2回目の初デート

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 水族館を訪れてから一時間ぐらいが経った頃。 「歩くの速いって」  俺が後ろからそう声をかけると、彼女は足を止めてゆっくりと俺の方に振り返る。  俺はそこで文句の一つでも言われるのかと身構えたが、向かい合った彼女が浮かべていたのは小さな微笑みだった。 「見てください」 「……ん?」 「ほらあそこ、不思議な魚がいますよ」  俺がそこで返事をするまでに少し間を置いたのは、彼女が自分以外の誰かに話しかけている可能性があったから。  しかし思い込みじゃなければ彼女は俺に話しかけている。 「あー、ほんとだ。変な魚がいるな」 「変は可哀想ですよ。よく見たらほら、可愛いじゃないですか。うーん、でもさっきから全然動いてくれないんですよね」 「多分昼寝してるんだろ。びっくりするかもしれないからそっとしといてやれ」 「はーい」  俺の注意に嫌な顔一つせず従った彼女がまた水槽の中をうっとりとした表情で見つめ始める。  そうして再び訪れた沈黙。  そのとき俺が感じたのはもちろん慣れ親しんだ空間が戻ってきたことへの安心感などではなく、散々だった二人の関係に訪れた変化だ。  その変化というのは一時間前の俺たちと比べたら一目瞭然だが、二人の間で言葉を交わす回数が目に見えて多くなっていること。  つまり俺たちは手を繋いだあの事故をきっかけに、絶対に無理だと思っていた普通の会話ができるようになっていた。 「今ちょっと動きましたよね?」 「あ、悪い。見てなかった」 「えー……」  ただ勘違いしてほしくないのはその変化があったからといって、彼女に気を許したというわけでは決してないということ。  俺が彼女の歩幅に合わせて歩くようになったのも、彼女の話に付き合うのも、単に目も合わさなかった最初の方が酷すぎたというだけだ。  だから何も知らない彼女がこの先どれだけ俺のことを信頼してくれたとしても、俺は今の持ちつ持たれつというスタンスを変えるつもりはない。  彼女が元恋人である限りはずっと。 「あ、あっちにすごくカラフルな生き物がいますよ。祐樹くんも早く行きましょう」 「だから歩くの速いって……」  そのことを念頭に置きながらも、俺は自分勝手に進んでいく彼女からはぐれないように急いで足を動かした。 「この子がさっき言ってた子です」  立ち止まった彼女は数多くある水槽の中から一つを選んで指差す。  もちろんそれ自体はありふれた光景なのだが、俺は彼女の指差した方向にいた生き物を見て少し驚かされた。 「何か見覚えあると思ったらそれ、前に来た時の夏も可愛いって言ってたやつだ」 「ほんとですか? 珍しいこともあるんですね……。あ、もしかして……」 「ん?」 「同じことを思ったっていうことは、記憶が少しずつ戻ってきてるのかも……!」  彼女はそう言いながらキラキラした目を俺に向けてくる。  対して彼女の瞳に映る俺の目はどこまでも冷たいものだった。 「どうだろう。好きなものが同じってだけで判断するのは急ぎすぎな気もするけどな」 「え、そうですか?」 「うん。だって記憶喪失でも君と夏が全く違う生き物ってわけじゃないんだし」  俺がそう言うと、彼女は納得というよりかは驚きとか関心といったような表情を見せる。 「あ、そっか。記憶喪失になったとはいえ私は元々夏さんでしたね」 「でしたねって。おいおい、そこからかよ」 「えへへ、ちょっとうっかりしてました。でも私もこの生き物、なんとなく気に入りました。やっぱり私は私なんですね」  私は私。  一見すると当たり前のように感じるその言葉は、何故か彼女が口にすると深い意味があるように聞こえてくる。  俺はそのせいでどこかぼんやりとした態度を見せつけられてもそれ以上突っかかる気になれなかった。 「結局、自分ではどう思ったんだ」 「うーん、どちらかというと祐樹くんの言う通りかもしれません。見覚えみたいなものはないですから」 「そっか……」  やはり記憶が戻りつつあると彼女が思ったのはただの早とちりだったのか。  それとも奥底では着実に何かが動き始めているのか。  現状では何の判断もできないが、子供っぽかった彼女がその一瞬だけ大人に見えたのは確かだった。  