さくらの花は、散る前に

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「ちょっとぉ、ケイスケを呼んで!」  パーティションを一枚隔てた向こうから声が聞える。  スケジュール帳を小脇に挟み、僕は彼女の元へと駆け寄る。  きっと、また叱られる。  恐らく、あの映画の件だろう……  彼女の名前は、清澄さくら、41歳、日本を代表する女優だ。  いや、、と過去形にした方が、正しいのかもしれない。  子役の頃から活躍していた彼女は、この業界の名声を欲しいままにしてきた。彼女が望めば、雨を止ませる事だって、沈もうとする太陽を待たせる事だって出来る、そんな風に言われる時代もあった。 「ケイスケ、何なのよ、この仕事!」  やっぱりそうだった。僕が映画プロデューサーに頭を下げて取ってきた仕事の事だ。駆け出しの若手人気俳優が主人公になっているミステリー作品、その映画に登場する役を彼女に充てがったのだが、それが気に入らないのだ。  殆ど台詞の無い端役だから、彼女が怒るのも無理はない。だけど、作品の中で重要な役割を果たすその役を演じることが出来るのは、彼女しかいないと思い、僕はその役を抑えた。  いや、それはどちらかと言うと後付の理由で、真実は別にある。 「台詞がないような役を、なんで私がやらなきゃならないのよ……」  彼女は憤ってそう言うと、飲みかけのペットボトルを投げつけてきた。  辺りに飛び散る水しぶき、下ろし立てのスーツに出来た染みを拭う事もせず、僕は跪いて弁明する。 「さくらさん、その気持ちは分かります。でも、とても重要な役なんです。さくらさんの演技力じゃないと、台詞無しで、伏線を匂わす事は出来ないんです。だから……」  いくら言っても、無駄な事は分かっていた。  この役がどれくらい重要かなんて、彼女ほどの女優になれば、脚本をペラペラとめくるだけで、すぐに判ってしまう。  結局、僕が無理やり取ってきた仕事は断る事になった。  無理を言って、ねじ込んで貰った仕事に、こちらから断りを入れるのだから、当然、事務所のメンツも僕の信用も失墜する。  だけどそんな事はどうだって良かった、問題は彼女だ。  その役を取ってきたのは、事務所からの指令だった。  そして、その役を彼女が断ったならば、今度こそ契約を解除する、そう事務所は決定していたのだ。彼女が受ける訳が無いことを知っていて……  要は事務所にしてみたら、彼女の首を切る為の、大義名分が欲しかった。そう言う事なのだ。  不倫騒動に、パワハラ疑惑、共演者とのトラブルに、スポンサーとの確執。 自由奔放に生きて、数々のスキャンダルを巻き起こして来た彼女にとって、今の事務所は最後の砦だ。ここを切られてしまえば、彼女がこの業界で生きていく術は無い。  だから何とかしたかった。  だけどもう、僕にはどうする事も出来ない。  この役を受けないと事務所から契約を切られてしまう、もしもそんな事を彼女に告げたなら、彼女は激怒する事だろう。激怒して、事務所の社長の元を訪れ、刺し違える覚悟で、真っ向からぶつかるに違いない。  事務所の社長は、彼女が子役だった頃、世話係をしていた人だ。彼女にしてみたら、そんな下っ端だった人間に引導を渡されるだなんて、そんな事、到底受け入れられる筈が無いのだ。  この事態をどう収拾すべきか、僕は頭を抱えた。  だけど、僕がどんなに頭を悩ませようとも解決できる問題ではない事を、誰よりも分かっているのは、僕だった。  キリキリと胃が痛む。脳の血管が破裂しそうなほどズキズキする。動悸が収まる気配は無いし、食べ物だって全く喉を通らない。 「放っておけば良いよ」  事務所の先輩はそう言った。 「あんなワガママ女優、淘汰されて当然だよ」 「代わりなんていくらでもいるさ、清澄さくらじゃなきゃ駄目だなんて、誰も思ってないんだから……」  それが大多数の意見だった。  だけど……  だけど、僕はそうは思わない。  彼女の女優としての素晴らしさはもとより、人としての懐の深さ、器の大きさを知っているのは、一番傍に仕えている僕なのだから。  それに僕は彼女の事を……  トータルで十五年間、僕は彼女に仕えてきた。  途中一年間のブランクがあったが、それは多忙を極め、体調を崩してしまった僕の事を、彼女が気遣ってくれたからだ。  ちなみにその間、彼女のマネージャーを務めた者は五人、誰一人として彼女のお眼鏡に適う者は居なかった。  彼女が巻き起こしてきたスキャンダルは、彼女のせいでは無い。  不倫疑惑は、共演した男優が彼女の演技力に着いていけず、泣きついてきたから、仕方なく演技指導をしてあげた。