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生卵を割ったら黄身が二つ。
早朝の台所で朝ごはんの支度に余念なく、スクランブルエッグを作るみごとな手さばき。
忙しい朝食の支度で今日一日があわただしくなるのを肌で感じている。
朝から黄味二つの卵に食卓での川崎幸治の気分はハイテンション。
料理には人一倍のこだわりを持っている。
スクランブルエッグにはウィンナーソーセージ、レタスとせん切りのキャベツを添えるのが定番で、あとはトースト1枚とトマトジュースが川崎の朝食のスタイルである。
窓から差し込む7月の日差しはまぶしく、レースのカーテンを通してフロアに突き刺さるように降り注ぐ。
今のシーズンは朝の6時で既に室温が25度以上。
こんな日はどこか涼しいところで読書でもしたいのが本心である。
川崎はつい一週間前に京都府向日市のこの物集女町に引っ越してきたばかり。
それまでは、神奈川県の横浜に居たのだが、今まで都内の大学院で物理学の実験助手を務めていた。
先月でその仕事に見切りをつけて、この町でカフェを営もうと、その勉強に踏み出したところだった。
この近くの店舗を改装して、来月8月下旬のオープンをめざして着々と準備を進めている。
川崎は人間関係に左右されずに自分のペースでスローに暮らしていきたかった。
仕事が忙しくても何であっても、好きなことを組織から離れてしていくことに川崎は意義を見出していた。
今日は京都まで出て、知人に紹介してもらった家具製作所に出向き、店内のテーブル、椅子を発注する予定である。
食事が済んだらすぐに出かける算段だった。
だが、引っ越してきてからは少し周囲の様子がおかしなことに気づいている。
引っ越してきたその日のこと。
急に自分の心境を大きな声を上げて誰に向けて語るでもなく、話し出す人を見かけた。
そんな件を思い出しながら、トーストを口に運びつつ思い出してみる。それから、こんなこともあった。
「横浜から参りました〝川崎〟です」
「川崎から越してきました〝横浜〟です」
近所の人にあいさつをしたところに、偶然が巡り巡ってこんな会話があったことも思い出す。
そのときはお互い、一瞬で意気投合した気分。こんなこともあるんだと、何かのときの話題にでもしてみようと考えていた。
食後の川崎は歯磨きを念入りにこなす。
このところ、川崎はいろいろなところを磨かなくては気が済まない。
靴とか、鞄、自宅にある様々な家電、そして自転車まで。
きれい好きなこともあるが、店を出したら、清潔にしておかなければいけないという信念からである。
歯磨きに至っては力を抜きながら時間をかけてツルツルに磨き上げる。これはこの家に来てから、突然そのような想いにかられてするようになった。
とにかく、物がきれいになることに興奮を覚えていく。
横浜さんとこの前、出会った三叉路は自宅から3分もかからない崇恩寺に突き当たったところにある。
ここで起こったたまさかな巡り会いに川崎は〝美〟を意識した。
すべて出会った人と物は必然と考えている。
面白いことは笑いに直結してくるし、生活に笑いがあることは幸せで、かつ美しいのである。
そう考えるのは川崎の人生哲学でもあった。
自宅を出て、竹藪のように薄暗い木陰の小径をゆっくりと牛が歩くように進んでいく。
川崎は思索にふける癖があり、歩きながらでも生活や仕事のアイデアを考えることがある。
今日も京都ではないけれど、大概物思いにふけりながら歩くのである。
しばらく歩いていると、後ろ側から人の気配を感じ始める。
何かガラガラ引いている音が徐々にボリュームを上げてだんだんと近づいてくる。
ふと後ろを振り向いたら、10メートルか20メートル後ろに腰の相当曲がった小柄なお婆さんが一人歩いてくる。
ガラガラいうのは買い物カートを引っ張っているからであった。
それが腰がほぼ90度曲がっていて、顔は前方を向いていない。
腰から90度曲がっているから顔も前を見ることができず、ずっと下を向いたままなのだ。
