どちらの◯◯ですか?

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「田中を呼べ!」  会社の入り口の扉を勢いよく開けて、恰幅の良い男が飛び込んで来た。  それから男は、受付の机を親の仇かのようのグイイッと抑えながら部屋中に響く声でそう言った。 「申し訳ありません、お客さま。弊社には田中という者は複数おりまして……どちらの田中でしょうか?」 「うるさい、とにかく田中と言ったらタナカだ。早くここに連れて来い!」 「いえ、ですから、田中という名前の持ち主は沢山いるので呼び出すわけにはいかないのでございます。名前の方はご存知ありませんか?」 「うー。イヤ、名前は聞いたが、聞いたんだがな。まあ、確かに田中姓の社員が多いから名前も何とかって言ってた気がするが……。しかし、そんなもん覚えてる訳ないだろう!」 「お客さま、その時の会話の内容と一緒に担当者の名前の控えはございませんか」 「えええ! うるさい、そんなメモ書きなんかするわけないだろう。オレ様は記憶力が良いんだ」 「それでは、せめて特徴を教えて頂けますか? 例えば、男性か女性か、とか」 「う、特徴か。うーん、直接会ったわけじゃなくて、電話対応だったからな。そ、そうか。そーだな、確か声を聞いた感じだと……男、男だな」 「男性の田中、でございますか。困りましたねぇ。やはりそれだけでは判断がつきかねます。他に特徴はございますか? 例えば、若々しいとか、年配がかったとか」 「そんな事を言われてもな。しゃべり方なんて殆ど覚えていないし、まあ、内容もうろ覚えなんだが。でも、悪いのはお前んところの田中だ。アイツが言ったんだ。オレは田中の言った通りにやったんだぞ。それだけは覚えてる。その結果オレは損をしたんだ。だから、早く田中を出せ! 田中を連れて来い!」 「ですから、男性の田中だけでは呼び出せないのです。もう少し特徴をお聞かせ頂かないと。少し方言混じりだとか、語尾に特徴があるとか、声がかすれていたとか、何かしらの区別が出来ませんと……」  受付の担当者は困った顔をしながら客の顔を見上げる。  そこまで言われた男は、最初は怒りで真っ赤になっていた顔色が元に戻る。さらに、自分がいかに電話の相手の話を聞いていなかったのか、という後ろめたさも手伝って受付の担当者に詰め寄る声のトーンも下がっていった。 「ま、まあな。オレもちゃんと電話の相手の話を聞いていなかった……、のかもしれないし。損害も、まあ、考えてみたら、内容は覚えていないが、田中はアドバイスしただけで、最後はオレが決めたわけだしな」  最後は怒りも収まり、自分の中で納得したようで、受付の机に乗り出していた体を離して、怒りに任せて上げていた手もふらふらと下げて、目はうつろな状態で受付の部屋を見渡し始める。 「あー、そうだ。ちょっと急ぎの用事を思い出したな。今回の件は、仕方ないから許してやるが、次回は気を付けるんだぞ。わかったな!」  男は受付の担当者に向かって、ぶつぶつと一人ごとのように言いながらふらふらと入り口から出て行ってしまった。  * * * 「今日の人も面白かったですね!」  騒いでいた男が入り口から出て行くと直ぐに、受付に座っている担当者の後ろで事務処理をしていた女性が、担当者の男性に楽しそうに声をかけてくる。 「どーして、ああいうクレームを言いに来る人って相手の話をちゃんと聞かないのかしら?」 「そーだね。不思議だよね。相手のしようとするには、そもそもちゃんと相手の必要があるのにね。それが出来ない人は、まあ相手の名前なんかも覚えてないんだろうしね」  受付の男性が、後ろの女性に軽やかに答えていると、  ──プルプル、プルプル……。  受付の電話が鳴って、担当者はその電話を取って会話を始めた。 「はい、お世話になります。受付の田中(たなか)です」 (了)
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!