ホテルの一室で……  僕は弁解するべきだと思った。でも彼女はしなかった。状況からみて、何を言おうとも、潔白は証明出来ない。彼女は腹を括って、男優を無理矢理誘ったのは自分で、非は全て自分にある、と自らが真っ黒になる事で事態を収めた。  女性スタイリストへのパワハラ疑惑だって、しっかりと説明すれば、どちらが悪いかはハッキリ出来たのに、それをしたら、若い女性の将来を奪ってしまう事になるから、と敢えて否定しなかった。  共演者とのトラブルだって、人気若手アイドルの無知が引き起こしたものだし、スポンサーとの確執だって、無茶苦茶なオファーを出したスポンサーが悪い。  もしも、彼女に過ちがあったとするならば、それは時代の潮流を見誤った事だろう。彼女がナンバーワンではなく、オンリーワンだった頃は、彼女が正義で、対立する者は悪だった。  それがナンバーワンに変わった時から、潮目が変わる。オンリーワンに代わりは居ないが、ナンバーワンの代わりは、いくらでも居るのだ。  もう何をやっても許されると言う時代は終わり、どちらかと言えば、何かあれば非は彼女にある、という風潮になってしまった。非難され続ける事で彼女はランク外へと押し出されてしまう。  彼女は仕事に対して、一切の妥協を許さない厳しい人だ。  ベターではなく常にベストを求める。だから今どきの効率ばかりを求める人達からは嫌われる。いかに早く、いかに安く、ソコソコ良いものを作りあげる事に力を注いでいる人達と、どんなに時間を掛けたって最高に良いものを作り上げたいと願う彼女とは、どこまで行っても噛み合わない。  世の中の趨勢は前者にあるから、必然的に彼女の立ち位置は奪われ、厄介者として扱われるようになっていく。  だけど彼女の真の姿は、愛に溢れた優しい人で、弱い者に手を差しのべ、強い者に真っ向からぶつかっていく、そう言う人なのだ。  撮影の帰り道、車で走っていて、大雨の中、ずぶ濡れになった少女を見掛けた時は、家まで連れて帰ってお風呂に入れてあげたり、監督から足蹴にされたスタッフが酷く落ち込んでいた時は、食事に連れていき、夢を諦めるなと励ましてあげた。  未熟だった僕がダブルブッキングしてしまった時、彼女はヘリコプターをチャーターして、どちらの仕事も穴を空けずに僕の窮地を救ってくれたし、傾いていた事務所を立ち直らせたのだって彼女だ。  安易な利益主義に走って失敗していた事務所に対して、彼女は真っ向から反対し、良い作品を作れば必ず視聴者は認めてくれる、と言い張って、実際その通りになった。それなのに事務所は、救世主だった彼女を捨て、同じ轍を踏もうとしている。  やりきれない気持ちに苛まれ、僕は失望した。  清澄さくらが居なくなるこの業界に、もはや未練などない。  僕は覚悟を決めた。  その日、タクシーで彼女と一緒に帰る事になった。いつも僕は助手席に座る。それなのに、隣に座るように、と彼女は言った。  車が走り出すと彼女は僕の膝に手を置いて、呟いた。 「色々と有難うね、良く頑張ってくれたわ……」  彼女の優しい言葉が身に染みる。いつも二人きりになると僕を気遣ってくれる彼女。でも今日は少し、いつもとは違う雰囲気だった。 「ごめんね、さっきはキツイ事を言って。周りに人が居たから、あぁ言う風にせざるを得なかったの。全部分かっているのよ…… 私への嫌がらせで、あなたにあんな仕事を取らせた事も、事務所が私を切ろうとしていることもね」  返す言葉が見当たらなかった。  やっぱり察していたんだ、あの仕事を蹴ったらどうなるかを。分かっていて他のスタッフの前で演じたのだ、悪いのは全て自分であると。  彼女の潔い覚悟が見えた。彼女はいつもそうだ。自分が悪者になる事で丸く収まるならば、それで良い。そうやって悪役を演じてきた。だけど、世の中の人はそれを全く分かっていない…… 知っているのは僕だけ。 「この業界はもう充分だわ…… お金はたっぷりと稼がせてもらったし、いい加減うんざり。事務所から切られるのは癪にさわるから、こっから辞めてあげる。でも、ケイスケ…… あなたはこれからどうするの? 私が辞めたら、誰か他のタレントの担当に就けるのかしら…… 良い人の担当になれると良いのだけれど……」  彼女の優しい言葉に思わず涙が溢れそうになった。  込み上げて来た涙を必死に堪え、僕の決意を伝えた。 「僕はこの仕事を辞めるつもりです。僕にとっては、さくらさん以外はあり得ないんで……」 「嬉しいこと言ってくれるじゃない、嘘でも嬉しいわ……」 「いや、嘘なんかじゃないですよ。