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1 壁
その日は空の高くなってきた、秋晴れの日だった。
雑踏をしなやかに泳ぐように抜け、彼は突然 現れた。
そして僕は、その人混みの中から彼が現れるのを、知っていた。
彼は迷いの無い足取りで僕の前に立ち、僅かに高い目線からこちらを見つめてきた。
その時、その形良い 美しい唇から放たれた声を、言葉を、僕は一生忘れないだろう。
期待に満ちた、美しいテノール。
「運命(俺)を、受け入れてくれますか?」
一目会う瞬間を迎える何分も前から、僕も彼もお互いを認識していた。
その、惹かれ合う芳香によって。体中の、血のざわめきによって。
そして、探しあてたのだ。
この、幾千幾万もの人いきれの中ですら、それを見失わず。
そして、出会えた。
誰とも取り違わず、間違わず。
嬉しかった。体中が歓喜に震え、そして底無しに絶望した。
やはり、彼だったのかと。
どうして、彼なのかと。
そして彼の問いに、僕は答えた。
「いいえ。」
瞬間、彼の顔からは喜色が消え、哀しげに歪められた表情がのった。
それは見ている僕の心に深く刺さった。けれど、返答は決めていた。覆らない。
出会えた。一目で愛した。彼の瞳に僕への愛が灯るのも見られた。
それだけで、十分だ。
「みつけてくれて、嬉しかった。ありがとう。
他に良い番をみつけて下さい。お元気で。」
僕は、彼と結ばれる訳にはいかなかった。
どれだけこの心と体が、彼を呼び求めようとも。
糸井 波緒、18歳、男性。
そして、Ω。
この日僕は、運命の番に出会い、そして別れを告げた。
…と、そこ迄なら綺麗な別れだったのだが、そうは問屋が卸さなかった。
僕は、αの執念深さと独占欲を甘く見ていたのだ。
僕は現在高3。本来なら受験生ではあるのだが、真面目なだけが取り柄だったのが幸いしてか、そこそこの大学への推薦入学が見込めるとお墨付きをいただいている。
Ωの生徒は定期的に訪れる発情期や安定しないホルモンバランスの関係で、最高学府への進学を諦める者も多い中、僕は幸運な部類だと言えるだろう。
Ωは決して、他のバースより能力的に劣る訳では無い。
只、他より明らかに劣る体力面と脆弱な体、独特の匂いを発する事や発情期に左右される事が足枷になり、何をするにも気力が殺がれていってしまうのだ。
よほどのメンタルの強さを持っていなければ、モチベーションを維持出来ず、それなりの所で諦めてしまう。
だから多くは、高校を卒業すると、恋人や、見合いで会った相手と番契約をして家庭に入る。
番を見つけずΩに理解ある会社に就職したり、フリーターになったりもいて、身の振り方は様々だ。
僕の家は、典型的なα家系で、父もα、母はΩ。
だから本来なら9割がたはαが産まれる筈なのに、僕はその9割から漏れた不運な人間だった。生まれながらに人生ハズレくじ。
因みに五歳下に生まれた妹はαだった。
そんな感じで90%の賭けに外れた僕だけど、家庭運には恵まれた。
父と母は傍目に見ても仲が良く、愛情かけて育ててくれたし、妹も可愛い。
親族内でもΩが生まれる事は少ないから、可愛がってもらえた。経済的にも困った事は無いし、抑制剤の効きも悪くない。
容姿だってそれなりだと思う。少なくともブサイクとか言われた事は無い。
Ωにしちゃ全般的に恵まれている方だと思う。不満は無い。
たったひとつ、知ってしまった秘密を除いては。
僕と、愛しい運命の彼の間には、越えてはいけない壁がある。
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