もしも今日、彼に会えたら

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 青空に浮かぶ雲が、流れるように通り過ぎていく。  春の風が、校庭の土ぼこりを舞い上げた。  今年は気温が低かったせいか校門の傍にある桜は、まだ綻んですらいない。  卒業式……  私が新任教師として、この学校に赴任してから三度目となる門出の日。  教え子達の成長に目を細め、思い出を振り返ってホロリとし、喜びと寂しさを同時に味わうこの日。それは、楽しみでありながら、切なさを併せ持つ。  その特別な日、私はこれまでとは違う感情を抱いていた。  川瀬孝太郎……  三年前の入学式、彼との出会いが、緊張していた私の心を波を立たせる。  私の肩に乗っていた桜の花びらを、指でつまんだ彼は、それを手の平に乗せ、ふっと息を吹きかけ、にこりと微笑んだ。  ニキビ顔で、あどけなさの残る彼、背だけは高かったけれど、男というよりは男の子で、それなのに、その仕草が妙に色っぽくて、舞い上がった花びらのように、私の心は華やいだ。  教師として初めて迎える新入生、この時、既に私の心は彼に奪われていたのかもしれない。  彼は人懐こい性格だった。  美術教師の私が、休み時間に、校庭を見下ろせる斜面に座ってスケッチをしていると、いつの間にか彼は隣に座って、私のスケッチブックを覗き込んだ。  何かを語る訳でもなく、そっと私に寄り添って、スケッチしている私を見つめる彼。汗ばんだ腕が身体に触れ、「少し離れて」、と注意する事もあったが、いつの間にか、彼との近さが私の心をときめかせるようになっていく。  彼との距離が近くなるに従い、教師である私の心に葛藤が生まれる。  私を笑顔にさせてくれる彼の笑顔、その笑顔が見たくて、彼を見つめるのだが、周囲の目が気になって近づく事が出来ない。もっと近くに居たいのに、遠ざけねばならないもどかしさ…… そんな抑圧された状況が余計に私の心を燃え上がらせたのかもしれない。  空手部に所属していた彼は、二年、三年と成長していくに従い、あどけなさが消え、そしてその代わりに、逞しさが備わっていった。  美術の道具を運ぶのに苦労している私を見つけると、彼は真っ先に駆け寄って、軽々と運んでくれた。突然のにわか雨で途方に暮れていた私に傘を差しかけてくれたのは彼だった。話す内容は、教師と生徒の会話だったのに、いつの間にかお互いの趣味を語るようになり、日常を語り、心の内側までさらけ出すようになった。  彼が私への思いを口にした時、彼の存在は、生徒でも、男の子でもなくなり、確かな男へと変わった。  胸が張り裂けてしまいそうな程の喜びと、彼の気持ちを受け入れられない立場、それが故に苛まれる罪悪感。私の心は、嵐の波に浮かぶ小船の様に激しく揺らいだ。  「私とあなたは先生と生徒の関係なの……」  そう言うのが精一杯だった私に、彼はたったひと言、「分かっているよ」、と言って、はにかんだ。  先生と生徒の関係が解消される日…… それは卒業式。  私はカレンダーに赤い丸をつけて、その日がやって来るのを指折り数えた。  卒業式を間近に控えたある日、彼はある計画を話してくれた。  それは卒業式典の閉会の言葉とともに、卒業生全員が隠し持っているクラッカーを鳴らすというものだった。そしてクラッカーを鳴らすとともに思い思いの言葉を叫ぶ、彼が発案したらしい。  「僕は先生への思いを叫ぶ」  彼はそう言った。  「その言葉を受け止めて欲しい」  真剣な眼差しで私を見つめた。  そしてまさしく今、その瞬間がやって来る。  教頭先生の閉会の言葉が終わる。  誰かが、せーの、と叫ぶと、それに合わせてけたたましい音が鳴り響いた。  カラフルな紙テープが宙を舞い、驚いた教員たちが目を丸くする。  父兄から沸き起こる喝采、そして卒業生達の心の声が体育館に轟く……  たくさんの声が重なり合って、何を言っているのか分からないが、私には分かっていた。その中に、彼の叫び声が含まれて居ない事を……  彼は卒業式の二日前、死んだ。  春とは思えないような冷たい雨が降り続いたその日、バイクに乗っていた彼は、信号無視をしたダンプを避けようとして、転倒した。  殆ど即死だったそうだ。  彼は、私への思いを胸に抱いたまま、逝ってしまった。  私の思いを受け取る事無く……  そして私の心は空っぽになった。  もしも今日、彼に会えたら、どんな笑顔を魅せてくれたのだろう。  もしも今日、彼に会えたら、どんな晴やかな姿を披露してくれたのだろう。  もしも今日、彼に会えたら、どんな叫び声を私に贈ってくれたのだろう。  もしも今日、彼に会えたら、私はどんな思いを捧げたのだろう。  もしも今日、彼に会えたら、私にはどんな未来が待っていたのだろう。  だけど彼に、今日という日はやって来なかった。  彼は卒業式に出席していない。  彼の叫び声は、卒業生達の声に含まれて居ない。  彼が発案したアイデアだったのに……  だから私は叫んだ。彼への思いを力いっぱい込めて……  「愛してるよ!」  涙にくぐもった私の声が、少し遅れて体育館に響いた。
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