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4 キス
逃げないでね、の後。
兄は再び、今度はねっとりと僕に絡み付いて来た。
唇が熱を持ち、ぽってりと腫れてしまうんじゃないかと思う程に、舌を、唾液を貪られた。
上唇を吸われ、輪郭を確かめるように舌でなぞられ、下唇を食まれ。
柔らかな弾力を密着させる毎に、兄は僕の心に愛の棘を刺していく。
夢中にさせられてしまう、怖い。
僕は兄が怖い。
やっと解放された時、僕にはしっかりとαのマーキング臭が付けられていた。
服に隠れた首輪の周りにも、歯型や鬱血痕が付いているんだろう。
まるで売約済みの札を付けて歩くようなものだ。
兄に家の最寄り駅迄送られて、覚束無い足取りで自宅へ向かう。
家まで送るというのを固辞したのは、万が一にも父に兄の姿を見せたくないと思ってしまったからだ。
気遣いなんかではない。
父に、兄に会う資格は無いと、そう思っただけだ。
自宅に着き玄関を入ると、既に玄関には父の靴があった。
奥のリビングからは話し声も聞こえる。
「ただいま。」
リビングに顔を出し帰宅を知らせると、おかえりと返ってきた。父と母はソファに掛けてテレビを観ながら寛いでいたようだ。
「ご飯は?」
「友達と食べてきた。」
食事の事を気にしてそう聞いて来た母にそう答えて、僕は廊下に出て自室への階段を上がった。
番になっている父と母には匂いは感知出来ない筈だから僕に付けられたマーキング臭に突っ込まれる事は無いだろうとは思っていた。だけど、ドキドキした。
部屋に入り電気を点けて、のろのろと部屋着に着替えてからベッドに身を投げ出した。
酷く疲れを感じている。
兄との触れ合いは、思いの外僕のメンタルを削いでいたようだった。
ベッド脇に置いたバッグからスマホを取り出すと、今日会った友人と兄からのLIME通知が来ていた。
友人には今日の礼を返信し、兄には…
兄からは、おやすみとだけ来ていた。あんなに甘ったるかったのに、こんなところは素っ気なさすら感じる。
少し考えたが、結局 同じようにおやすみ、と打った。
目を閉じて、考える。
僕と兄が運命の番として邂逅を果たしてしまった事を、両親が…父が知ったら、どう思うのだろうか。
父が恋人がいながら母に心を奪われた父。
もしあの頃、父が恋人に対して誠実だったなら、僕が兄の番として生まれる事は無かった筈だ。
もし僕と兄が番として結ばれたら、父は己の罪の結果を思い知る事になるだろう。
それはそれで、いい気味だと思ってしまいそうだが…。
けれど、もし兄弟間に子供が出来てしまうと、それは問題だ。極端な近親交配の結果が子供に及ぼす影響を考えれば…絶対に作れない。
兄と僕の遺伝子は、今生で絶える。父の所為で。
さっき迄一緒にいた兄を思った。
兄の母である美智さんは、父と別れた後は独り身だったという事だった。
母子で暮らしていたのだろうか。
兄は、自分の父の事を、どう聞かされて育ってきたのだろうか。
それを思うと、兄が不憫だ。
僕は既に兄に心を奪われてしまっているから、どうしても兄寄りに考えてしまう。
未だ、兄の人となりすら知らないのに。
僕と兄は1歳違いだ。
つまり兄は、中学生の頃に母親と死に別れ、祖父母の元で育ったのだ。
僕が父と母と妹と、ぬくぬくと幸せに暮らしている時に、兄は母子家庭で苦労をしたのではないか。早くに親を喪い、どれだけの孤独を感じたのだろうか。
経済的にはどうだったんだろう。一度見に行った川村の家は、一軒家ではあったがお世辞にも立派とは言い難い普通の家だった。
美しいαの兄とは、およそ不似合いに見えたあの家。
本来なら、僕のポジションにいてこの家に、この一族に籍を置くべきだったのはあの兄だった筈だ。
それを思うと、余計に苦しくなるのだ。
兄が僕の素性を知ったら、彼は僕を憎むだろうか。
憎みながらも、運命の誘引力に抗えず、僕を番にするのだろうか。
不義理を働いた父を、父を惑わせた母を、憎んでしまう自分の衝動を止められない。
兄に気持ちを引っ張られる程に、その気持ちは強くなっていくようだった。
僕は兄が怖い。
そして、愛しい。
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