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知らない恋人
病院の一室。
扉を開けて一番最初に目に入ったのは真っ白なベットと、その上で膝を抱えて座る女の姿だった。
「夏……」
彼女の名前は中井 夏。
去年まで同じ高校で共に授業を受けていた元同級生であり、付き合ってからもうすぐで一年目を迎える恋人。
そしてその隣で夏を心配そうに見つめるもう一人の女は彼女の母親で、俺にとっては頭の上がらない恋人のお母さんだ。
2人は入ってきたのが俺だと気づくとすぐに姿勢を正し、迎え入れる体制を作った。
「あらあら、祐樹君。久しぶり。やっぱり来てくれたのね」
「お久しぶりです、夏のお母さん。それで夏は……」
「話をする前に疲れたでしょうからとりあえずそこの椅子に座ってちょうだい」
「え、あ、ありがとうございます……」
「うふふ、そんなに慌てなくても大丈夫よ。事故にあったって言ったけど、見ての通り命の危険はないから」
俺がここに来ることになった理由は夏が事故にあったという連絡を貰ったから。
今からちょうど30分前のことだ。
大学に行く準備をしていると突然、夏の母親から電話が入り、そこで夏が事故にあったこと、そのために俺に協力してほしいことがあるという話を伝えられた。
夏の母親に促されて大人しく空いている椅子に腰掛けたが、この状況では心までは落ち着けない。
たとえ命に別状はなかったとしても夏に困ったことが起きているのは変わらない事実だ。
「……夏、どう?」
夏の母親からの問いかけに、夏は首を横に振って答える。
ここに来たばかりの俺にはそれに何の意味があるのかわからないが、その反応を見た夏の母親は少し項垂れた後、何かを決心したように俺の方に視線を向けた。
「祐樹君、まずは来てくれてありがとう。そして今から私が言うことを落ち着いて聞いて欲しいの」
夏の身に起こったことをゆっくりと話し始める夏の母親。その表情はさっきまでとは打って変わって深刻そうだ。
夏の見た目には何の異常もないが、やはり目に見えないところで日常生活に支障をきたすような事態が起きているのだろう。
俺はもう一度気を引き締めて夏の母親の話に耳を傾ける。
「夏が事故にあったって言ってたでしょ? 実はその時に夏は頭を強く打ったみたいで……」
「頭を……」
「それでね、その後遺症で夏は……」
「……」
「夏は一時的な記憶喪失になってしまったらしいの」
何を言われても飲み込む覚悟をしていたつもりだったが、俺は一瞬、何を言われたのかわからずに言葉に詰まってしまう。
「えっと……きおくそうしつ、ですか?」
ちゃんと聞き取れているかどうかを確かめるために出した言葉に、夏の母親は迷わず頷く。
「ええ。目が覚めた時はすごく怯えててね。自分が誰なのか、なんでここにいるのか何もわからないらしくて」
「た、確かにそれは俺の知る記憶喪失というやつですね、ですけど……」
「急にこんなこと言われても信じられないわよね。見ての通り体は日常に戻っても支障はないぐらい健康だし。でも記憶が戻るまでは学校も休んだ方がいいって言われたわ」
「学校も……。それは大変、ですね……」
夏が記憶喪失になった。
どうやら夏の母親は本気でそう言っているらしい。
ただ余所余所しい返事をしたところからわかるように、俺はまだ記憶喪失のことを信じ切れていない。
もちろん夏の母親が嘘をつくとは微塵も思っていないが、知り合いが記憶喪失になったというのは非日常的な出来事。
そう簡単に受け入れられるものではなかった。
「えっと……」
真相を確かめるために本人に声をかけると、彼女は警戒した様子を見せながらこちらに視線を向けた。
「夏、俺だけど……」
「はい……」
「あ、そういえば名前も覚えてないんだっけ。俺は池野祐樹っていうんだけど……なんていうか、よろしく」
「よ、よろしくお願いします。私は夏です……」
俺は思わず目を丸くする。
夏と交わした言葉はまだ二、三個程度。
だがそれだけでも違和感を感じ取れるほど、夏の口から出てきた言葉は意外なものだった。
「あ、いや、ごめん。なんて言ったらいいんだろう……。とりあえず俺のこと、覚えてない?」
「はい……」
「そうなんだ。じゃあ1週間前のことも?」
「1週間前のこと? よくわらないですがそれも多分、覚えてません……」
「そ、そっか。記憶喪失なんだからそうだよな」
やはり違う。言葉だけでなく、口調や表情も全くといっていいほどいつもの夏ではない。
もちろん短く切り揃えられた髪型やほっそりとした体型、顔つきといった容姿に関してのことは以前と変わらないが、明るさや元気さといった夏らしさというものがその人物からは全く感じ取れない。
大袈裟に言うなら、別人と呼んでもいいほどに。
「……本当に夏じゃないのか」
「うーん、やっぱり裕樹君と会っても何も思い出せないみたいね」
夏の様子を見て小さくない衝撃を受けていると、横から夏の母親がやれやれといった感じで声をかけてくる。
「な、夏は本当に記憶喪失なんですか……」
「そうなのよ。びっくりしたでしょ?」
「はい……。正直まだ頭が追いついてません」
夏の反応が冗談ではないのだとしたらあり得ない変化だった。それこそ記憶喪失という珍しい状態を当てはめない限りは。
「私のことはなんとなく母親だってわかるみたいだけど、大学のこととか友達のこととか、さっきみたいに祐樹君のことも。私の知ってることは話してみたんだけど何も覚えてないみたいなのよ」
「覚えて、ない……」
まだ実感のようなものはない。