しかも、スタコラサッサとものすごい勢いで突っ走って来る。
2、30代の若者が小走りで歩くペースである。
でも、顔は明らかにもう80代の後半のようなしおれ顔。
でも、川崎に追いついた時点で、そのお婆さん、ニッコリとしてお辞儀をしてくれた。
慌ててこちらも笑顔で会釈を交わす。
(—元気だな)
川崎そう思っている間に、足腰はだいぶ丈夫なようで、そのあと無言で瞬く間に前方の曲がり角で消え去っていった。
ある意味、速足なところが滑稽であった。肉体どころか精神的にも若いのであろう。
(なんかいいよなぁ。こういうことに遭遇することもあるんだなぁ)
と思って、そのままゆっくり歩き続けた。
始めるカフェにはいろいろなサプライズを付加させようと考えていた。
店はアンティークなムードを醸し出すために、木材の温もりを引きだしたテーブルを入れ、店内には一定のエリアで衛生面に配慮した上で、オウムを飼う予定である。
それから、得意な料理の腕を活かして、ボリュームのあるカツカレーを名物にしたかった。
コーヒー豆の香りの良さを引きだし、店内に漂わせて専用のコーヒーロースターで豆を焙煎する。
そうした機器はすでに目星を付けていて、今日の家具とは別に発注する予定である。
開店するまでの心づもりと準備が着々と進んでいるので、開店後を想像するだけでワクワクが止まらない。
引っ越してから、ハイテンションで愉快な気分が続いている。
あらためて胸を大きく膨らませて前方を見つめる。
すると、だいぶ先の方から二人連れが近づいてくるのが確認できた。
どうも若い男女の二人連れらしく、楽しそうに途切れぬ会話が二人の気持ちを弾ませている。
すると、
(えっ?)
川崎は息をのむと同時に自分の眼を疑った。
一人は髪が肩の下どころか背中の中央まで真っすぐに伸びて、おしゃれなガーリッシュ系のファッションで、薄く化粧をした男。
そして、最も短い丸刈りの黒いTシャツを着た女性のアンバランスなカップルが東向日駅方面に向かって並列に足早で近づいてくる。
黒Tシャツの女性の声がしてくる。
「あのさぁ、今日は駅前のお肉屋さんが特売日なのよ。4割引きかなんかだから買わなきゃ損。焼肉と冷しゃぶ、どっちがいい?」
「なんだよぉ、たいして変わんないから、どっちでもいいよ」
「あんたって、ほんと主体性がないわねぇ。わかったわよ。あっ、それからさぁ―」
どうも日常生活の夕食の話などをしているから、夫婦連れらしい。
それにしても、外見は一風変わっていて、異色の光景である。
川崎のことを気にも留めず、アッという間にすれ違い、そのまま颯のように去って行った。
(どうしてこう、愉快な人たちに遭遇するかなぁ)
偶然を偶然に感じなくなってきた意識が次第に川崎の心の奥底を巡った。
何かがこの町の住民に影響でも与えているのか?
その時の胸のうちはその程度だったのであるが、気を取り直して再び歩きだしてみても、左右の薄暗い小径の鬱蒼さに薄気味悪さを一層感じたりして、まさかそう立て続けに珍事は起こらないだろうと思いながら目的地へと向かう。
しばらく歩いているうちは、誰ともすれ違うことはなかった。
長い小径を抜けてようやく車両が通行できる通りに出る。
この辺りは住宅や簡易に建てられたプレハブの作業所などがある。
草木が伸びきった荒れた土地が多いところである。
もう少し進むと商店街が見えてくる。容赦なくお日様が照り付けるため、だんだんと汗まみれになってきて、シャツがべっとりして、更に汗がジワジワと滲みだしてくる。
早く駅に到着したい。
この暑さとおかしな人たちとの遭遇で頭の中が混乱し、意識がもうろうとしてくるだけでなく、モヤモヤとした気分が入り混じって眉間にしわが寄る。
その時である。
レジ袋を提げ、サンダルを引っ掛けた一人の白髪の初老が川崎の前を急に横切った。
別にそれを悪いと思っている様子もなく、何かつぶやいている。
いや、つぶやいているというよりも、声を上げて歌らしきものを口にしていた。
「〽あ~っ、それ。あ~っ、それ。あっ、それ、それ、それ、そうれー」
暑いからとうとうきちゃったか?
