最後の逃避行

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最後の逃避行

 サウナのように蒸した空気を体に受けながら、俺は何故か大嫌いな夜を息も絶え絶えに駆けていた。たまたま月齢が満ちていた今夜は街灯が少ないこの住宅地を走るのに向いている。35年もこの街で生きてきたのに暗闇と月光のせいか、視界を流れる景色は記憶のものとは異質に感じる。脳内に酸素が足りないのも原因だろうか。荒れる心臓の鼓動と共に判断力が不安定になって、どこに行けばいいかわからない。  でも今はとにかく少しでも遠くへ、飛び出した自宅から1センチでもいいから遠くに行きたかった。その目的だけは消えないで頭に残り足の筋肉を動かした。  時間の感覚はとうにない。どこまで来たのか確かめようにも、朧げな過去と現在地を走りながら絵合わせできるはずもない。せめて一目で場所が分かるところを目指して当てなきまま進んでいた。  肺も血液からも酸素が枯渇し大粒の汗でどろどろに濡れても老人のジョギング並みの速度で動いていた。もう、限界が近いと自覚していたそのとき、坂道の手前を曲がった所で大きなコンクリートの壁とその上で敷地を囲む金網のフェンスが区画に沿って広がる光景が視野を埋めた。  ここは覚えている。確かに記憶にあるとおり、俺が通っていた小学校が当時と全く変わらない姿で夜の街にそびえていた。疲労と不安と焦燥でぐちゃぐちゃになった俺の心が少しだけ気力を取り戻した。  わずかな希望で思わず足が止まった。しかしここに這いつくばってはいられない。2回だけ呼吸を整えるために深呼吸してから再び走り出す。  先ほどまでと違うのは明確な目的地ができたこと。小学校が本当に当時と変わらないままなら、と期待を込めて地面を蹴る力が強くなった。  ぐるりと壁沿いに走って反対側にお目当てはあった。学校は坂道に建てられているため土で平らな高台を作って建っている。つまり周囲のコンクリート壁は坂の上に行くほど低くなりやがて道路と繋がり消える。そこから壁の上に乗ることができ、金網のフェンス。  そのフェンスの運動場に面した一か所に俺が通っていた時から空いている穴があった。小学生時分は余裕で通れたが、今の穴の大きさは当時より大きくなっていた。恐らく歴代児童達が通って外に出る遊びを繰り返した結果だろう。呼吸を休める間もなく俺は地面に屈んでフェンスを潜り抜けた。  その出口は一面乾燥した土しかない。その奥、坂上側には校舎が東西方向に二棟と南北に大きな体育館がみえる。当然窓に明りはない。敷地を照らすのはいくつかの非常灯と満月だけだ。  深夜の学校は昼間の喧騒が嘘みたいな静寂が支配していて、夜の街の何十倍も多くの寂しさを感じた。  俺は体育館に近い運動場の隅へ歩いた。そこで一度休もうと考えた。  たどり着いたそこで垣根に身を寄せるように腰を下ろした。脱力して大きく安堵の溜め息を吐いた。  こんなに体を動かしたのは20年ぶりくらいか。いや子供の時ですらこんなに運動したことはなかった。体育は苦手だ。そもそも得意な科目なんてろくになかった。けど真面目に授業を聞きノートをとって、少し勉強すればまあまあな点が取れた。ずっとそうだった。小学校は、いい思い出ばっかり。だけどそれもほとんど忘れてしまったが。  人の記憶は繰り返し思い出すことで定着していく。逆に思い出さなければ、脳内で反復しなければ睡眠中に勝手に忘れてく。人間を創った存在がいるのならそいつはロクな奴じゃない。欠陥だらけの検品ミスがこんなに繁栄すると予想できない時点で創造者失格だ。  肩でしていた息が平常に戻る頃、俺の頭上のもっと後ろから不意に水音がした。  俺しかいないはずの敷地内に誰かの気配を感じて一気に全身が硬直した。耳の奥に集中して風の音一つ聞き漏らさないように気を張り詰めた。  ……60秒くらいそうしていたと思う。動物の鳴き声も虫の声も近代的な町中にはなかった。聞こえたのは遠くで鳴り響く救急車のサイレンくらいだった。  俺はそっと立ち上がり振り返った。後ろは高台の壁でその向こうにはプールがあったはず。聞こえた水音は十中八九そこが音源だ。  万が一誰かいたら、またここを出なければいけない。暑さとは違う汗が首筋に沿ってシャツに染み込むのがわかった。深く空気を吸い直して、俺はプールに繋がる右手の階段を上った。  一段も踏み外さないよう意識する足裏がスニーカー越しに所々ひび割れた面を感じる。目線は上げておいて未知なる人影を先に捉えるべきなのに暗さが怖さになって綿菓子みたいにまとわりつく。情けなさに笑えてくる。  いよいよ最後の段を上がるまで俺は下を向いていた。  左側に体育館が、右側にプールがあり四方を金網とトタンの様な金属板で囲まれている。  