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義母の言葉は耳元で騒がれているかのように今でも耳についたまま。
「綾乃はあなた達よりも遅く結婚したのに、もう子供も1歳になるのよ。しかも男の子。いつまで仕事、仕事って言ってるつもりなのかしら」
うるさい、うるさい、あー、うるさい。
耳を塞ぎたくなるほどのノイズ。綾乃は柊斗の妹である。社交的な柊斗に似て愛くるしい笑顔を振りまく。綾乃が子供を産んでから義母の小言は更にエスカレートした気がした。
それに1人で耐えるのは無理だ。柊斗からなんとか言ってくれないか。そんな期待も込めて成美はそのことを打ち明けた。
「またか……。いつも母さんが悪いな。相手をするのも疲れるだろ」
世間には妻の味方をせず、母親の肩をもつ男も多いと聞く。しかし、柊斗はいつだって成美の味方をしてくれた。
「そんなことないけど……」
「俺から母さんに言っておくよ」
柊斗は約束を守る男だ。彼から義母にピシャリと言ったあと、暫くはいつも大人しくなる。
「ありがとう……。でも、私もそろそろ……子供作ってもいいんじゃなかなって思ってるんだ」
「え?」
「ほら、私ももう30になったし。仕事も落ち着いたしさ……」
「辞めるの? 仕事」
「え?」
「別に辞めるかパートにするっていうならいいと思うけど」
子供の話をするといつもこの展開になる。成美はじっと自分の持っているえんじ色の箸に目を向けた。
夫婦の財布は別々だった。税理士である柊斗は、当然財産の管理は自分でしたがる。だからといって成美の収入にまでとやかくいうことはなかった。
家賃と光熱費は柊斗が負担する。その代わりに食事を作る成美が食費と日用品の購入を負担していた。どれほど光熱費がかかろうとも柊斗が文句を言うことはないし、仕事の帰りに日用品を柊斗が買ってくることもあった。
だから、生活費の負担は圧倒的に柊斗の方が多い。
お互いに好きな物、欲しいものは自分で買う。それがこの夫婦のスタンスである。
お互いに自立しているからこそ成り立つ関係。成美がパートになれば、今まで通りの生活は難しくなるだろう。子供にもお金がかかる。そうすれば生活の仕方を見直す必要もあった。
今まで自分のことは全て自分で行ってきた成美にとって、誰かに頼るということは容易ではない。美容院も化粧品も自分のために惜しみなく金銭をはたいた。誰にも文句を言われず結婚しても尚、独身時代と同じような生活を送れるのも柊斗の収入があってこそ。
それらを全て投げ打って、子供だけに注ぐ。そんなことが自分にできるだろうか。そんな不安もあった。欲をいえば産休、育休を使いながら正社員として働いていたかった。ただ、柊斗はそれには賛成しない。
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