でもそういう感じでもない。
「〽バカやろ、ハゲやろ、こんちくしょう。そうれハゲ、ハゲ、ハゲ、ハゲー。ハーゲ、ハゲ、ハゲ、こんちくしょう。バカやろ、ハゲやろ、こんちくしょう」
聴いていると、特定の人物に対する憎しみを訴えているというわけでもなく、単に口ずさんでいるだけの様子。
声ははっきりと出ていて、音程もかなりいい。
これは世の中で歌われている歌ではない。
自作自演で大きな声を上げて、うろついている歌唱力抜群のこのおやじ。
近くに住んでいるのであれば、これからもちょくちょくと出くわすに違いない。川崎は思い切って、この老人に声をかけてみた。
「—あのう」
「そうれ、それ、そ・・・・・・えっ?」
「歌、お上手ですね―」
「あぁ、ねぇ。昔取った杵柄でねぇ。若い頃は歌ってたんよ。今はもうただのお・や・じ。ヘッヘッヘ」
「ちゃんとした場できちんと歌っていけば、これからの人生楽しく過ごせますよ。来月から東向日駅近くの踏切脇の店で、カフェをやる者ですが、ミニライブもできるようになっていますから、いかがです? ぜひどうぞ」
「そう? まあ、開店すればすぐわかるだろうから、気が向いたら覗いてみるわ。ヘッヘッへッヘ。〽そうれ、バカやろ、ハゲやろ、こんちくしょう。ハーゲ、ハゲ、ハゲ、っと」
自分の腕前をある程度心得ていて、歌うことが本当に好きな人間のようだ。
少しでも客寄せしたいために、「ミニライブ」ができるなんて言ってしまったが、後悔はしていない。
舞台を作るくらいのスペースはあったから、ぜひ実現したいと今ここで即決した。
確かにいろいろなパフォーマンスをやってもらうのはよいのかもしれない。
なかなかのアイデアだと川崎は自負した。
あの初老には初めは驚いたが、町内のよい仲間になれるかもしれない。
〝変な人〟と思ってしまえばそれまでで、これまでに偶然に出会った人間と少しも変らない。
でも、一歩踏み出してポジティブにふれあえば、いい付き合いができることもあるというものだ。
川崎は自分の近い未来を想像していくと、ますます胸が高まってきた。
京都の中京区の狭い路地裏にある光畑工芸社という家具製作所で、川崎は家具職人の光畑功希さんと納品の最終打合せを終え、ホッとしたところで、近場のカフェでゆっくり過ごした。
その後、阪急京都線の地下の四条大宮駅の改札口を抜けて、構内のトイレで用を済ませてからホームに向かう。
この電車は桂駅で下車すれば桂離宮があるし、嵐山線に乗り換えて嵐山に出ることもできる。
車内は観光客であろうか、軽装でリュックサックを背負った人々でにぎわっている。
桂駅でどっと降りて閑散としたところで、座席に腰を下ろす。
あとふた駅だが、空いているから座っても悪いことはない。
外の風景を無意識に眺めながら、下車駅の東向日までボッーと過ごす。
次の洛西口駅を過ぎてものの5分もしないうちに到着。
ショルダーバッグを肩からかけ直して立ち上がり、ドアに近寄って開くのを待った。そして、ホームに止まる直前で窓枠から外界が目に入ってくる。
(えっ、本当かよっ?)
