オワリとハジマリ

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 グラウンドの隅で走る彼女の姿は、遠くからだってすぐに見つけられた。自分の蹴るサッカーボールの先で、彼女は誰よりも速く走る。その横顔が、その短い髪が、時々聞こえるその声が、頭から離れない。  同じクラス、隣の席。彼女はとても人懐っこく、よく笑う。 「水野くん、数学の宿題ちょっと見せてくれない?」 同じクラスだと分かった瞬間からなんて話し掛けようか必死に考えていたのに、彼女はいとも簡単にその壁を越えてきた。 「今日あたるんだっけ?」 「そうなの。ちょっと自信なくてさ。水野くん、数学得意だから席隣で助かる。」 彼女は笑う。他のクラスメイトに向けるのと同じ笑顔を、俺にも向ける。それはいつも、少し眩しい。 「サッカー部って今週末、試合なの?」 「そう。陸上部は?」 「うちも今週末だよ。まだまだ引退するつもりはないけどね。」 弱小サッカー部と違って、陸上部は県大会や地方大会の常連だった。 「徳永は期待の星だもんな。」 「なにその言い方。」 そう笑って、数学の宿題を返される。  徳永美晴(とくながみはる)は、インターハイ出場すら期待されている短距離走の選手だ。1年の頃からずっと見ていた。誰よりも速く走る姿を、毎日目に焼き付けてきた。  当然のように県大会出場を決めた陸上部と、初戦敗退で3年生の引退が決定したサッカー部。 「まぁ、弱小サッカー部だからな。」 クラスの友達がふざけ半分に慰める。反論する余地もない。  席に着くと、徳永がこっちを見ていた。 「負けちゃったんだ?」 「そりゃ、弱小だから。」 笑ってそう返したのに、徳永の顔は真剣だった。 「でも、水野くん毎日練習頑張ってた。」 言葉が出なくて、俺はただその真剣な瞳を見つめた。 「頑張ってたでしょ?」 そう聞かれて、俺は浅く頷く。なんとも言えない気持ちになって、徳永から顔を逸らした。 「お疲れ様、水野くん。」 その言葉と同時に机の隅に差し出された小さなチョコレート。なんてことない透明な包み紙にくるまれたそれは、きっと徳永にとって特別な物じゃない。そう分かっているけれど嬉しくて、弱小と言われながらも必死に頑張ってきた2年ちょっとの時間を認めて貰えたような気がして、その小さなご褒美を無言で握りしめた。  県大会を控えた陸上部は、普段以上に練習に熱が入っていた。やることもないのに教室に残り、だたその様子を眺めた。同じグラウンドから見ていた景色とは違う。高い所から見下ろすその光景は、元々遠い場所にいた徳永をさらに遠くへ連れて行く。今日も速い。とても、速い。徳永はいつだって、ずっと遠くにいる。  同じクラスになって初めて、徳永が学校を休んだ。ぽっかりと空いた隣の席に視線を向ける。今日は徳永の声が聞けない。笑った顔を見ることも出来ない。  次の日、松葉杖をついた徳永が教室に入って来た時、その場にいた全員が一瞬凍りつき、大きなざわめきが起こった。 「皆、大袈裟だなぁ。ちょっと事故っただけだよ。」 明るく笑う彼女に、掛ける言葉が見つからない。 「車に轢かれちゃってさ。でも捻挫で済んだの凄くない?」 捻挫で済んで、本当に良かったと思う。でも松葉杖をついた徳永が、今までのようにグラウンドを走ることはなくなった。  県大会が終わって、陸上部も3年生の引退が決まった。松葉杖が消え、ギプスが消え、体育の授業にも出ることが出来るようになった徳永も、明確な終わりがないまま引退することになった。  席替えをして遠くなってしまった徳永とは、話すことがなくなった。窓際の1番後ろに座る徳永は、時々じっと外を見ている。その視線の先は、恐らく徳永が何度も何度も走ったグラウンドのあの場所だろう。終わっていないのだな、と思う。きっと徳永の中で、まだ何も終わっていない。 「水野くん、数学教えて。」 受験が近付いてきた秋。ほんの少し教室内の雰囲気がピリつく中間テスト前。席が隣だった頃と同じように、徳永はそう言う。 「いいよ。どれ?」 挨拶以外でちゃんと会話するのは久しぶりだった。