7人が本棚に入れています
本棚に追加
調理場では、金目鯛店長も西郷さんも、それぞれ大きなまな板の前に立ち、包丁を持って仕事にかかっている。
ひんやりと冷え切った室内にも関わらず、調理台のすぐ横には、子供一人が入る程の大きさのポリバケツが置かれ、その中に水道ホースから水が注がれていた。
それが、ポリバケツいっぱいになり、まるで湧水のように溢れ出ていく。
巨大な冷凍室からトレイを二つ抱えてきた誠は、調理台の上に置くと、その中身を確認した。
トレイの中身は、凍らせた魚が並べられており、その隙間にも満遍《まんべん》なく氷が振りかけられている。
ほんのひと時、躊躇した誠はチラリと他の二人へと目を移した。
金目鯛店長も西郷さんも、魚を片手に作業をはじめている。
改めて、自分の持ち場となるケースの中の魚たちを見つめた誠は、それらを横に置かれてあった水のポリバケツへと移していった。
まるで、北極の海に浮かぶ魚たちである。
未だ作業をはじめていない誠に気が付き、金目鯛店長から雷が飛んできた。
「誠! 早く、急いでやれ! 何をグズグズしてる!」
その光景はまるで、目もくらむ程の高い所から海へと飛び込もうと位置にはついてみたものの、その勇気が出ずに、しばらく戸惑っている姿に似ている。
出来る事なら、このまま飛び込まずにやめて帰りたい。
しかし、それももう限界なようだ。
絶対的命令の金目鯛店長が、最後の通告を促してきたのだから。
時間の経過とともに、少しずつ外が白みはじめて、その明るさが僅かに窓から入り込んでくる頃、尚も寒さだけは余計にも体の芯へと染み込んでいた。
どうにでもなれ!と、意を決して飛び込んだつもりの誠は、軍手を着用した片手をその氷水のあるポリバケツへ漬け込んでいく。
その瞬間から、自分自身も氷水と同じ温度に変わっていくのを感じ、冷たいという感覚は限界を超え、手に痛みを感じたかと思うと、すぐにそれは麻痺にも似た症状へと変わっていった。
その僅かな時間に、先程漬け込んだ魚の一匹をなんとか掴んで、まな板の上へと引き上げる。
「ううっ。」
堪《こら》えきれない程の痛みが、全身へと広がっていき、体中の体温を下げていった。
そのままの勢いで、鱗《うろこ》取りと呼ばれている道具を握り、まな板の魚の鱗を剥ぎ取っていく。
こんな作業をもう数ヶ月程続けてきたが、未だに慣れる事はなかった。
誠が、雇われているこの職場は、店を構えた魚屋である。
まだ暗い朝早くから店長らが、せり魚市場へと赴き、新鮮な魚たちを買い付けてきた。
それを開店前までに、鱗を取ったり、刺身として調理したり焼き揚げたりと、準備をするのである。
最初のコメントを投稿しよう!