川崎は唖然とした。これから電車に乗ろうとしている中年の紳士。
何とグレーのチェックのパジャマ姿で、通勤用のバッグらしい荷物を小脇に抱え、乗り込もうとしていた。
表情は固く、いかにもビジネスマンらしく、背筋がピンと伸びてキビキビとしている。
川崎は面食らったと同時にプッと噴き出してしまった。
なぜ、会う人、会う人がこんなにも普通じゃないのだろう?
しかも、川崎の住む向日市一帯に限ってである。
京都市内ではそのような不思議な人物には出会わなかった。
一人ひとりが何かに冒されているのか、はたまた何者かによって操り人形のようにコントロールでもされているのかとまで考えてしまう。
川崎はこの原因を突きとめようと自宅までの帰路で熟考した。
こんなにも不思議な人たちと出会うのは何故なのか。
あれこれと思考を巡らせたが、すぐに結論を出すことはやはり難しかった。
その日以降も、店の開店の準備の合間でも徹底的に原因の究明に乗り出そうとする。
その後も、ご飯茶碗を左に箸を右手に持った状態で「ごはん―、ごはん―」と呟きながら小走りに過ぎ去っていく四十代前後の男性とか巨大なニシキヘビを首に巻いて東向日駅周辺を歩いていた若い女性、始終倒立していないと、生活ができないと言っている五十代の男性等、様々な驚異的な人物たちに出会い続けている。
この町の環境に何か影響しているのか?
疑問はますます深まるばかりであったが、手掛かりは依然としてつかめなかった。
川崎はある時、近くのスーパーで買い物をしようと店内に入ると、異様に気がおかしくなりそうになるのを感じた。
何か生温かいガスをちょっぴり吸い込んだ気がして、慌ててそのスーパーを飛び出してかがみこみ、咳き込んだ。吸い込んだ時は目に見えるようなガスが漂う様子はなかった。
ただ少し甘い香りを感じたが、辺り一面がそういう状況にもなくて、川崎の周囲だけで発生している。
何だか、そのガスは思考を乱すような感覚を覚える。
それほど吸い込んではいなかったために、意識を乱されるようなことにはならなかったようだが―。
「—あっ、そうか」
川崎はようやく不可解な人間の行動について、手掛かりの糸口が見出せたような気が突如沸き起こった。
今まで学んできた物理の熱力学に結びついたのである。
複雑な論理が展開される熱力学で、はたして説明がつくのかどうか?
人の行動を左右する未確認のガスがこの近辺に急激に拡散していると仮定したらどうなのだろう。
熱力学上の空間などの系においては、気体はその大きさに比例していく性質を有し、体積や質量のように、系の大きさが2倍、3倍になると、それに応じて大きくなることを指す示量性状態量、熱含量とも言えるのがエンタルピーである。
内部エネルギーE、圧力をP、体積Vのエンタルピー量Hは、
H=E+PV *㈠
圧力と体積が増大すればするほど、系内の内部エネルギーEと混ざり合って、エンタルピー量Hは大きくなる。
この熱を持つガスの発生元は不明であるが、拡散によって、それを吸い込むことで人々が影響を受けているとも言える。
(この町の住人は無色で甘い香りのガスの発生に冒されている―)
今までに増大したガスが内部エネルギーとして蓄積し、圧力の高いガスが新たに発生したため、エンタルピーの値は高くなり、この町の住民の思考と行動に変異が生じているのだ。
体積に圧力を掛け合わせた値は仕事量に換算され、地域に拡散した仕事量は住民が発する個々の内部エネルギーが高まり、その結果、この町の住民全体に与えるエンタルピー値は上昇し、住民の異常な行動がますます散見されていく。
同じ概念で熱量を示すエントロピーという熱力学上の概念があるが、これと混同することはできない。
まったく異なる物理量でエネルギーを温度で割った次元の値であるから、間違えないようにしなくてはならない。
川崎は考えているうちにハッと思うことがあった。
そういえば、〝笑気ガス〟なるものを以前に聞いたことがある。
亜酸化窒素N₂Oと言われるもので、これを人間が吸うと、幸福感に包まれたようになり、どんな行動に出てもおかしくないと言われている。
大気中に微量に存在するが、赤外線を吸収して温室効果ガスに変化するのである。
でも、それらしい住民の様子は様々で、行動に異常性があるのが特徴なのだが、中にはこのN₂Oの影響を受けているとは言えない人がいるのももちろんである。
そんなに多様な行動がとられるものなのか?
