4人が本棚に入れています
本棚に追加
唖然として浜辺に向かって泳いでいく人魚姫を見ていた。人魚姫は砂浜の上
にその人を横たえると、ほんの少し心配そうに見つめて海の中へ戻っていっ
た。あたしはとっさに海に潜って、姿を隠した。泳ぎ去っていく人魚姫を見
送ってから。あたしは陸に向かった。空の端は白み始めている。波打ち際に半
身を出すと、海の中より寒かった。
動かないその人の頬に手を当てるとあたしと同じくらい冷たくて、けれどそ
の手を胸へと滑らせると温度があって、心臓が動いているのが伝わってきた。
生きている。その時、あたしの濡れた髪からその人の唇へとしずくが落ちた。
それに反応するように、体がピクリと動く。ゆっくりと開かれる瞼が開かれる
と、真昼の海のように青い瞳が、水平線と平行に差し込まれた朝日に輝いて、
あたしの姿を見られることなどどうでもいいと思った。時が止まったような気
がした。弱々しく咳込んで水を吐き、かすれた声であたしに話しかける。
「……助けてくれてありがとう。あなたの名前は」
名乗ることなどできない。彼はあたしのことを人魚姫と勘違いしている……。
名乗る名前など持っていないただの人魚のことを。
この美しい人間の男の瞳に映っているあたしはあたし自身じゃなくて人魚姫。
気付いてしまったらもう一秒だって見られていたくなかった。
まだあたしの尾ひれには気づいていない。今なら万が一、人ではないと思わ
れてしまっていたとしても、意識がもうろうとしていた時に見た幻だったと考
えるはずだ。どうせ、今のあたしにできることは何もない。人魚の身体は冷え
た身体を温めてやることもできない。陸に上がることのできないあたしは、誰
か通りかかった人間が助けてくれるように願うことだけだった。
最初のコメントを投稿しよう!