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ここ数ヶ月散髪にも行けずに伸びてきた髪たちが、少しのドライヤーぐらいでは言う事を聞いてくれるはずもなく、とりあえずとして整えた髪型で納得するしかないのだ。
それでも色白の肌と、長めのまつ毛から見えるシャープに伸びた瞳は、爽やかな好青年の印象を周囲から持たれている。
急ぎながら、ドカリと玄関に座り込んだが、この痩せ型の誠ですら窮屈に感じる程、狭い玄関口であった。
そんな事にも今では慣れていて、いつものように手早く靴を履く。
誠は立ち上がると、小さな弁当箱らしき巾着を片手に持って、家の台所の方へ声をかけた。
「じゃあ、行ってくるよ。」
不器用な抑揚のない声であった。
その時台所の方から、慌てて若い女性が現れる。
「誠! 待って、コレ! 手袋、忘れてる!」
そうして玄関口まで駆け寄って来て、黒い手袋を手渡してくれた。
この若い女性こそ貴志の『前世』であり、誠の妻である、桜北 久美子なのである。
急いでいる誠は、手袋をはめながら外へと出たが、より一層その寒さを全身で感じて思わず、
「うう・・寒っ。」
と呻《うめ》く。
僅かながらでも、温かさを感じようと思い、手袋の上から両手に息を吐きかけたが、白い凍てつくような寒さの中では、無意味に思える行動だった。
アパートの階段を降りた誠は、下の駐車場に停めてあった自分の原付バイクに、鍵をさしてエンジンをかける。
2、3回程エンジンのかかりが悪く、くすぶっているように感じたが、なんとか始動出来た後、バイクへと跨《またが》った。
まだ薄暗い小道をバイクで走り、すぐに一般道へと辿り着く。
早朝のせいか寒さのせいか、どちらにしろ行き交う車や人は殆どなく、うっすらと白い空気と景色は、一色の風景画でしかなかった。
更に、凍える気温にも増して、バイクで風を切って突き進む行為は、表出した一部の肌をまるで鋭利なナイフで切り裂くように、その寒冷の仕打ちを受ける事になる。
しかし、誠が今戦っているのは寒さだけではなく、迫り来る時間も気にしておかなければならなかった。
ゆっくりしている暇はない。
仕事の開始時間は、朝6時からなのである。
寒風をくぐり抜け、ようやく職場に辿り着いた誠。
河川の傍の駐車場へバイクを停めると、古めかしい建物の中へと駆け込んでいった。
早朝のまだ薄暗い最中、建物内には既に電灯がつけられていたが、それとは反対にこの時期でも敢《あ》えて暖房を入れていない事には理由がある。
誠が到着した20畳程の調理場のような一室は、ひんやりと寒さが漂い、中央に堂々と置かれた分厚いまな板には、太い包丁が横たわっていた。
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