今回の現状は中には無意識的な行動も含まれている。
それではなぜこの町に異様なガスが発生するのだろうか?
発生元はいったいどこなのか?
エンタルピーの増大で奇妙な行動を引き起こすガスは何によって発生するのだろう?
川崎は予定どおり〝Café・Jupiter〟を翌8月の25日に東向日駅近くの踏切脇にオープンさせた。
10人ほど座れるカウンターに、4人1組で6組ほど座れる木目の鮮やかなテーブル席。
けれども、初日は客の入りは全く振るわなかった。
一週間前に新聞に広告を折り込み、駅頭でもチラシ配りを行った。
考えていた店内の装飾、レイアウト、ミニライブ会場等の設定は抜かりなくすべてしつらえた。
大きめの籠には予定どおり店のシンボルとして、オカメインコを飼うようにし、ボリュームのたっぷりの赤ワインで煮込んだイチ押しメニューのカツカレー、そしてサンドウィッチとパスタ等の各種軽食を用意した。
今の時代ではこんな程度の広報では客寄せは無理なのか。
午前中に2人、お昼の時間に食事をしにきた2人、そして午後に3人が来店したのみである。
川崎は首をかしげた。
何がいけないのだろう?
立地もそれほど悪いことはないし、店の前は西国街道と言われる通りでそれほど人通りは少なくはない。
二日目、三日目と過ぎ、一週間が経過したが、客足は依然として増える様子はなかった。
来る客は、
「なかなかいい雰囲気ですね。このカツカレーもボリュームたっぷりですごくおいしかったですよ」
と評判が悪くはないのであるが、川崎は何がいけないのか分からなくなってきた。
踏切の近くではあるが、店内は防音を施しているし、特に店内の臭気なども気になることもない。
原因は不明だが、一つだけ広報の追加手段として、ツイッターでアカウントを取り急ぎ新設して、写真付きでコメントを投稿してみた。
「〝Café・Jupiter〟8月25日に阪急京都線東向日駅徒歩一分の地にオープン!トンカツが2枚のった名物Wカツカレー一日20食限定。毎週土曜日午後2時から地域の演奏家等によるミニライブを開催しています。皆様のお越しをお待ちしております」
もう一つ大事なことを川崎は忘れていた。
それは何といってもWeb サイトの新規開設である。
数日掛けて、構成をじっくりと思案して、ワードプレスで割と気に入ったものができあがった。
落ち着いたたたずまいの外観と店内の写真をトップにあげて、代表的なドリンクメニュー、Wカツカレーのイメージ写真も貼り付け、Low Priceな価格設定を売りにしてみた。
交通アクセスもシンプルにわかりやすい表示にしてみた。
さあ、これでひとまず様子を窺おうと思って、数日変化をみることにした。
しかし、やはり結果は何も変わらず、川崎の毎日が不安に包まれていった。
それから二週間が経過した。
9月15日。
この日はランチタイムに客が若干多めに来店した。
4名の奥様連れが店内のオウムがお気に召したようで、〝おばさん—、おば~~さん〟としゃべり出すと、それにバカ受けしていた。
二日前から連日来店していて、熱いブラックコーヒーをすすり、新聞を読みながらゆっくり過ごしていく客もいる。
その翌日の午前のこと。
先日、道端で遭遇した例の歌の上手い白髪初老が突然入口の扉を開けて姿を見せた。
あの時の口約束を覚えていてくれたのか、
「やぁ、折込広告で見て思い出した。アイスコーヒーちょうだい」
と言ってカウンターの一番隅の席に座りこむ。
「来てくださったんですね。ありがとうございます。歌のほうはその後いかがです?」