だが夏の母親の真剣な態度や夏の様変わりした姿を見せられたらもはや残っていた疑念は無くなる。
「あの夏が……」
夏が記憶喪失になった。
これからはそれを前提に話を聞く必要がある。
「それでもう察しはついてると思うけど祐樹君には夏の記憶を取り戻す手伝いをしてほしいの。祐樹君を見ただけじゃピンとこないみたいだし、先生もきっかけが必要だって言ってたから」
「きっかけ、ですか」
「難しいことを頼んでるのはわかってるけど、祐樹君にお願いしてもいいかしら?」
「はい。俺にできることがあるならもちろん協力しますよ。記憶喪失になったとはいえ恋人だったことに変わりはないですから」
夏の母親は俺が即諾したことを「よかったぁ」と大袈裟に喜ぶ。
だが客観的に見て恋人という関係は記憶を取り戻すのに最適だと思うし、そもそも普通の恋人同士なら断る理由がない。
「夏の記憶が戻って欲しいのは俺も同じですしね。でも俺は具体的に何をすればいいんですか」
「そうねぇ……。やっぱり1番は思い出の場所を巡るとかかしら?」
「思い出の場所、ですか」
「懐かしいものに触れると良いって先生が言ってたから。二人は恋人だしそういう場所は結構思いつくでしょ?」
夏の母親が言いたいのはつまり、付き合ってた頃によく二人で行っていた場所や印象に残っている場所などに夏を連れて行けということ。
それをきっかけにして夏の記憶を取り戻そうという試みらしい。
「……なるほど」
「もちろん私の方でも色々と試してはみるけど、人手が多いに越したことはないからね」
「わかりました。俺が思いついたところに夏を連れて行けばいいんですよね? 夏がいいなら俺もそれで大丈夫です」
夏の母親の説明がわかりやすく、且つ納得できるものだったおかげで話はとんとん拍子に進んでいく。
もちろん口答えするような場面が出てきたとしても、恋人だった子の母親に言い返そうなどとは思わなかっただろうが。
俺は話が一段落したのを見計らってもう一度、夏の方に目を向ける。
「あー、えーっと……自分の名前はわかるよね?」
「わかります……」
「いきなりこんなこと言われて戸惑うかもしれないけど俺と君は恋人同士だったんだ。付き合ってもうすぐで一年経つぐらいのな。自分で言うのもあれだけど、仲は良かった方だと思う」
俺は事実だけを淡々と話す。
だが彼女は心当たりがなかったのかあまり表情を変えない。
「はい、お母さんから聞きました。でもすみません、何も覚えていなくて……。えーっと、祐樹くん? でよかったですか?」
「前は呼び捨てだったけど……まあいっか。その呼び方で構わないよ」
「じゃあ、祐樹くん……」
「うん。俺のことは徐々に思い出してくれればいいから。それに今は恋人って思わなくてもいいし。普通に友達って感じで接してよ」
俺が優しくそう語りかけていると、彼女は少しだけ表情を柔らかくした。
まだ問題点はいくつか残っているが、ひとまずこれで記憶を無くした彼女の警戒心を解くことはできたと判断した俺は夏に向けていた視線を再び夏の母親の方に戻す。
「夏を思い出の場所に連れて行くのは任せてください。ただ俺はこの後すぐ大学の授業があるので今日はこれで失礼します」
「あ、そうだったの。わざわざ来てもらったのにごめんさいね」
「いえ、俺も夏が大変な時にすみません」
「それくらい全然いいのよ。じゃあまた夏の携帯で連絡するからその時はお願いね」
短く「はい」と返事をしてから病室を後にした俺。
ここから学校に着くまでの空いた時間に、夏の母親に言われた思い出の場所という言葉を改めて思い起こす。
あの時は咄嗟のことですぐには思いつかなかったが、もちろん約1年という交際期間の中で俺たちが出かけた場所は数え切れないほどあり、その中で最初に浮かぶ特別な場所と言えばやはり初めてデートをした場所だ。
約1年前に行った隣の県にある大きな水族館で、当時はまだ付き合ってなかったので思い切って誘ってみたら承諾された、いわゆる思い出の場所。
もちろん時間をかければもっと色々な案が出てくると思うが、今そのどれかを選ぶなら最初は初めてデートした場所が妥当だと思う。
たとえそこですんなりと思い出さなかったとしてもその時のことはその時に考えればいい。
俺は夏の母親から連絡が来たらまずはそこに夏を連れて行こうと決めた。
「はぁ……」
決意をした直後に俺の口から零れたこれは深呼吸。
ではなくため息だった。
何故そんな場違いなものが今、零れたのか。
それはもちろん吐いた張本人である自分が一番よくわかっている。
俺たちからしたら何でもないようなものが夏からしたら身に覚えのない奇妙なものに見えている。それは約1年間恋人だった俺の存在も含めて。
だから記憶を無くした今の夏が何を考えているのか、夏とこれからどう接していけばいいのか、今はそれさえも考えるのが難しい状況。
だがそんな状況だからこそ元の元気だった夏に会いたいという気持ちを持っている周りの人間が率先して夏の手助けをしていかなくてはならない。
むしろどんなに苦労したとしても自分がその周りの人間に入っていると思うなら俺はそうするべきだと思う。
当然、俺が夏の恋人なら同じことを考えていただろう。
夏を取り戻すためならたとえ何日かかろうと出来ることを探して尽力していくと。支えていくと。
それは俺もちゃんと理解しているし、すぐに行動にも移すつもりだった。
本当に夏の恋人なら。
「あぁ」
何もない空を見上げる。
「———めんどくさ」
俺たちの恋人関係は1週間前に既に終わっていた。
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