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2 再会
再び彼が僕の前に現れたのは、あれから1年近く経った頃だった。
僕は無事進学した大学で勉学して、友人も出来て、夏休みはバイトをして、遊んで、それなりに楽しく過ごしていた。
ある休日、友人と共にあれ以来、意識して通らないようにしていたあの交差点を通った。
勿論、もうあんな奇跡が起こる筈も無い。僕は友人と話しながらそこを通り過ぎた。
夕方になり、帰宅する電車に乗るために駅で友人と別れ、改札に向かう途中で突如足を止めた。
「見つけました。」
背中からふわりと馨るのは、忘れられる筈の無い、運命の馨りだった。
纏わりつく声と共に、長い腕が巻きついてくる。
逃げられない、と直感した。
僕は運命の馨りを付けられてしまったのだ。
惹かれ合うαとΩが身体的接触を持つと、その度合いに限らず少なからず理性を奪われる。周囲が見えなくなる。
互い以外の全てがどうでも良くなるような、凶悪な程の多幸感。
そして僕はそうなる事をとても恐れている。
「いとい、なみ…お?…」
「なお。」
「波緒、なお…、波緒…。」
肩を抱かれて近くの雑居ビルとビルの隙間に連れ込まれた僕は、連絡先交換を断れなかった。
体に触れられ、マーキングされた事で、僕は彼の言葉に逆らい辛くなっていた。
もしセックスでもしようものなら、骨抜きにされてしまうんだろう。
噛み締めるように大切そうに僕の名を何度も呟く彼に、胸が痛んだ。
「俺は川村 靫。ゆぎだよ。」
「…うん。」
初っ端から抱き締め合ってしまうのは、運命なら普通の事なんだろうか。
そもそも、自分に運命の番が現れるなんて思ってもみなかった。そんな夢みたいな事が、平均的なΩの僕に起こるなんて。
そしてそれが、まさか彼だなんて。
皮肉過ぎる。
でも抗えない。
どうしたら良いんだ…。
綺麗な栗色の髪は、僕がよく知る人にとてもよく似ている。
懐っこい榛色の瞳も、特徴あるその耳の形も、そのよく通る耳触りの良い声も。
彼は僕の父が、母と番になる前に付き合っていたΩ女性が産んだ、僕の異母兄だ。
僕がそれを知ってしまったのは、中学生の頃だった。
母が妹を連れ、母方の祖父母の家に出向いていた日、訪ねて来た父の友人達が父と話しているのを、居間の近くを通りかかった僕は耳にしてしまったのだ。
『そう言えばお前が付き合っていた彼女、亡くなったそうだぞ。息子は彼女の父母が引き取ったそうだ。』
最初は父に向けた言葉ではなく、一緒に来ていたもう一人の友人に言っているのかと思った。だが、続いた声は父のものだった。
『…ああ。聞いてる。』
『靫君だっけ。会った事無いんだっけ?』
『…会う資格が無いからな。養育費も断られたし。』
聞こえてくるのは父の声で間違い無い筈なのに、話している内容は信じられないものだった。
何を話しているんだろう。これは現実の事なのだろうか。僕は夢でも見ているのではないのか。
『そりゃそうだろうな。高校から付き合ってた恋人を番にもしないまま妊娠させて、挙句に他に相性の良いΩが現れたから別れたい、なんて。俺達だって暫くお前とは絶縁してたくらいなんだから。』
『そうだな。そりゃ美智ちゃんだって向こうの親御さんだって、お前達を許せないのは当然だ。
今だって俺はお前を最低だと思ってるよ。同じαとは思いたくないと思っていた。』
父の友人であるおじさん達は、何時もはとても優しく穏やかな人達なのに、その時ばかりは声にも怒気が含まれていて、詰るような様子だった。
父に、僕らの他に子供が。
父が、母と結婚する前にそんな酷い事を。
その日から僕の、父を見る目は変わってしまったように思う。
父はαの本能に忠実過ぎたのだろうか。それとも、そんなに迄、母に惹かれたのか。
妊娠した恋人を、捨てる程?
父がそんな非道な事が出来る人間だったなんて。
Ωである僕には、他人事とは思えない憤りを感じた。
『美智には悪かったと思ってるよ。あの頃だって、思ってたんだ。でも、どうしてもそっちじゃないって思っちゃってさ。』
"そっちじゃない。"
それっぽっちの気持ちだけで、捨てられるΩ。
父の声は沈んでいたが、それでもαである父には、Ωの立場や気持ちなんて万分の1も理解などできないのだろう。
僕は大好きだった父に失望していた。
親子であっても、僕と父はきっと一生分かり合えないのだろう。
もし、僕が。
何処かのαに孕まされ捨てられたら、父にも、美智さんやご両親の気持ちが少しはわかるのだろうか。
これ以上父に幻滅したくなかった僕は、そっとその場から離れ自室へ戻った。
それから、先の会話を反芻しては、泣いた。
裏切りによって生まれた僕達家族が、急に汚らしいもののように感じたのだ。
それでも、僕一人の感情で家族を壊したい訳では無いから、表面上は今迄通りに振る舞った。本当に変わりなくできていたかはわからないが、気持ちの折り合いをつけるように努力をした。
その内、僕は見た事もない兄の存在が気になりだした。
高校に上がって直ぐの頃、ふと思った。
父の友人は、父と美智さんという女性は高校から付き合っていたと言っていた。父の卒業アルバムに、その人が載っているのでは…?
家の父の部屋の本棚には、それらしいアルバムは無かった。何処かにしまってあるのかとも思ったが、もし卒業アルバムに昔の恋人が写っているとしたら、そんな物を母の目が触れる可能性のある場所には持ってさえ来ない気がした。多分、父の実家である祖父母の家にあるのではないかと考えて、理由をつけて遊びに行った。
そして、父の使っていたという部屋のクロゼットから、アルバムを見つけた。
高校生だった父の同学年には、みち、みちこ、と読める女性は7人。その中でも2年時にクラスメイトになっていた川村美智という女生徒とは、学園祭や集合写真などで近くに写っているような気がする。
その美智さんは、とても儚げで綺麗な人だった。
おそらく、母よりも。
母は父とは高校を卒業して大学生の頃に出会ったと聞いている。
何年も付き合って尽くしても、ポッと出のΩに父を奪われた美智さんの気持ちを考えると、死ぬ程申し訳無かった。
僕は美智さんとその子供に、心の中で謝罪した。
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