きみに一番近い場所

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きみに一番近い場所 能舞台を夢に見た。 正方形の、小高くせりあがった檜舞台。ぱっと見には狭く見えるが、実際にはそれほどでもない。背面の壁に、見事な枝ぶりの老松が描かれ、舞台の屋根の内側から蛍光灯が床を照らしている。ホール状の建物の中に、もう一つ瓦葺きの建物を封じ込めたような独特の造り。  舞台の上で、誰かが扇を手に舞っている。薄手のトレーナーに、丈の短いレギンス姿。見覚えのある服装から、それが誰なのかははっきりと分かる。稽古の時にしかしない髪形。大きなクリップで髪をうなじの上まであげ、汗だくになって励んでいる――  屋根の下に、ちょうど舞台の後ろ辺りに、巨大な鐘が吊り下げられている。あり得ない光景だ。いや、この状況ではあり得ない、というのか。あの鐘を吊るときは、本来、大勢の人間がここに集うときだけなのだから。後見に選ばれた人間が目を光らせ、しっかりと綱を堅く掴んでいるものなのだから。  足袋が床を擦る音がする。板に吸い付くように、さっと切り返し、彼女は鐘に素早く近付いていく。一見小柄な体格からは、想像もつかない低く凛々しい声が飛び出し、鐘の下に向かって飛び入ろうとした。 『思えばこの鐘うらめしや!』  やめろ! 彼は叫ぼうとしていた。どこに立っているかも、自分が何をしようとしているかも分からない。だが、止めなければならない――と、彼は事態を把握していた。その先に何が起きるかは知っている。もう何度となく、何百回と数えるほど、寝苦しい夜はその夢に悩まされてきたのだから。 (思えばこの鐘うらめしや)  辺りが薄暗くなる。照明を急に落としたみたいに。いつもこの夢は、最後になると照明が落ちるのだった。それは彼自身の心の照明が、とっさに落とされるからだ。反射的に心が目を閉じ顔をそむけるからだ。  ドン、と音がした。蛍光灯が、半分消えたみたいな陰りを帯びた世界の中で、重い金属が床に落ちる音がした。  そこで目が覚めた。          一  ここまでやって来たことを、塚元(つかもと)卓(たく)は後悔し始めていた。  梅雨明けの昼下がり、一人きりで鳥居の前に佇んでいると、どうにもやり切れないような気持ちになってくる。卓は持ってきたビニール傘で足元の石段を叩き、人がこうして、意味もなく足を止めて立ち止まろうとするときは、本当に心の底から何かを思いあぐねているときだけだな――と思った。  六月の下旬、例年よりひと足速い梅雨明けを迎え、辺りは綺麗に晴れ渡っている。周りの空気も蒸し暑く、今にも蝉が地面から這い出してきて鳴きそうなくらいだ。立ち止まって辺りを見回していた卓は、思わず、こみ上げてきた思いを堪え溜息をついた。やっぱり来るべきじゃなかった。ここは少しも変わってない。  周囲は閑散としており、卓のほかに参拝客は誰もいない。目の前には、あと残り数段ほどの石造りの階段が構えており、上がりきったところに色褪せた朱塗りの鳥居がぽつんと立っている。背後にあるのは参道だ。延々と続く、背の高い杉林に囲まれた山腹の林道。 目を上げると、再び、あのポスターが目に飛び込んできて、卓はうっかり顔をそむけた。鳥居の脇腹に鮮やかなポスターが一枚貼られている。写真を使った贅沢なもので、真ん中辺りに、重々しい筆文字がうねるようにして躍っている。これでもかというほどの、迫力を効かせた白抜きの文字。 『道成寺』  よりにもよって、この場所でこの単語に会うだなんて…苦い思いがこみ上げてきて、卓はそっと目を伏せた。ここ十年間、それは卓にとって禁句中の禁句だったのだ。思い出すことすら、意図的に避けていた。卓にとって、どうすれば一番効果的なのかは、何よりも知ったところだったのだから。  