エピローグ 桜坂清彦という男

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エピローグ 桜坂清彦という男

 パソコンで経費の計算をしていると、携帯が鳴った。  璃人からだ。 『A一〇五:黒絵璃人(くろえりひと)』  携帯画面の文字を見るだけで頬がゆるむ。 「もしもし。桜坂です」 『どうも、 黒絵です。ちょっと来てもらってもいいですか?』  サラリーマンだった俺は、家の事情でAアパートと、隣の市にあるBアパートの経営管理を任されることになった。Aアパートの正式名称は「always」、Bアパートの名称は「blossom」だ。  璃人はAアパートの店子。そして俺の最愛の人でもある。  ああ、不動産屋から連絡をもらい面談した時は、こんな関係になるとは露とも想像していなかったのに。  人生何が起こるか分からない。  璃人は可愛くて、魅惑的で、なのにとてもサッパリしていて、俺の心を掴んで離さない。恋人関係になって数か月経つのに、未だに俺は璃人に振り回されているような気がする。 「どうされましたか? 今ちょっと立て込んでいるのですが……」  わざとよそよそしい声を出す。まるで出会ったあの頃のように。いやそれより素気ないかもしれない。なにしろ本当にこの時期、月末業務で忙しいのだ。 『いやぁ、そこをなんとかお願いします。本当に困っているんです』  電話口で切実な声を出す璃人に、笑ってしまいそうなのを堪える。  茶番をいつまで続ける気なのか? と思いつつ、俺も楽しんでるんだ。 「どうしたんですか? もう桜も散ったし、毛虫は退治はしませんよ」 『毛虫どころじゃないんです。本当に、もう本当に困ってて』  虫が大の苦手な璃人が虫以外で困ることとは? 「ほう? なにがありました?」  少し興味をそそられて尋ねる。 『いや、もう来てもらうしかないんです。電話口でどうこうなるもんじゃなくて、お願いします』 「今ですか?」  厳しめの声を出してみる。 『今です。一刻も早く』 「そうですか。うーん。困ったな」  そう応えつつパソコンを落とし、立ち上がった。軽やかな足取りで玄関へ行き靴へ足を突っ込む。 「今ちょっと立て込んでて、十五分くらいかかりそうですけど待てます?」 『十五分!? 困ったなぁ……どうしよう。うぅ、な、なるべく早くお願いします』   なんだ? またトイレのドアが開かないのか?  ニヤニヤしつつ車に乗り込みオールウェイズへ向かった。
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