを追い風にして毛利の天下を狙いましょうぞ。ふふふふ」  後日、恵瓊の欲は、毒を食らわば皿まで、の毒のみを食らうことになる。奇しくも小早川隆景は、毛利輝元に遺言を残していた。  「毛利輝元様、あなた様は天下を治める器では御座いませぬ。強欲な安国寺恵瓊に惑わされ、領土を失わないように、心掛けくださいますように」  内情を知り尽くしている毛利家の重臣・隆景だからこその警鐘だった。  小早川秀秋は、利発な青年だった。秀秋は、隆景の元で多くを学んでいた。武将としても、独自の判断で行動し、時には、指揮を取っていた武将の命に背き動いて成果を出すほどになっていた。ただ、隆景の死は秀秋にとって早過ぎた。秀秋、弱冠12歳の朝鮮出兵。毛利家から毛利秀元、春日局の夫である小早川家中の稲葉正成、秀吉からは黒田官兵衛などの補佐・監督の中、名目的とは言え、総大将を任される。自らも参戦し、蔚山(ウルサン)城を包囲されて、水源を断たれ、敗北濃厚だった加藤清正を朝鮮軍の背後を襲い、救う大きな成果をあげていた。二桁の首を取り、敵大将を生け捕ったとあれば、かなりの軍功とされるはずだった。  それを面白く思わない石田三成は、ここで秀秋に功績を上げさせれば再び秀吉の秀秋に対する寵愛が復活するのではと気が気でなかった。出る杭は打たれる、は危険回避の常套句と三成は考え、もっともらしい案を導き出す。  「次期、豊臣家の後継者になるやも知れぬお方が、首取りとは言語道断。大将にあるまじき匹夫の振る舞い。断じて許しかねまする」  三成は、秀吉に提言する前に情報線を繰り広げていた。  戦場で二桁の首を取れるのは余程の達人の成せる技。ゆえに、秀秋が取った二桁の首は、女・子供・捕虜のものとだ、とうい噂が、誠しなやかに、どこからともなく、広がっていた。  SNS  (いやいや、そんな事、してないし。何言っているの。何、嘘や噂を信じて、私の話を聞こうともしない。私は秀吉様に嫌われているのか?誤解を解きたい。でも、どうすれば誤解が解けるのか?立ちはだかるのは、三成と言う融通の効かない壁だ。ああ、どうすればいいんだ。誰か私の話を聞いてくれ。気が可笑しくなりそうだ)  豊臣秀吉は、石田三成からの報告を受けて、激怒した。その結果、筑前35万石から、越前北ノ庄15万石に左遷されてしまう。  秀秋からしてみれば、若くして大軍を任され、軍功を上げねばと、命を張って、一途に努力した結果が、大将に不要な殺戮は無用と咎められ、左遷されるという理不尽な対応に不満が募るのも、仕方がなかった。  秀吉が亡くなった後、秀秋の罪は、五大老の徳川家康によって、不問とし、減封を取り消されている。この際、家康は、秀秋に諭して見せた。  「秀秋よ、武士としての意気は強く感じる。しかし、そなたは大将として、軍を率いる立場だ。そなたが、首取り合戦に参加してる時、他の部隊が窮地に追い込まれていれば、なんとする。上に立つ者は、目先の一手だけではなく、二手、三手、先を読み、あらゆることを考え、対処すること。それが、軍を守り、活かせる術となるのだよ。大将という身の置き場をよく考えなされよ」  秀秋は、無我夢中で戦績を上げて貢献する。殺戮は、大将としての自我を確信させる実感そのものだった。その考えが家康との親交を深める度に、駆け引き、戦略という奥深い渦の中に巻き込まれていく。  SNS  (家康様は、叱り行けるのではなく、諭してくれた。大将とは何たるものかを。経験の浅い私は、戦績とは狩りの延長だと勘違いしていた。自分のことしか見えていなかった。大将として全体を見ることの大切さを知らなかった。そう、知らないことばかりだ。腹を割って話せる相手がいない。希望は、家康様。それで、武将としてお傍で学ばせてもらおうと、大坂に向かったのに…)  豊臣家の後継者として名前が上がった程の秀秋は、元・豊臣五大老の一人、小早川家を継いだ。小早川家は、中国地方を納めている関ヶ原の戦いの西軍総大将とされた毛利家の家臣でもあった。秀秋は自分の意志に関係なく、血筋や立場上、西軍に組み込まれたと感じていた。納得しきれない流れに飲み込まれていった。三成への恨み、家康への恩義。何より、寂しい心の風穴を埋める温もりを欲した。それが、関ヶ原の合戦での決断の大きな引き金になっていた。  三成を困惑させたのは、合戦の敵方には、秀秋が朝鮮出兵で親交を深めた人物が多くいたことだった。三成の台頭で、居場所を失った加藤清正、朝鮮出兵での補佐・監督、後の小早川家の後継者と世話になった黒田官兵衛。罪を許し、大将とは、を親身になって教えてくれた徳川家康がいた。  小早川秀秋からすれば、自分が西軍にいる意義を見いだせないでいた。自分の出生が豊臣家と深い関係にあること。小早川家と関係を持つ毛利家が西軍に就いたこと。  大嫌いな石田三成を守る立場にいること。身は、西軍。心は、東軍。と言うジレンマの中で、葛藤が決意を殴打する。秀秋の苦悩は、西軍、東軍共に知るところだった。  「爺、この戦いは何事か。家康様が豊臣家崩壊を企んだ謀反か。違うであろう。要は、三成派と三成に不満を抱くものを束ねた家康様との戦いではないのか。