見なかったふりをして、鳥居をくぐってしまう。境内に入ってすぐの所に、藁のようなもので出来た特大の輪が据えられており〝茅(ち)の輪くぐり〟看板が脇にあげられている。ああ、卓は思った。夏越(なごし)の祓(はらえ)だ。ちょうど今がその季節だったのだ―― 〝水無月の 夏越の祓する人は 千歳の命のぶというなり〟看板に和歌が続いている。〝くぐり致しましょう――〟 (卓(た)っちゃん)  声が聞こえたような気がして、卓は思わず反射的に振り向いた。背後には、誰も居ない。いや、居るはずがないのだ。代わりに馴染みのある故郷の景色が見え、今度はもっと惨めな気持ちになった。今度こそ、本当に逃げ出してしまいそうになった。 (菜摘(なつみ)――)  本当は、ここにだけは来たくはなかったのだ。何年たっても変わり映えのしない町の光景、人の顔ぶれ。ここに来ると、否が応でも、その人のことを思い出し耐えられなくなるからだ。思い出の中に引き戻されたような気がして、たまらなくなるからだった。 首を振り、急いで境内を横切り社に近付く。賽銭箱の前に立ち、ポケットから小銭を取り出すと、卓は思った。 早く帰ろう。一刻も早くここを離れよう。やっぱり、ここには来るべきではなかったのだ。彼女のためにも、戻ってくるべきではなかったのだ――  思い出の中の彼女は、相変わらず笑い続けている。おかしなことに、もうここ十年のあいだずっとそのままだ。話しかければ返事もする。そしていつもこう言うのだ。私は幸せだよ、と。だって夢だったんだもの? だから、卓っちゃんのせいじゃないんだよ―― ほとんど侘びるような気持ちで、目を閉じる。何を祈ればいいのか、思えばいいのか分からないまま、卓は黙って手を合わせ始めた。  今から十年前、卓はここ、京都府の伊根という町に住んでいた。人口は少ないが、昔からなる海沿いの舟屋の景観と、伝統的なちりめん工業で生業を立てている町だ。高校を卒業するまでの十八年間を、卓はほとんどこの町の中で過ごした。  海育ちなのに、卓は一度も海で遊んだことが無い。それどころか、外で遊んだことも滅多に無い。卓にとっての世界とは、稽古場の前庭と、能舞台の上が全てだった。そういうふうに育てられてきたのだ。  観世流シテ方(がた)能楽師、塚元寛二。  卓の父親は、能楽師だった。だった、というのは、卓が四つのときに亡くなったのだ。物心つくずっと前のことで、卓自身も、父のことはほとんど覚えていない。実際に、父のことを思い出すときに、おぼろげに思い出すのは、いつも舞台の上での稽古姿だった。しかもそのほとんどが足回りの動きだけだ。 「卓くんは、熱心だったから」  父のことを知る人間は、みな卓のことをそう評する。能の稽古は一挙一動、その体得は、まず徹底した観察から始まる、と。そうでもなかったな、と卓は思う。単純に、一番綺麗だと思ったことしか記憶に無いだけなのだ。稽古自体はイヤでイヤで仕方がなかった。  三歳で初めてシテを(※主役のこと)務めてから、ずっと能舞台の上で。勉強で鉛筆を握るよりも早くに扇を取り、かけっこや逆上がりの練習よりも多い時間を、卓は能と一緒に過ごしてきた。厳しくって、堅苦しくて、少しも楽しくない。そんな稽古を、十八年も続けることが出来たのは、他でもない「あの人」が居たからだった。楽しそうにしている姿に励まされてきたからだった。  野守(のもり)菜摘(なつみ)。  小鼓方(こつづみがた)の、邦弘(くにひろ)おじさんの一人娘だ。三歳で稽古場にやってきてから、卓はずっと彼女と一緒に育ってきた。学校も、稽古場でも一緒。菜摘はいつも卓のあとをついて回る、誰もがそう冷やかしてきた。実際その通りで、卓自身も、彼女が居ないとかえって落ち着かないくらいだったほどだ。 (能楽師になりたいな。