マウント・フジ

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 一富士二鷹三茄子という言葉がある。初夢で見ると今年一年縁起が良いとされているものたちである。鳥や野菜にそこまでの力があるかは分からないが、少なくとも富士山が日本人にとって象徴的なものであることは間違いない。多くの人が恐らくそのシルエットを見ただけで富士と当てることが出来るだろうし、何より日本列島で最も大きい存在である。空気の澄んだ冬のよく晴れた日には遠く房総の片田舎からでも見ることが出来た。その時分には、見飽きた街角の遥か彼方に亡霊のようにのっぺりと佇んでいるので、少し夢を見ているような気分になった。  その年は大した初夢を見ることもなく正月が終わり、それは同時に冬休みの終わりを意味し、そして寒さがいよいよ厳しくなったある日の放課後、赤い鼻をした顧問が良いニュースがあるといって体育館に入ってきた。それは学校一の秀才であった部の先輩が東京の難関私立高校に合格したことであった。その報告に部員は大変興奮し、興奮は瞬く間に体育館で練習していた他の部活にまで広がった。この地域の私たち位の年代の子供は皆、自身を取り巻くその閉鎖的な環境に少なからず息苦しさと諦念の感を抱いていて、それと単純に先輩が生徒会長もしていた校内の有名人であったから、尚更希望の星のように扱われている節があったのである。  その日は帰り道でも当然の如く先輩の話題で持ちきりだった。いいなあ東京、あら私はディズニーランドに行ったことあるよ、あれは東京じゃなくて千葉でしょう、私は東京はないけど一昨年神奈川に行ってきた、夜景なら神戸が綺麗だったなあ、という風に、いつの間にか自慢合戦の様相を呈していたが、化粧もせず、顧問同様に鼻を真っ赤にしてそんなことを言い合っても甚だ滑稽でしかなく、少し行けばすぐ畑広がる畦道へとぶつかるこの町が、悔しいけれどやはり一番私たちにはお似合いなのだろうなと、彼女らの会話には混じらないでぼんやりとそう考えていた。正確に言うと、混じる気力が無かったのである。  東京の私立に進学するということは即ち卒業と同時にこの町を出て行くということである。隣県とは言え此処から東京までは百キロ程の距離がある。先輩は、もしその高校に通うことになったら東京の親戚の家に居候させて貰うと言っていた。なのに誰も彼もがそのことに想いを馳せないで、ただひたすらに浮かれていることにもやもやとした。下手をすると、もう二度と会えないのかもしれないのに、皆は先輩がこの町から居なくなっても何とも思わないのだろうか。私は寂しい。先輩は私の初恋の人であった。  しかし、また私は事前に想定していた程に自身が悲しんでいないことにも気づいていた。きっとその場で泣き出してしまうだろうなと腹を括っていたのだが、実際はそんなこと無かった。思い返せば先輩が夏に引退して以来、かれこれ半年以上まともに会話もしていなかった。私の初恋は知らぬ間に終わってしまっていたというのか。何だか、そちらの方が悲しいような気さえしてくる始末である。  とは言え、家に帰り自室で一人きりになると自然に涙が溢れてきた。わけもわからず泣いた。そうして布団にくるまり、枕で顔を隠し、さめざめと音もなく感情を爆発させて、その内に日はすっかりと落ちて制服姿のまま私は眠りに落ちた。  結局、翌日の早朝になって漸く目を覚ました。十二時間近く寝ていたため身体は怠く、頭は重かった。シャワーを浴びようと洗面所へ向かい、鏡を見ると目の周りが見事に腫れていた。酷い顔をしていると我ながらしみじみと思った。今週中に髪を切ろうと決意した。  熱いシャワーを浴びた後、髪も乾かさず夜が明けるか明けないかの薄暗い冬の外へと出て、普段ならまずやらない庭の水遣りをした。そのまま布団に引き返してはいけない気がした。一日を何事もなくやり過ごすためには身を固く引き締める必要があると感じた。  十五分程で水遣りを終えたのだが、その短期間の合間に辺りはすっかり明るくなっていた。顔を上げると富士が出ていた。直線距離でおよそ二百キロ離れているが、ここから見える何よりもはっきりとしていた。先輩は来春からうんと遠く自分の知らない世界に行くのだと思っていたのに、それよりも向こうの富士が見えてしまっているのが変に可笑しくて、私は寒さも忘れて盛大に笑った。今度は笑い過ぎて涙が溢れた。こんなに笑ったのはいつ振りだったろうか。涙を拭い、最後にもう一度だけ富士を眺めてから家の中へ入った。それから、髪を乾かして、母が起きてきて朝ご飯を作り始めるまでの間、部屋に戻って今日の数学の授業の予習をした。ともかく、もう私は大丈夫だった。  それにしても、富士をこれ程頼もしく感じた日は無かった。それから数十年後に世界遺産として登録されることになるのだが、当時の私には到底知る由もない事だった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!