「んっ? ああ、適当にやっているよ。街中で大声上げてるから、ジロジロとみんな怪訝そうに、『何だい、こいつは』って言いたい顔して見てくぜ。ヘッヘツヘッ」
「じゃあ、ちょっと挽いたばかりの豆でアイスコーヒーを淹れますから、暫しお待ちください」
その時だった。
例の生温かいガスが店内に入り込んだのではないかと川崎の脳裡にちらついた。
入り込んだとすれば、初老が入口から入って来た時に違いない。
すると今度は驚いたことに、いつか駅に降り立つ際に同じ電車の扉で遭遇したパジャマ姿の中年の紳士が入店してきではないか。
相変わらずこの前に着ていたパジャマ姿に例のバッグを手にしている。
入店するやいなや、
「カツカレーお願い」
オーダーを出し、テーブル席をすかさず確保する。
すると、次は・・・・・・。
ああ、身なりがあべこべのあのアベック。
仲睦まじい様子で入店。
さて、どこに席を取ろうかと迷いに迷って、中央のテーブル席に腰を下ろす。
いよいよ川崎の表情がほころんできた。
さて、調理に取りかかるかと思いきや、今度は近所の横浜さんもいらしてくださった。
ここまで来ると、川崎のにやけはもう止まらない。
思惑どおりに、店内の客の様子は少しなごやかなムードになってきた。
すると、今度は初老がステージのほうに向かい始め、いきなり中央にあるマイクを手にしだし、オペラ歌手のように発声練習を始めた。
そして、巷で振りまいているいつもの歌を歌い始める。
2人のアベックはおもしろそうにその歌をにこやかに聴いているし、横浜さんとパジャマ紳士は特にそれを迷惑と思うような素振りは見せず、コーヒーを飲んでくつろいでいる。
(そういえば・・・・・・)
竹林で会った速足のおばあさんはさすがに来ていない。
そんなにまぐれは続くはずはないと思っていたところへ、なんと、なんとカートを引きながら入店してきた。
これはもうどうしたことだろう。そして、小走りに歩きながらカウンターに着席。
「ホットコーヒー、ちょうだい」
お歳は召しているが、ほんとうにやることは相変わらず素早い。
店内の空間はあっという間に熱気が高まった。
その後も、初めてのお客も来店し、入れ代わり立ち代わりで席はパーティ会場のように満席状態となった。
すべての客は、日頃のストレスを忘れて楽しんでいる。
陽気に話をしている者もいれば、コーヒータイムを一人で新聞やら読書で楽しむ者もいる。
生温かいガスのおかげで知らない者同士でも途端に打ち解け合い、仲間意識を持ち始め、愉快に語り合っているのだ。
店内は活気に満ちていて、オカメインコも黙っちゃいない。
「エサくれ~。カネくれ~。たのむよ、おい」
「ハッハッハッハ—」
川崎の毎日はこの時から慌ただしくなった。
カツカレーの一日限定20食もランチの時間ですぐに出てしまうし、他のサンドウィッチやパスタも完売である。
不思議なガスを味方につけたかたちで、エンタルピー増大の自然の流れによる嬉しい悲鳴であった。
本当に深謝してもしきれるものではない。
ガスの出どころはわからないままであったが、このまま知らないほうが、幸せなのかもしれないと川崎は思うようになった。
いつかスーパーで吸い込んだ時に少し気分が悪くなりかけたが、今日以降、川崎だけはそのガスを吸っても、何も影響がないのが不思議だった。
その後も、店内にいつまでもガスは漂い、その熱気は
〝Café・Jupiter〟からは消え去ることはなかった。
(了)
*㈠ 児島邦夫、北原文雄、石黒鉄郎共著『基礎物理化学 上』、朝倉書店
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