ならば、私は、東軍にいても可笑しくないではないか」  「そのようなこと、軽々しく口に出してはなりませぬ」  「わかっておる。爺だから、話すのだ」  「心中、お察し申し上げます」  「なぜ、私は西軍におる。爺も知っておるだろう。私が三成を嫌っておることを。朝鮮出兵時の失態を秀吉様に逐一報告され、秀吉様から大目玉を食らったことを。その結果、信頼を失墜し、領地まで取り上げらえたではないか。そんな時、秀吉様との仲裁に入り、失意のどん底にいた私を、救ってくれたのは家康様ですぞ。その家康様を敵に回して戦うなど、腑に落ちませぬ。戦う相手は、三成であろう」  「また、お口が過ぎますぞ。誰が聞いておるか分からぬではありませぬか。ほら、壁に耳あり、障子に目あり、と申しまするでしょ」  「こんな山奥に壁や障子などありませぬ」  「油断はなされるな、山奥だからこそ、会話が筒抜けになることも御座います」  爺の懸念は、見事に的中していた。茂みの中には、家康の家臣、服部半蔵が差し向けた伊賀者が、その会話の全てを聞いていた。  「秀秋は悩んでおるのか。ならば目を覚ましてやりましょうか」  「何を仕掛ける天海殿」  「傍に居れば平手の一発も効果ありましょうが、ここではそうはいきませぬな。なら、ちと、気を引き締めてやりましょう」  「で、何を致す」  「鉄砲を打ち込んでやりましょう」  「そのようなことをすれば、わしが秀秋の命を狙っているようではないか」  「秀秋ならわかるはずですよ。命を狙ったものではないと言うことを」  「そうであろうか…。いや天海殿が言うには自信があってのことよな」  「勿論で御座います。秀秋の人成は把握しておるますゆえ」  悩む秀秋は、大人の事情の狭間で考えが纏まらずにいた。その背中を押したのが、秀秋の傍に向けられた東軍からの数発の銃弾だった。  「家康様が怒っている。目を覚ませと。自らが信じ、活かせる道は、どちらにあるかと。決断せよ。それが、大将としての才覚だと」  秀秋は、鉄砲の一発、一発の音が、家康からの助言のように聞こえていた。  まだ、若く、経験もない。知らぬことも多い。信じるべき者は、自らを理解し活かし、裏切らない者。それが、今、東軍にあった。そう思った時、秀秋の心は、吹っ切れた。秀秋は、鎖を引きちぎった狂犬のように、血気に任せて行動に移した。それは、家康にとって、秀秋の決断は、軍功と認めさせる行いとなった。秀秋は自分の選択は、間違っていなかったと、興奮さえ、覚えていた。三成の時とは逆に、禄高、領土も大幅に増えた。秀秋は、栄光の裏に、密かに広がる漆黒の闇に気づくはずもなかった。  合戦後、しばらくの間は、平穏だった。日が経つと話題は、戦犯探しに移っていった。小早川秀秋の取った行動に、不穏な雲が襲い掛かる。西軍に参加したものたちは敗者の憂きなの鬱憤を晴らすために。東軍参加者は、裏切り者でありながら功績を認められた嫉妬心から。妬み、辛みを色濃くした誹謗中傷が、どこからともなく、風に誘われ、囁き、秀秋の耳に入ってきた。  苦悩の闇に巻き込まれていく秀秋は、相談相手を探す。しかし、合戦の後始末で、誰もが多忙を極めていた。そこへ自分への誹謗中傷を耳にする。明白(あからさま)でなくても、周りの者が距離を置いているように思えた。誰にも、相談できずに秀秋は、先の見えない心の闇に、足を踏み入れて行く。  心の闇は、孤立、自閉、疑心暗鬼、人間不信を招き入れた。闇を切り開く、光の使者の介入をも拒むように。  秀秋は徐々に心を病み、精神的に追い込まれていった。妄想、発狂、恐怖、幻影、奇行のオンパレード。精神的に破壊され、狂気の中、命の終焉を迎えてしまう。大人の中で必死にもがいた青年は、その重圧に押し潰されていった。秀秋の夢は、天下人でなく、自分の領土を守り、そこに暮らす者たちと、穏やかに過ごすという、安らかな願いだった。それは、目前にして脆くも崩れ落ちていった。秀秋に足らなかったものは、親身に聞いて貰える、一目置ける存在を得られなかったことだった。  織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康も。それぞれ、裏表の違いはあれど意見を交わせる参謀的側近が存在がいた。それも、複数人。複数にするところに鍵があった。それは、常に閉塞的な考えを避けられ、多角的に検討できる点にあった。船頭、多くして山を登る、の例えは、先導能力に欠けた主導者が、欠如点を補うために、多くの船頭を用いた時の話。結果、考えがまとまらず、方向性を見失う。そして、あらぬ方向に進む例え。多角的に物事を認識・対応するために、様々な経験と知識を得る。それが主導者の条件のひとつだ。いや、ものの考え方の基本だ。いい恩師に出会えるか否かで、主導者としての才覚にも影響が出る。毛利家のように、ひとりの参謀に頼ったこと、自己中心的に考え、周りに無関心すぎれば、自ずと身を滅ぼす道を歩む。  人徳を得て、側近的参謀を得るには、秀秋は若過ぎた。  小早川秀秋、享年二十一歳の波乱万丈の人生だった。
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