その後、次のフロアを跨いだ俺たちは一際大きな水槽の前にいた。 「大きなサメですね……。私だったら丸呑みにされちゃいますよ」 「みんなそうだ」  ここは全部で七つあるフロアの中でも最も大きいと言われている四つ目のフロアで、生き物の種類も迫力も他のフロアとは段違いにある。 「祐樹くん、次はあそこに行ってみましょう。違う角度から見れるみたいですよ」 「そうだな。でもちょっと待ってくれ」  興味津々な彼女が早くも次の場所に行こうとしたのを俺は急いで呼び止める。 「どうしたんですか、祐樹くん」 「一旦ここで休憩を挟もうと思って。このフロアは休憩場所も兼ねてるんだ」 「休憩ですか。心配しなくても私そんなに疲れてないですよ?」 「いや、俺が疲れてるんだよ」  そんな皮肉を込めた言葉に「それなら仕方ないですね」と元気よく頷いた彼女と共に近くで見つけたベンチにそっと腰を下ろす。  本音ではここで何もせずゆっくりしていたかったが、休憩を挟んだ理由に落ち着いた場所で記憶の話がしたいというのも若干含まれていたので、俺は止むなく彼女の方に顔を向けた。 「……結構歩いたな」 「そうですね。この先にもまだフロアがあるなんて信じられないです」 「全部回れるかはわからないけどな。それで、どうなんだよ」 「どうって?」 「記憶のことに決まってるだろ。ここまで色んなものを見て回ったけど、何か変化みたいなものはなかったのか?」  当たり障りのない話題を早々に切り上げて記憶の話題を出すと、彼女は途端に顔を俯かせる。 「うーん……」 「その反応、やっぱりまだダメか?」 「はい……。ここまで来て何となく懐かしい気持ちにはなるんですけど、思い出すことはあんまりないみたいですね……」 「なるほど。それは断片的なものも含めてってことだよな?」 「そうみたいです……」  俺の質問を申し訳なさそうに否定していく彼女。  この時点で俺の頭の中にあった候補のうちの一つである前半で断片的なものを、そして後半でそれらが合わさって全体を思い出すという線は綺麗さっぱりなくなったわけだ。 「そっか……。まだ中間地点ではあるけど、君の記憶喪失は一日ではどうにもならない程度には難しいものってことか」 「あの……すみません……」 「いや、今の状態を確認したかっただけで別に期待してたわけじゃないよ。流石に俺も一日目でそんなに求めたりしないから」  そう言いつつも変化がないことを聞いてがっかりした俺だが、このままやる気を無くされても困るので一応優しい言葉をかけた。 「それならよかったです……。でも、祐樹くんのためにも夏さんのためにも出来るだけ早く記憶を取り戻せるように頑張りますね」 「うん。むしろそうしてもらわないと困るから残りのフロアもその調子で頑張ってくれ。こんなにも記憶記憶って言われて楽しくないかもしれないけど」 「そ、そんなことないですよ。そういう目的できたわけじゃないのはわかってるけど私、今すっごく楽しいですから」 「そっか……。もちろん記憶を取り戻すことの方が大事だけど、楽しんでくれたなら良かったよ」  彼女も言うように別に楽しむために水族館まで足を運んだわけではないが、つまらないよりかは楽しんでる方が記憶を取り戻す上では重要になる可能性もある。  それに彼女がちゃんと記憶のことを考えていることは知っているので、今はもうその言葉について特に何かを思うことはなかった。 「祐樹くんは……」 「ん?」 「祐樹くんは楽しいですか……?」  会話が止まりかけたところで、彼女からそんな難しい質問が飛んできた。 「楽しい、か……」  今までのことを思い返すと、確かに俺はあれほど忌避感を抱いていた彼女に多少なりとも心を開いていた。  そのことは認める。  だが最初に言ったように俺たちは元恋人であり、ここはそんな彼女と付き合っていた頃に行った思い出の場所。  もしその状況で楽しむことができるという人間がいるとしたらそれは頭のおかしい人間か、もしくは元恋人に未練がある人間だけだ。  つまりこの場合の俺の答えはもちろん楽しくないというもので、そして口に出すべき言葉はその逆。 「……ああ、もちろん楽しいよ」
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