僕がこの仕事に就いたのは、さくらさんが居たからなんで…… さくらさんの傍に居たかったから、この仕事を続けてこられたので……」 「ケイスケ…… あなた…… 」  彼女の瞳が心なしか潤んでいるように見えた。僕はポケットからハンカチを出そうとした。すると彼女はその手を制して、口許を緩めた。 「それじゃぁ、もう少し私に付き合ってくれる?」  僕の顔色を伺うように上目遣いで見つめてくる彼女、そんな彼女の視線に僕の胸がキュッと締め付けられる。 「えぇ、もちろん。どこまでも付いて行きますけど…… で、でも一体、何をするんですか?」  まだ一緒にいられる、突然振って湧いた喜びが先走り、思わず声が上擦った。何か楽しそうな事が起こりそうな予感に胸が高鳴る。 「私ね、世界旅行へ行きたいと思っているの、好きな所へ行って、見たい物を見て、食べたい物をたべる。日程も、行く先も、決めないで、気の向くままに飛び回るの…… ケイスケ、私と一緒に行ってくれる?」  彼女の言葉を一つ飲み込むたびに、僕の心が躍り出す。  彼女の御供をして世界旅行だなんて…… 「もちろんです、僕に任せてください」 「よし!それじゃ、善は急げね! これから事務所へ行って、辞めてくるわ。マスコミには、あなたから連絡しておいてね。清澄さくら、芸能界を卒業、ってね」 「なんだかワクワクしますね……」  清澄さくら、芸能界を卒業!  その言葉に、僕は何となく違和感を感じていた。  今の芸能界を牽引し、事務所を大きくして来たのは彼女だ。そこには、彼女達が作り上げた時代が間違いなくあった。  たくさんの時間とお金を掛けて、役者を育て、スタッフを育て、最高に良いもの、最高に面白いもの、いつまでも人の心に残るものを作り上げようと言う、そういう時代があった。  それは非効率的で、無駄な事をしているように見えるかもしれない。だけど、時が流れても、色褪せないそういう名作がたくさん生まれた。  果たして今の時代はどうだろう……  瞬間的にパッと火は着いて、結果がすぐに現れて、一見効率的には見えるが、簡単に燃え上がる代わりに、心に残る作品とは滅多に巡りあえなくなっている。  器用で小回りが効くタレントを使い、評判が良くなければ、すぐに使い捨てる。表情や仕草から滲み出るような演技を身につけるには経験が必要なのに。だけど、そんな事に時間を掛けていられないから、早口の会話で誤魔化す。余韻だとか、()なんて言うのは、忙しない世の中には不要なのかもしれない。それこそが役者の見せ所なのに……  きっと今の時代は、分かり易くて単純なものを求めているのだろう。作り手も、見る側も……  僕は思った、彼女がこの業界を卒業するのではないと。  彼女から、事務所や、この業界が、卒業してくのだ。  彼女と言う一時代を築き上げてきた、最高の女優から、卒業していく事で、これからどんな世界を作り上げていけるのか……  その真価が問われるのだと思う。  もっとも、僕と彼女は長い旅に出発するので、その後の事がどうなろうと知った事ではないのだが……  「ねぇ、まずはどこへ行く?」  彼女が身体を摺り寄せて言う。  「そうですねぇ、ブロードウェイでも行って、本場のショーでも楽しみますか?」  僕の頭の中は既に世界中に飛んでいて、彼女と二人きりで過ごす極上の時間を思い描いている。彼女の目を見つめると、澄んだ瞳が少女の様に輝いていた。  「うーん、それも良いけど、しばらくはゆっくり過ごしたいなぁ……」  僕の肩に頭を乗せて彼女が言う。僕は膝に置かれていた彼女の手に重ね合わせる。  「それじゃぁ、リゾートにしましょう。ビーチリゾートならハワイ島とか、ニューカレドニアなんか良さそうですね。それとも、アルプスを眺めにスイスへ行っちゃいましょうか……」  「どれも素敵ね…… アフリカのサバンナにも行ってみたいわ、オーロラも一度は見とかなきゃね……」  「この際だから、全部行っちゃいましょう!」  僕は彼女の手を両手で包み込んで言った。  「ケイスケ…… 良いの? 本当に?」  少し不安を覗かせる彼女の素顔がたまらなく愛おしい。  「もちろんですよ、だって僕は……」  もうすぐ彼女と僕の旅が始まる。それは終わりのない旅……  きっとその中で彼女は、自分の居場所を見つけるに違いない。  そして何があろうとも、僕は彼女に仕えていく。  だって僕は、彼女を愛しているのだから……  大物女優が、一人の女性に戻った瞬間……  僕は彼女を抱きしめた。  さくらの花は、散らずに舞い上がっていく。 了
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