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3 宣告
見てみたい、と思った。
僕の、血の繋がった兄を。
会ってみたい、なんて烏滸がましい事は言わない。
あの頃の事情や状況はわからないけれど、僕の母は彼の母から恋人だった父を略奪したという事になる。そんな母の子供である僕が、図々しく兄に"会いたい"なんて考えちゃいけないだろう。
遠くから、一目見るだけ…。
どんな風に暮らしているか、僕には似ているのか…それとも、父に?彼の母の美智さんに?
美智さんの実家の川村の家が何処にあるのか調べる事にした。
案外直ぐに判明した川村家は、隣町にあった。
ある日の学校帰り、スマホ片手に位置を見ながら辿り着いたのは、ごく普通の少し古い一軒家。
やはり古い御影石の表札に彫られた川村の文字。
僕は少し離れた位置に佇み、その家の様子を窺った。
30分程経った頃だろうか。
ふわり、と鼻を擽る馨しさに、キョロキョロと周囲を見回した。右側の通りから歩いて来る、僕とは違う制服姿の男子高校生が見えて、僕は急いで身を隠した。
距離が近づくにつれ、栗色の髪のその男子生徒の顔がはっきり見えてくる。
通った鼻筋、秀でた目鼻立ち。優しげなのにどこか憂いを含んだ表情。
彼だ、と直感した。
体中の血が沸騰したように熱い。かと思うと、全身の肌が粟立つ。妙な感覚だった。
これは血を分けた兄弟だからなのか、同時に違う何かを強く感じ取ってしまったせいなのか。
視線を吸い寄せられたまま、離す事が出来なかった。
あれが、僕の…あれは、僕の…。
その先の答えは出してはいけない、と思考をセーブした。
そして、彼の姿を目に焼き付けた僕は、もう二度と此処には来てはならないと思った。
僕は彼と出会ってはならないと悟ったからだ。
この感覚を信じるならば、おそらく彼は、僕の番になるべき人だ。
架空の存在かと思っていた運命の番というものなのだろう。僕の体中の細胞の全てが、そう訴えている。
けれど、結ばれてはならないという事も、僕の理性が告げているのだ。
それから僕は隣町にも、川村の家にも近寄らなかった。
この身に一瞬で刻みつけられてしまった彼の存在も、会わなければ忘れられる、目にしなければ消えていく。
そう信じて。
だが、高三のあの秋、僕は兄と出会ってしまったのだ。運命の番として。
けれど…わかるだろう?
断るしかなかった。
僕は彼にとって、憎むべき相手の産んだ息子であり、それなのに血の繋がった兄弟なんだから、それだけでも禁忌だ。
名乗りすらせずに去るしかなかった。
そこで断ち切れたと思った。
それなのに時を経て再び会ってしまうなんて。
運命の番の前には、なにものをも障害にはなれない。
あらゆるものを凌駕して惹かれ合い、結ばれる。
まことしやかに囁かれていたそんな言葉が脳裏を過ぎって、運命の恐ろしさをまざまざと知る。
結ばれてはいけない僕達は、これからどうしたら良いのだろうか。
ビルの隙間で囚われた僕は、為す術なく彼に唇を奪われる。
痺れるような触れ合いだった。彼の為に僕が生まれて来たのは明らかだと思い知らされるような。
それにも僕は、苦しくなった。神というものが存在するのならば、何故こんな悪戯を起こすんだろうか。
通常人間は、近親交配を防ぐ為に近しい遺伝子を避けようと、嫌いな匂いとして嗅ぎ取れると言うじゃないか。
なのに逆の現象が起きているこの現状を、どう説明してくれるんだーーー。
僕はあまりに甘く心地良い彼の唇の感触に泣きたくなりながらも、その背中に腕を回して抱き締めてしまいたくなる。いや、抱き締めてしまった。
「…これからはマメに連絡する。…無視しちゃ駄目だよ。そんな事をされたら、俺は波緒のいる所迄押しかけて行かなきゃならなくなる。」
「…わかった…。」
彼の腕の中に閉じ込められて髪の匂いを嗅がれ、撫でられながら、僕は頷くしかなかった。
僕のいる所。
つまり、わかりやすい所で言えば、大学、家…。
学生証も、鞄の中から探し出されてしまった。
身元が本当かと複数の身分証で確認されたのだ。
以前、僕が一度逃げているからか、今回彼は慎重になっているようだった。
どうあっても僕を逃がすつもりはないようだ。
僕の荷物の確認を終えて、彼はニコッと微笑んだ。
その顔は前に見た宗教画の大天使のように美しく、恐ろしかった。
「これから長い付き合いになるよ。よろしくね。
早く番になりたいな。
…もう逃げないでね。」
目眩がした。
まるで死刑宣告のようだと思った。
逃げないでね、と僕にお願いしているようでいて、逃がさないと言っているんだ、彼は。
強い瞳を受けて、思わず伏せた目の睫毛に、彼の唇が触れた。
そしてその日を境に、程々に平凡で平穏だった僕の日常は一変してしまったのだった。
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