アポカリプスに花一輪

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「さてと、君はどこまで聞いていたのかな……二十五日に旅立つことのほかには?」 「ほかの事は殆ど聞き取れなかったんだけど……あなたがすごく大切そうに、お嬢様、って言っていたのは分かりました」 「そっか」  彼女はふっと息をついて遠くを見つめた。僕も同じ方を見てみたけれど、凝視できるようなものは何もない。昨日よりも曇った星空が見えるだけだった。 「あのお屋敷は、お嬢様のお屋敷ですか?」 「そうだよ。私はもう長い事住み込みでお世話をしてる。昔はご両親や私以外の召使もいたんだけど、今ここに住んでるのは二人。寂しいんじゃないかと思うけど、あなたがいれば寂しくないっていつも言ってくれるんだよ。歳は君と同じ……いや、もうちょっと上、だな。背は同じくらいだけど……あ、背が低いのを気にしてるらしいんで、今のは聞かなかったことに」  彼女は「お嬢様」について、聞かれてもいないのに話し出した。視線で溺れそうになるほど、まっすぐ僕の目を見ながら。その言葉は詳細で、その表情はとても幸せそうで、僕が困惑していることなんて見えていないようだ。それはもう、その人が本当はいないなんて思えないくらいに。  僕と同じか少し上ぐらいの年で、今は彼女と二人暮らし。学校には通ってないけれど、書斎でいつも本を読んでいるから意外と物事を知っている。発育不全なのがコンプレックスで、背の高い彼女のことをいつも羨まし気に、上目遣いで見つめてくる。それが嬉しくてついからかってしまうと拗ねるけど、次の日には怒っていたことを忘れていつも通りくっ付いてくる。腰まである髪の毛が流れる水のように奇麗で、毎晩彼女が手入れをしている。……これが全て噓だったら、現実と幻の区別なんて、誰にもつかないじゃないか。 「でもあのお屋敷に住んでいるのは、一人だって。あと、あと……」 「あそこの住人は頭がおかしい、と?」 「知ってたんですか?」 「薄々ね」  彼女はちょっと苦々しく笑った。笑ってばかりの人だ、と思った。まるで、笑う以外の表情を知らないみたい。 「でもあの屋敷に住んでいるのはお嬢様一人じゃない、見ての通り私が存在してる。だから少なくとも、一人きりで住んでるっていうのは嘘」  私の頭がおかしくないって言うのはちょっと証明できないけど、と付け足す彼女を見て、僕はほっとした。本人はそう言うけど、こうして話している限り、彼女が正気を失っているようには思えない。頭のおかしい人が一人で住んでるなんてただの噂。僕は自分自身にそう言い聞かせて、ぎゅっと拳を握った。 「まあ私たちは殆ど周りの人と交流が無かったから、気味悪がられて誰からともなくそんな風に言われても、仕方がないのかもしれない」 「どうしてそんな噂が流れたんだろう」 「何年も前から御病気なんだ、お嬢様。街の空気を吸うとあまり良くなくて、もう随分外に出ていない」 「みんなお嬢様のこと知らないんだ」 「多分。だからみんなが言う頭のおかしい家主って言うのは、私の事なのかもね。一人のはずなのに二人分の家具を揃えて、服を買って、食事を用意している。そんな風に思った人がいたのかも」 「誤解を解けばいいのに」 「一度流れた噂を正すのって、普通は無理だよ。それに私は基本的にお嬢様以外からどう思われていても良いんだ。幸いお嬢様は屋敷から出ないから噂の事を知らないし」  ふう、と溜息を吐きながらも、彼女の表情は強がっている風には見えなかった。本当に自分がどういわれていても良いみたいだ。僕だったらきっと嫌になって、お父さんとお母さんに相談するけど。 「お嬢様のこと、大事なんだね」 「そうだね、大事……いや、そんなもんじゃないね、あの人は私の世界そのもの」  その言葉は、何となく不穏な響きを伴っていた。宇宙の果てから来たかのように、浮世離れした彼女。彼女にとって世界そのものと言ってもいいほど大事な人。彼女が預言した、世界の終わり。その意味が少しわかったような気がした。僕は何だか居心地悪くなって俯く。視線の先には、いつも見る紫の花が遠慮がちに顔を出していた。
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