それから、いつかは『道成寺』を披(ひら)いて、卓っちゃんに鐘後見をお願いするの!)  あの頃――あの頃、彼女には星の数ほどやりたいことがあった。卓の比にならないほど夢を持っていた。男社会で、女流能がまだ広まっていない文化の中で、夢中になってそれを叶えようとしていた。卓よりも何倍も汗を流し、そして何より能が大好きで、その彼女に引っ張られるような形で卓は能が好きになっていたのだ。  それなのに、その全てを〝鐘〟が奪ってしまった。それも一番残忍な形で。 『道成寺』  その言葉を、思い出すごとに、卓は薄ら寒いような気持ちに駆られる。能世界不屈の名曲で、大曲中の大曲。巨大な等身大の鐘を天井に吊り下げ、落下する寸前にその下にシテが一気に飛び込む。静と動を使い分ける、一歩間違えば命取りの大掛かりな演出。  そして、その最中に菜摘は亡くなったのだった。能楽師なら誰もが憧れる舞台のさなかに。  彼女が亡くなってから、卓は故郷を離れ、大学に進学した。能とはまるで関係の無い学部を卒業し、そして仕事へ。始めは商社、次に保険営業、そして今の総務部だ。どれもしっくり来ず、続けられなくなって仕事を点々としてきた。それでも、何年かに一度、背を向け続けていることに耐えられなくなっては、休みを取り故郷に戻ってくる。だが、結局は墓前に参ることが出来ず、遠目に彼女の寝床を見ては、逃げるようにして去るを繰り返して来たのだ。 (菜摘――)  じぃっと背後で音がして、卓は我に返った。今年初の蝉が起き出してきたのだ。思い出から覚め、卓は目を上げた。早く帰ろう。これ以上の長居は無用だ。  本当は、あのとき死んでいたのは、卓だったのだ。卓は思った。叔父は、卓の父親の弟である塚元重智(しげとも)は、代役として卓をシテに立てようとしていたのだ。それを卓が遠慮してしまった。菜摘が夢見ていたのを知っていたからだ。  そして、卓は今そのことを後悔している。あのとき、彼が――それを引き受けていれば、今頃人生が変わり、菜摘はきっと元気で生きていたのだから。彼女の夢に卓が本気で向き合っていれば、菜摘は今頃、本当の意味で夢を叶えることが出来ていたのだから。  境内を横切り、階段へと向かう。ついでに茅の輪をくぐり、卓は足早に石段を駆け下りた。 (もし、もし可能なら、やり直したい。あの時に戻ってもう一度生き直したい――)  参道からは、町の様子が綺麗に見えている。神社は山腹にあり、よく、悩み事があるときや、試験前の願かけにお参りしたものだ。今も少しも景観は変わらず、建物の位置、古びたビルの看板などがそのままになっている。  階段は、一段が幅広く五歩くらいの長さになっており、上から見ると長いコンベアが参道の入り口まで伸びているように見える。少し下ると町は見えなくなり、両脇に針葉樹林が伸び相変わらずの光景だ。ふもとにはみやげ物屋が有って、よくそこでこっそりアイスを買ったっけ。日焼けしたボロののぼりが――  少し先を、誰かが歩いている。珍しい参拝客が先に参っていたのだ。急ぐ様子もなく、一段一段、規則正しく降りていく。転ばないように、顔を下に向けて参道の下へと。  相手は、薄手のトレーナーを身に着けていた。ベージュのレギンスに、家庭用のサンダルを履いている。どこにでもあるお父さん用のサンダルで、片手に手作りの布で出来た袋を下げている。小学生の、給食用のお箸袋みたいな…  卓は足を止めた。  歩いているのは、少女だった。高校生くらいの少し小柄な体格だ。大きなワニ口クリップで髪の毛を挟み、うなじまで髪を上げている。その背格好に、見覚えがあって卓は思わず棒立ちになった。  何を考えていたのかは、覚えていない。だが、卓は思い直すと、すぐに気を取り直し、走ってその後ろ姿に追いつこうとした。人違いだ。そんなもの、追い抜けばすぐに判る。