1-2. Grenadine Syrup

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1-2. Grenadine Syrup

 あんな感覚に襲われたのは、極めて久しぶりだった。  “世界”を見せて欲しいと思える人に、出会う時の感覚。  こればかりは、基準とか具体的な感覚を聞かれても、答えようがない。本当に、純粋な僕の感性でしかない。だから、僕がそういう感覚を抱いた人でも、他人から見たら何も響かない時もあるだろう。  でも、僕のこの感性に共鳴する人は、少なからずいるらしい。  それこそがきっと、僕がカメラマン、時に画家として何とか食べていくことができている所以(ゆえん)である。  辿々(たどたど)しくしか話せない僕の言葉を、辛抱強く待ってくれて、スタジオで急にヒマワリを差し出されても、逃げずに応じてくれて。  今思えば、名前を聞くことすら忘れていた。あの時は、名前なんてどうでも良かった。  彼女の(たたず)まいと笑顔さえあれば、あとは何もいらなかった。  太陽をイメージしてもらった時の、どこか解放されたような彼女の笑顔。無意識に彼女を縛っていた何かを、このカメラで切り裂くことができた気がして、とても嬉しかった。ヒーローになれた気がした。  彼女の“世界”は、僕が目論んだ通り、美しかった。  そして彼女は自ら僕に連絡を入れ、“世界”を共有させてくれるようになった。  あれは、彼女と何回目の撮影の時だったのだろうか。  紙袋を持って現れた彼女は、ニコニコというより、ニヤニヤとしていた。 「ど、どうしたの、それ」 「これをね、今回は使わせてもらえないかなって」 「え?」  彼女が紙袋から取り出したのは、色とりどりのバラだった。王道の赤から、水色まであった。 「色んな色で、色んな“世界”を表現したくなって」  そう言って「まずはこれかな」と、最初から珍しい黄色のバラを選んだ彼女は、全身白のコーディネートに身を包んでいた。白のニットに、白のロングスカート。低い位置でお団子にまとめられた、栗色の髪。  僕がカメラを素早く用意すると、彼女は「違うよ」と言った。そして再びニヤリとして、続けた。 「今日は、一緒に撮りませんか」 「い、一緒に?! い、いや、僕は、被写体に、するほどなんかじゃ」 「たまには被写体の気持ちを分かってもらっても、いいじゃないですか」 「……か、カメラは?」 「自撮りでいきましょう、ここは」  彼女に不意に手を引かれて、僕は被写体の位置に移動させられた。僕の黒いニットと、彼女の白いニットの間に、一輪の黄色のバラ。明かりの灯ったスタジオは、こんなに暑かっただろうか。  僕の技術を盗んだのか、彼女はいつの間にか光を当てるのが上手くなっていて、早速彼女のスマホに、1枚の写真が収められた。 「まだ、固いですよ。“世界”を見せてください。私ばかり見せるのはずるいです」  およそモデルがカメラマンに言う台詞ではないと思うが、僕は妙に納得してしまっていた。  僕の“世界”。僕の価値観。僕の感性。僕の感情。それはきっと、1人で抱え込むだけじゃなくて、誰かに見せた方が良いのだろう。でも肝心の僕自身が、まだそれらを把握しきれていなかった。 「もう少し近い方がいいのかな」  そう言って体を少し僕の方に近づける彼女を見て、僕は突然、自分の感情を知った。雷に打たれたかのように。  僕達に挟まれている、黄色のバラ。その黄色が、初めて彼女を撮った日の、ヒマワリを唐突に思い起こさせた。  僕のカメラが君の“世界”を表現したように、僕も君のカメラで、自分の“世界”が表現されようとしていた。  彼女が左手で持つバラに隠れるようにして、僕は自分の顔を右隣の彼女の横顔に近づける。  シャッターの音と同時に、僕の唇は彼女の頬に辿り着いた。  なぜか彼女は、何も言わなかった。  気持ちが明らかになった瞬間に、すぐ行動に移すなんて、僕はどうかしている。カメラマンとモデルの関係を、自ら超えてしまった。  怒らせただろうか。  そう思って思わず伏し目がちになっていたら、右頬に温度を感じた。  立て続けに撮られたその写真には、先ほどの僕と全く同じポージングをした彼女が写っていた。何もなかったかのように、彼女は話しかけてきた。 「私と何歳違うんでしたっけ」 「僕の、方が、7つ年上」 「割と年の差ありますね」  そう言ってまた右頬に触れた彼女の唇は、笑顔の形だった。  あの後、一体何本のバラを使って同じ構図を繰り返しただろうか。  気持ちを言葉にすらせずに、ただ頬に触れるだけで伝えていく。触れ方を微妙に変えて、想いの程度を器用に伝えていく。頬以外に触れることはなく、体を寄せ合うこともなく。飽きもせずに、何枚も何十枚も、同じ構図を繰り返していた。  今も思い出す度に、笑ってしまいそうになる。そして彼女への愛しさが、(あふ)れそうになる。  でもついに、あの幸せを、返す時が来たのだろうか。  ザクロのように甘酸っぱい、大人と子どもの狭間のような、愛の幸せを。 ********** Grenadine Syrup(グレナデン・シロップ) ザクロの入った、赤いシロップ。着色用として用いられる。
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