1つ前の席に座って、俺が説明するのを身を乗り出すように聞いている。いつの間にか伸びた髪。サラサラ流れるような髪が、その細い肩に届いていた。 「髪、伸ばしてるの?」 気付けばそう尋ねていた。 「水野くんは短いのと長いの、どっちが好み?」 茶化すようにそう言って笑う。 「徳永はどっちも似合うよ。」 同じように笑って答えると、予想外に少し照れたように俯いた。 「走らないなら、あんなに短く切る必要もないんだ。」 笑っているのに、どこか寂しげに言う。何か気の利いた言葉が浮かべば良いのに、何もない。返事にならないような返事をして、数学の問題に目を落とした。  センター試験を終え、大学入試が始まった。人づてに、徳永は陸上とは何の関係もない大学を受験するのだと聞いた。本当なら、徳永は大学でも走ったのだろう。推薦で、大学に入ることが出来ていたかもしれない。でも今、俺や他のクラスメイトと同じように必死に勉強している徳永からは、陸上に関することの片鱗すら感じられない。    3年生は自由登校になり、受験を終えたクラスメイトと顔を合わせることは減っていった。家より教室の方が勉強に集中出来る俺は、皆勤賞だった。同じ教室には同じような奴が5、6人。その中には徳永もいた。 「水野くんも休憩?」 校内の自動販売機の前にいると財布を持った徳永がやって来た。 「いつもそれ飲んでるよね。」 俺の右手にある紙パックの牛乳を見て徳永は笑う。 「もうちょいデカくなりたいからさ。」 小さくはないけれど、期待していた程には伸びなかった背。女子の中では高身長の徳永と並ぶと、やっぱりこの高さでは物足りない。 「もうすぐ、終わるね。」 ポツリと言う。 「そうだな。」 色々なことが、終わっていく。一つ一つ、噛みしめる余裕がない程の速度で毎日が過ぎていく気がする。 「絶対、合格しようね。」 笑った顔が、眩しかった。  大学に受かった。卒業式も既に終わり、発表までの間は家で特に何もすることなく過ごしていた。受かるだろうとは、なんとなく思っていた。ただ、それでもどこか落ち着かなくて何もする気になれなかった。  学校に、受かったことを報告しに行くために自転車を走らせた。3月半ばとは言えまだ 空気は冷たい。夕方、空がやや薄暗くなって来た頃に門をくぐると、人は疎らにしかおらず部活もやっていないようだった。  職員室にいる担任に合格したことを告げる。 「そうか、良かったな。」 上下ジャージ姿の担任は、立ち上がって俺の頭を大袈裟に撫でる。 「そういえば、ついさっき徳永も来たぞ。第一志望受かったって。その辺で会わなかったか?」 言葉は出なくて、黙って首を横に振った。  もう、会うことはないと思っていた。何も言えず何も出来ずに終わった卒業式。長く伸びた髪が揺れる後ろ姿を、ただ目で追うことしか出来なかった。 「あいつもな、あの時事故に遭わなきゃ全然違う人生になっていたんだろうけどな。」 そう、呟くように言う。この人はもしかしたら、同じことを徳永本人にも言ったのかもしれない。きっと誰もがそう思っていた。徳永自身が1番そうだと思う。あの時あぁだったら、こうしていたら、そんなこと考え出したらきりがないし、そうすることに何の意味もない。そう、後になってそう思ったって意味はないんだ。  気付いたら走り出していた。廊下に出て、階段を駆け下りる。まだ、いるだろうか。靴を履いて外に出た。オレンジ色の光がぼんやりと空を照らす。足は自然と、門とは反対方向のグラウンドへ向かっていた。  グラウンドへ下りる5段しかない階段の真ん中付近に、徳永は立っていた。その視線の先には、陸上部の練習場所。いつも徳永が走っていた100メートル走のコースがあった。コートのポケットに手を入れて、首元にはいつもつけていたグレーのマフラー。伸びた髪が冷たい風に吹かれて時々揺れる。そのあまりに真っ直ぐな瞳は、何を思ってそこを見ているのか分からない。走る足を止めて、呼吸を整えながらゆっくりと徳永に近付いていく。 「徳永。」 少し、声が震えた。徳永がゆっくりと顔をこちらに向ける。 「水野くん。」 人懐っこく笑う。