似ても似つかぬ赤の他人で、会釈してはいサヨナラの――  足音に気付いたのか、相手は振り向いた。その拍子に、卓は今度こそ足を踏み外し、参道下まで転げ落ちそうになった。 「卓っちゃん?」  振り向きざま、そう言った。睫毛の長い、ちょっと可愛らしい感じの女の子。前開きのトレーナーの首筋に、UVカットのタグが見えている。その声も、見た目も何ら変わっていない。卓は愕然とした。 十年前に、亡くなったはずの彼女がそこに立っている。 卓を見ると、相手はにっこりした。お箸袋そっくりの扇入れに名前が揺れている。洗濯褪せした油性ペンで、のもりなつみ、平仮名でそう書かれていた。 「お稽古、行くの? 今日は重智おじさんの日だよ」  卓は荷物を取り落とした。バサン、音がして足元に何かが散らばる。それがポケットからついでに落ちた小銭入れのお金だと気付いても、卓はそのまま、その場を動けないでいた。 「卓っちゃん、お金落ちたよ」  足元の十円玉に、平成二十二年と書かれている。しゃがみ込み、ぽかんとしている彼女の顔を呆然と見つめながら、卓は思った。  ああ、そうだろうとも…        二  参道を降りきると、卓は真っ先に稽古場へと連れて行かれた。参道の入り口には、舗装されていない駐車場を隔てて、潰れたみやげ物屋が並んでいる。昔は元旦や夏越の祓、七五三くらいの時期には開いていたものだが、それも代替わりしてみんな閉まってしまい――通りかがった卓は、愕然とした。店が開いている。そんな馬鹿な?  店の前で、ホースを手に老婆が水打ちしている。ひっつめ髪の頭に、ペラペラのレーヨンの洋服がお気に入りの店主だ。みやげ物屋の婆さんで、通行客に水をひっかけるのが好きだった。七年も前にがんで亡くなったと聞いていたけれど…  立ち止まろうとする卓を、半ば引っ張るようにして菜摘は歩いていく。卓たちの稽古場は、みやげ物屋を過ぎて、ほんの数軒ほどの住宅地の前を抜け、その背後にある雑木林に挟まれた階段を降りて行くとすぐのところだ。パッと見には見えにくい近道を、菜摘はヒョイヒョイと降りていく。卓は足が化繊になってしまったみたいな気がした。「ど、どういう……」  階段の下辺りに、分厚い辞書を伏せたみたいな、大き目の日本家屋が見えている。黒い屋根瓦の古めかしい、昔の稽古場だ。目の前に何もない庭を挟み、公民館のような建物が並んでいる。庭の隅に車が停められており、卓はごくんと唾を飲んだ。あれは、確か邦弘さんの車じゃないか? 「卓っちゃん、こっち?」  菜摘が顔を出す。うっかり庭に迷い込もうとしていた卓は、慌てて我に返り、建物の全景を見渡した。 『響円(きょうえん)の会 塚元教室』   門前に、細長い黒板をぶら下げた看板が置かれており、そう書かれている。チョークが消えかけており、土台の金属がサビサビだ。卓はぼんやりと、腑抜けたようにまばたきした。  間違いない――  建物の中は、スリッパに履き替えてから入ることになっている。左手に木製の靴入れが並び、三段の框を隔ててすぐに板の間の稽古場だ。蛍光灯が煌々と光り、青畳が左手に敷きつめられている。 「おう、卓っちゃん」  声がして、今度こそ卓は飛び上がった。稽古場の奥から、背の高い人の好さそうな男性が顔を覗かせている。布に包まれた物を持っており(稽古用の小鼓だ)菜摘の父親の邦弘さんだ。卓はぎぎぎと首を捩った。 「珍しいな、今日はおじさんの稽古の日だぞ?」  卓は何秒か息をしてから、ああ――と頷いた。おじさんとは、卓の叔父の塚元重智のことだ。卓に風当たりがきつく、この頃の卓は、いつも叔父の稽古の日になると、何だかんだと理由を付けて休んでいたのだった。「そ、そうなの?」 「どうした」と、邦弘さんは顔をしかめた。髪の毛がまだ黒に近い灰色をしている。「顔色が、あんまり良くないみたいだが…」 「け、蛍光灯なんじゃない?」