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うだつが上がらない顔で、院内の廊下を歩き、母・叶恵のいる治療室へと戻っていく貴志。
その途中、目の前に現れた人物があった。
「貴志。」
そう呼びかけてきたのは、久しぶりに会う山口 美咲であった。
ほとんどがバイト先で見る仕事姿であったから、久しぶりの普段着は新鮮に見える。
美咲は、淡いピンクのTシャツに、黒のミニスカートを履き、背中には黒いリュックを背負っていた。
顔の方は気のせいか、普段よりもナチュラルメイクに近く、ほとんどノーメイクに見える。
二人は、街が一望出来る屋上へと移動した。
晴れた日差しが、少し強く感じられる。
「お母さん・・。叶恵さんの具合、どう?」
先に話しを進めたのは、美咲の方だった。
やや俯き加減になりながら、貴志が答える。
「ん、ああ。今、担当医の先生に話しを聞いてきたところだよ。順調に回復してきているけど、あともう少しなんだって。」
「そう。良くなってきているなら、良かった。」
美咲は、安堵の表情を浮かべながら返した。
二人とも、屋上から見える同じ景色を眺めながら、何気ない沈黙の時間が流れる。
そして再び、美咲の方がポツリと言った。
「前さ、話した私の気持ちへの返事・・。」
貴志はそう言われて、突然話題が急転した事と、その内容に気が付かずに静止してしまう。
気持ちへの返事・・・⁈
「はっ!」
すぐに思い出した貴志は、一瞬声を上げる。
そうだ。
あれは、昨年の12月24日、クリスマスイブ。
鬼切店長の家で、貴志と美咲が呼ばれて、三人でクリスマスパーティーをした時の事だ。
貴志はグルグルと、その時の事を思い出している。
——————————。
美咲が何かを思いついたかのように、貴志に言う。
「あのさ、さっきの話だけど。」
「何? さっきの話って?」
美咲が、食い下がってきた。
「彼女が欲しいって話!」
「ああ、それね。」
貴志は飽きたような顔をして返答し、コップのシャンペンを口に運ぶ。
「良い事を思いついたの。私が、貴志の彼女になってあげるわ!」
「ぶはっ・・‼︎」
貴志は、口の中のシャンペンを見事に吐き出した。
「ゲボッゲボッ・・。」
そして苦しそうに、咳き込んでいる。
その時、貴志の背後の大腿部の所にソファの背もたれ部分が当たって、そのままソファの方へ倒れ込む事になる。
「うわっ・・!」
ボスッ!
貴志は見事にソファの座席へ、仰向けに倒れた。
不意な事に焦ったが、すぐに身体を起こそうとする貴志。
しかし、そこへ美咲が覆い被さるようにして、顔の目の前にきた。
驚きのあまりに、貴志は一瞬呼吸が止まる。
貴志は両目の視点が定まらないぐらいの、すぐ目の前に美咲の顔がきていた。
その時、ふんわりと甘い花のような愛しい匂いが、貴志の嗅覚から全身を包み込む。
貴志がふと気がつくと自分の唇に、今まで触れた事のない柔らかな感触が口先口先から痺れるように広がっていくのを感じた。
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