その間の通路をうつむき加減で歩いていると水面に物が落ちたような音が静謐を壊した。先ほどより大きな物が落ちたと思った。ちょうど人間ひとり分くらいの大きさ。  よからぬ想像に消したい記憶が勝手に連想されて髪を掻き毟った。くそ、もうしょうがないんだ。過ぎたことが戻りはしないし、やったことを変えられないなんて痛いくらい理解してる。  苦しくて心臓が肋骨を押し退けるくらい跳ね上がった。俺はシャツの胸を触れない己の中身の代わりに握り潰した。無意識でやめていた呼吸に気づいて肺に溜まった不純物を吐き出した時、 「誰かいるの?」  トタン壁の中から女の声が聞こえて俺は体育館の扉際に跳んだ。猫背が思い切りぶつかり轟音が無人の館内に反響した。  恐怖にやられた俺の聞き間違いじゃないか? 頭蓋にまで共鳴する自分の脈動を感じながら、もう一度声がしないか待ってみた。 「そこにいるんでしょ。こっち来なよ」  確かに人の声だ。現実の女の声が俺を呼んでいる。  行くべきか迷っていた。日付を跨いだこんな夜更けに小学校のプールにいる奴がまともな訳がない。  絶対やめた方がいい。  今までの俺だったらそう思い大人しく身を潜めていただろう。しかし今夜は嫌いな暗闇に居すぎたせいか俺もどこかおかしかった。迷いは心から抜けて月の引力に持っていかれた。  歩き始めた俺は通路を抜けて鍵のかかったプールの入口を乗り越えた。  中に入ると塩素のにおいが強まった。脳の残る懐かしさを呼ぶ臭い。嫌いだった中学のプール授業、25メートル泳ぎきるまで休ませてくれなかった先生、四肢で藻掻いて渦巻く水の騒音、気管を塩素で焼かれ咽る自分の声を無視して鼓膜に届く気持ち悪いクラスメイトの笑い声。フラッシュバックする封印した過去が20年ぶりに蘇った。ここには楽しい思い出しかないはずなのに、鮮明に思い出すのはそれから数年後のごみ箱に捨てたい記憶ばかり。  歪む視界に吐き気を催しその場に膝をついた。切れ切れに口から息が出て気が遠くなる―― 「おじさん、大丈夫?」  掛けられた言葉が俺の意識を無理やり現実に引っ張り上げた。  俯く目の前にいつの間にか人の素足とそこにできつつある水溜まりが見える。  ゆっくり顔を上げていくと濡れた肌は膝辺りで見えなくなり代わりに皮膚に張り付く黒い布があった。それも腰で止まりそこから上はしわの寄った白いシャツになった。どこかの学生服を着た少女だった。  顔は黄色い月を後頭部に受けて逆光になりよく見えない。 「そんなにみつめないでよ。恥ずかしいから」 「あ、す、すいません」  どうみても年下の相手なのに緊張してしまう。  少女はしばらく俺の顔を観察して後ろを向いた。水滴を垂らしながら歩き、 「ふふ」  ほのかに笑って台からプールに飛び込んだ。手の指先から緩やかな軌道で俺の視界から消えた。  立ち上がってプールサイドに近づく。少女は飛び込み姿勢のまま水中に沈んでいた。水面の波紋が徐々に平らになる頃、少女は腕を畳んで体を翻し脱力して浮かび上がった。  ようやく顔がはっきり見えた。白く脆い氷砂糖みたいな皮膚に塩素で充血した瞳は黒曜石を嵌めた人形の眼に似ていた。短く切りそろえた色素の抜けた灰色の髪が水に馴染んで満月を反射して妖しく光っている。力なく開いた口から浅い呼気が漏れていた。  俺が呆然としていると、 「おじさんも入りなよ。暑いでしょ? 水はいいよね。蒸気になったり氷になったり、色々形が変わるけど全部同じなんだよ。常温にしたら元の水に戻る。一人になることがないから寂しくない」  少女は唇と舌と声帯だけを動かして、水面から俺に話しかける。今の俺の頭では何を言ってるのかよく理解できない。  俺が変わらずに立ち尽くしているのが癇に障ったのか、少女は穏やかな声のまま、しかし語気を強めて、 「いいからこっち来て。どうせ帰りたくても帰れないんでしょ? あんたを待ってる人もいないんでしょ? なら何も考えず飛び込んで」  10歳以上も下の奴にここまで言われたら流石に黙っていられない。 「くそ!」  俺は疲労体に鞭打って縁から全力でプールに飛び込んだ。  瞬間、鼻に水が入った。不格好な飛び込みは水にぶつかる衝撃が強く、受け身も取らずに入ったせいで腹と腕に鈍い痛みが出た。底の色と夜の闇が混ざってまるで大海の沖のような深い青色が視界に広がる。  すぐ息が持たなくなり足をついて空気を吸った。  後ろで俺の姿をケラケラ笑う少女がいた。年の割に乾いた笑い方をしていた。  ただ笑われても嫌な気持ちはしなかった。水も少し飲んで全身濡れてないところがないのに感情がぐちゃぐちゃに混ざったりしない。  さっきまで過去に浸食され嫌悪思考しか働かなかった俺の心情はあらゆるしがらみから解放されていた。  俺は自然と後ろに倒れて少女と同じく水面にぷかぷか浮かんだ。街中の夜空には月以外には夏の大三角くらいしかわかる星がなかった。