卓は顎を伸ばして相手の背後を指した。稽古場は、蛍光灯でいつも照らされており、建物の中はいつも青白いのだ。「平気だから…」  稽古場の脇の壁に、カレンダーが掛けられている。近寄って確認してみた卓は、今度こそ絶句してしまった。 〈2010年6月 水無月〉  十年も前のカレンダーだ、卓は思わずそれを取り上げた。騙されてるんじゃないか、と次々めくってみる。2010年7月、8月、1月――どれも同じ。全てが十年前だ。  考え直して、卓は中に飛び込んだ。稽古場では、早速能楽師や練習に来た人間たちが、扇を手に稽古を始めている。稽古場には教室宛ての郵便物入れがあり、そこにはいつも能関係のダイレクトメールや講演会のお知らせ、電気代の明細などが入っている。板の間に文机が置かれており、その上のアルミ缶の中だ。缶を覗き込んだ卓はもっと愕然とした。  消印がみんな同じだ。どの消印にも同じ、平成二十二年と記載されている。 「卓っちゃん」卓は棒立ちになっていた。本当に、その辺の畑に立っている棒杭みたいに。「卓っちゃんてば!」 「何をやってる!」  出し抜けに、背後からどやしつけられて、卓は文字通り垂直に飛び上がった。そのままの勢いで綺麗に振り向く。目と鼻の先に、袴姿の男が立っており、扇を手にどっしりとこちらを見据えている。重智おじさん――思う間もなく、もう一度落雷が来た。「準備はまだか!」 (卓っちゃん、扇は!)菜摘がスッ飛んでいく。新人用の、練習扇と足袋を持ってくると、風よりも速い速度で卓にそれを渡しに来た。あわあわと叔父のあとに続く。縦長の稽古場の奥は、壁際が能舞台になっており、老松の前で玄人たちが稽古に励んでいる。足袋をつっかけた途端相手は言った。 「カマエはどうした!」  か、構えって? 卓はうっかりすると顎が外れるんじゃないかと思った。展開どころか何をすればいいのかも判らないのだ。重智おじさんは、ちっとも変わらない厳めしい顔をしており、眉間に皺を寄せて卓を睨んでいる。ああ―― か、構えね。こうだったっけ? ひとまずその姿勢を取る。まず扇を斜め下に、両膝を軽く曲げて…途端に叔父がぽかんとして、すかさず菜摘が囁き飛ばしてきた。(卓っちゃん、下居から!)(※しもい、片膝を立て反対の爪先をつく)   十年も前の六月に、自分が何をしていたかなど覚えている人間は居ないものだ。卓は思った。それで何をすりゃいい? 文字通り蒼白になる。地謡(じうたい)の人間が四人背後にやって来ており、卓ははっとなった。この謡――確か『昭君(しょうくん)』だ。  ほとんど誘われるように、卓は舞い始めた。記憶を凄まじいスピードで手繰り、どうにか身体を動かす。どうだった? どうだったっけ? 能は全ての動作が覚えものだ。謡だけでなく、一つ一つの所作が、その洗練が形になる。そんなもんイチイチ覚えてるヤツが居るか! 「十年ぶりに扇を取ったような顔つきだな」と、叔父が言った。あまりに論外だったのか、顔が固まってしまっている。「面(めん)をもっと鋭く切れ。型をもっと大きく見せなさい。もう一度!」  振り回される思いで、卓は舞い続けた。そうだった――記憶がぽろぽろと戻ってくる。叔父の重智は、厳しい人だった。卓の父寛二に、常に従ってきた弟の存在。新手の職分家と謳われて(※玄人の名家のこと。家元と分家に続く)、とんとん拍子で成功を収めた父の影で、常に苦労してきた重智は、卓にだけは容赦がなかった。温室育ちに対する嫌悪感。 「舞に隙を作るな! 何度言えば分かる、やり直し!」  叱られ通しで、時には扇を取り上げられる。汗だくになりながら卓は叔父の顔を見た。険しく、眉間に深い皺が刻まれており、その顔はいつも憤怒の表情だ。だが、卓は、そんな叔父が時として、能に対する愛情と卓を重ねて見ていることを知っていた。だからこそ余計に耐えられなかったのだ―― 「やり直し!」  