初めて教室で話した時も、そんなふうに笑っていた。 「受かったらしいな。」 「うん。水野くんは?」 「俺も、受かった。」 「そっか、おめでとう。」 「徳永もおめでとう。」 徳永は地元の大学を受けていた。だから離れてしまう。俺はここを出て行く。もしかしたら、今日が最後になるかもしれない。 「俺さ、ここで徳永が走ってるとこいつも見てた。」 徳永は目を丸くする。 「1年の頃から、ずっと。走ってる徳永を見るのが好きだったんだ。」 「···ありがとう。」 徳永は少し困ったように笑う。 「だからさ、」 俺は両手に力を込めた。 「最後に、見せて欲しい。ここで、徳永が走ってるところを。」 一瞬目を泳がせて、徳永は俯く。そして、ゆっくり顔を上げた。 「私も、見ていて欲しい。水野くんに。」 その瞳から放たれる強い光は、きっと毎日この場所で走っていた時の光と同じだ。誰よりも速く、誰よりも眩しかった、あの頃の徳永美晴。  スタート位置に立った徳永の表情は真剣だった。階段に置かれた鞄とコートとマフラー。俺も鞄だけを置いて、100メートル走のゴール地点に立った。  誰もいないグラウンド。スタート位置にポツンと立っていた徳永が体勢を低くする。両手が地面についた。徳永の動きが止まったのを確認して、俺は1度大きく息を吸う。 「位置について!よーい···」 握った拳に力が入る。 「ドン!!」 勢いよくこちらに向かって走り出す。正面から、その姿を見るのは初めてだった。近付いてくる徳永の髪が揺れる。遠くからしか見たことがなかった。こんなに速く、こんなにキラキラと輝いているなんて、全然知らなかった。走っている姿も、その真剣な表情も、全てが綺麗だった。 ーーーあの時事故に遭わなきゃ全然違う人生になっていたんだろうけどな さっきの担任の言葉がよみがえる。  目の前を走り抜けた徳永が、ゆっくり足を止める。俺に背を向けたまま空を仰ぐ。微かに上下する肩。その細い体が、一瞬動きを止める。 「水野くん」 明るい声とともに、徳永が振り向いた。 「なんか、すっきりした。」 満面の笑みで、そう言う。 「ありがとう。いろいろ、本当にありがとう。」 そして、その場で深く頭を下げた。  言葉が出なかった。何を言えばいいのか、どんな言葉なら口に出してもいいのか分からない。頭を下げたまま徳永は動かない。顔を上げない。その理由は、小さく震える肩に気付くまで分からなかった。  しばらくして顔を上げた徳永は、笑っていた。ほんの少し滲んだような瞳を、1度だけ手で拭って笑う。 「徳永、」 上着のポケットに右手を入れながら、徳永に向かって歩き出す。カサッと小さく音をたてるそれを握りしめて、そっとポケットから取り出した。 「お疲れ様、徳永。」 右手を差し出す。俺の手のひらを見て、徳永が唇を柔く噛んだ。 「覚えてないかもしれないけど、徳永に貰ったチョコ、本当に嬉しかったんだ。」 弱小だから負けて当然だった。でも悔しかった。俺なりに頑張ってきたことを、誰かに認めて欲しかった。 「だから、徳永が引退する時に同じことをしたいと思ってた。」 でも、徳永の‘終わり’が分からなかった。俺がこうすることで、まだ整理がついていない徳永の気持ちを勝手に終わらせるようなことはしたくなかった。 「···今日が、私の引退だね。」 泣きそうな顔で笑う徳永は、そう明るく言って俺の手のひらからチョコレートを取った。 「最後に、徳永の走る姿を見れて良かった。」 「私も、最後にここで走れて良かった。」 徳永の手の中で、チョコレートの包み紙がカサリと音をたてる。 「今日、水野くんに会えて良かった。」 徳永は笑う。 「いつかまた、絶対会おうね。」 これから始まる新しい日常の中に、きっと俺達はお互いに存在しない。だからこそ、今日この日のことを絶対に忘れたくないと思った。  手を振る徳永に、手を振り返す。その姿が見えなくなってから、自転車を漕ぎ出す。風が冷たい。とても、とても冷たくて、自転車を漕ぐ速度を上げながら鼻を啜った。
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