けれど、どれもが強く確かに光っている。泳ぎが苦手でもプールの楽しみ方はあるのをやっと思い出した。 「ねえ」一呼吸おいてから俺は続けた。 「君はどうしてここにいる?」 「おじさんが来るのを待ってた」 「え」 「嘘だよ。……ただプールが好きなだけ。ここが大好きだったんだ。でも卒業して、進学して、仲良かった友達と反りが合わなくなって。部活も勉強も、そこから全部しんどくなっちゃった」  濡れた顔を生暖かい風が乾かしていく。 「それから毎晩のようにここに来てるんだ。校庭の金網の穴から入ってきて、ここで夜明けまで浮かんでる。ずっとこうしてると体が溶けて水と一つになったみたいに思うんだ。ただそれだけが生きる意味だった。今はもう元気だから違うけどね、すっかり習慣になっちゃって。夏休みだから来てるんだ」 「生きる意味……」  返せる言葉はどこを探しても見つからなかった。何を言っても全て少女を透過して自分を突き刺す凶器にしかならないとわかっているから。過去の俺を少女に投影することすらおこがましい行為に思える。  全部、全部わかってるんだ。  本当は悪いのは自分ただ一人だってことはずっと昔からわかってる。世の人の大半は真面目にそれぞれの立場を飲み込んで生きて社会に貢献してる。俺は中学時代に折れた心を直そうとせずに夢と堕落の部屋に鍵かけて閉じ籠った。自ら復帰の手を何度も放し続けて崖を落ちていっただけだ。それは両親のせいでも金銭のせいでも友人のせいでもない。夜が悪いわけでもない。  未来を漠然と不安視して、見えないものをひたすら拒絶して恐怖していた俺は逃げ続けた。とうとう本当に逃げられない場所まで来てしまった。もう前に進むしかなかったのに、俺は、最後まで救いを差し伸べてくれた人達の手が俺を追いつめる魔の手だと勘違いして正当防衛に及んだ。  違う! 正当なもんか。内に溜め続けた疑心不満と自己否定の念を理不尽な暴力と破壊に変換して一番近くにいた存在に放ってしまったんだ、俺は。  どうしようもない。  本当に、早く死ぬべきだったどうしようもない人間だ。 「――なんでおじさんが泣いてるのさ」  気づかぬうちに隣で浮かんでいた少女の声を聞こえないふりして俺は堪えきれない涙を流し続けた。  たとえ今から何かできたとしても、もう一度人生をやり直すチャンスがあったとしても、俺のしたことはなくならないし彼らが元通りになることもない。  俺のシャツに跳ね返った両親の血はプールに滲んでも完全に落ちることはない。耳に残る力なく叫ぶ年老いた母親の声が忘れられない。 「私、将来やりたいことがあって」  少女は独り言のように喋り続けた。 「小説家になりたいんだ。別に本が好きとかじゃないんだけど、でもこないだ偶然読んだ小説が、ありきたりな表現だけど人生を変えてくれてさ。ああ、私も誰か一人でいいから良い方向に変えてあげられたらなって。まあ単なるエゴイズムかも」  少女の声に熱がこもっていくのがわかる。 「でもさ、自分勝手でもいいなって最近ようやく思えるようになったんだ。前まではひたすら周りの人に気遣って、親の言うことに従ってね。それも悪いことじゃないと思うけど、そればっかりで自分の心が死んじゃったらどうしようもないから」  プールサイドは静かだった。  俺もいつしか泣き止み、少女の話に耳を傾けていた。  2時間も3時間もそうしていたような、それくらい静かで長い時間を過ごした気がした。いつまでも続けばいいと、初めて良い意味で心から思った。  けれど終わりは確実に近づいていた。わずかに白んできた東の空、そう離れていない場所でパトカーの警報が鳴っていた。  俺は少女に尋ねた。 「俺のこと見たとき怖くなかったの?」 「初対面の女子高生に敬語使う人が悪い人じゃないでしょ」  乾いた笑いを含ませながら少女は言った。 「おじさんが具体的に何したかは知らないけど。まだ終わらせちゃダメだよ。そんなのずるいもん」 「……そうか」 「そうだよ。一人で逃げるなんてありえないし。私の小説読むまでいてくれなきゃ困るよ、なんて。これも私のエゴか」 「いや、そんなことない。ありがとう……」 「なに? また泣いてるの?」 「う、うるさいな!」  ケラケラ笑う少女に釣られて俺も笑った。溺れそうになるくらい笑った。久しぶりに頬の筋肉を酷使して明日は筋肉痛を起こしそうだ。  朝の光が体育館の向こうから輝く。気温の上昇を肌で感じ始めた頃、少女は浮くのをやめて日常の重力の世界に立ち上がった。  プールサイドで制服の裾を軽く絞って未だ無重力の世界にいる俺と視線を交わしてから、何も言わず入り口を乗り越えていった。最後にとびっきりの笑顔を残して。
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