言われてすぐ、卓はブッ倒れた。心得たように、叔父が立ち去ってしまう。ゼエゼエ胸で息をしながら、卓は床にのたうち思った。能って――こんなにキツかったっけ? 「卓っちゃん、大丈夫?」  菜摘が冷蔵庫から冷やしたペットボトルを持ってくる。ボトルを取る気にもなれず、卓は天井を見上げていた。 「ホントに十年ぶりみたい、卓っちゃん」  そうだよ……卓は思った。何でこんなことになったのかは分からないけれど。でも十年ぶりなんだよ。ここに来ることも、舞うことも、菜摘に会うことも。  こうして一緒に、当たり前に会話することも――  外でクラクションが鳴り、卓は目蓋を動かした。車のクラクションだ。疲労で半分眠りかけていた卓は、つと彼女の手に揺り起こされた。 「卓っちゃん、支度できたよ」  菜摘が卓を起こそうとしている。まだ息切れが収まらず、肩で息をしながら卓は身を起こした。 「大分しごかれたな」と邦弘さんが笑って顔を出す。「車に乗りなさい。家に帰るから」  家って…卓は思った。どう帰ったっけ? あの頃、卓は何度か引越ししており、どの家に帰るべきだったか思い出せないのだ。駅前のマンションだっけ? それとも死んだ婆ちゃんの家だっけ? 叔父さんの別宅だっけ… 「ホラ、立って卓っちゃん!」菜摘が腕を引っ張る。「置いてくよ。先生、ありがとうございました!」 置いてっても慌てて取りに戻るんじゃねえか、誰かがすかさず冷やかした。「なっちゃんは卓にベッタリだから。いいねぇ! 幼馴染ってのは。邦弘さんも心配だろうよ!」  ノロノロと表に出る。外はもうとっくに暮れており、闇の中に、ポカンと邦弘さんの車のライトが光っているのが見えた。 「――菜摘、おじさん、家の前まで送ってくれるのか?」  すると、彼女は足を止めた。羽虫が邪魔だったのか、耳の横で手をぱたぱたする。卓の顔を見ており、ややあってからニッコリした。 「違うよ、ウチだよ?」  卓はうっかりあっけにとられた。邦弘さんが、もう一度こちらに向かってポンとクラクションを鳴らす。 「毎週月、水、金曜はうちで稽古でしょ。今日は水曜日だよ、卓っちゃん」        三  菜摘の家は、稽古場から車で十分ほど行ったところにある。さっきの神社よりも、もっと山の手に離れた所にあり、昔の民宿を改装して住居として利用したものだ。モルタル造りの粗末な建物で、今は響円の会のメンバーの自主訓練場となっている。  オリエンテーリングに用いられた多目的ホールと、宴会用のお座敷、部屋数二十個という環境は、能をやる人間にとってはうってつけだ。菜摘の家は昔ここの管理人をしており、卓が四年生の時に、閉館したのをきっかけに、思い切って練習場として転用したのだった。以来会の人間の任意で経営が賄われている。 「卓っちゃん、お鍋運ぶの手伝って」  土鍋を手に、菜摘が顔を出した。真夏の盛りに差しかかろうというときに、夕飯がわざわざナベなのにはワケがある。囃子方の役割に、大皮というものがあるのだが、それは奏でる前に一時間ほど炭で焙る必要があるのだ。打ったとき乾いた音を出すためで――演奏中、炭を放っておくのは勿体無いので、ついでに煮炊き物をしてしまえと。そういうわけである。「卓っちゃんてば!」  相変わらずカレンダーに貼り付いていた卓は、慌てて我に返った。家に飛び込んで、やっぱり確認してみたのだが、誰もが口を揃えてこう言うのだ。「二〇一〇年六月二十三日。どうしたんだ、お前?」  菜摘はナベを手にむくれている。まだ生の白菜に、山積みになったエノキの間から顔を覗かせており(人数が多いので、三段重ねにして持ち運んでいるのだ)卓は駆け寄ると菜摘の手からそれを取りあげた。「いいから、お前はあっち行ってろ」  すると、菜摘はきょとんとした。大きな目をもっと大きく見開いている。「あっちって、どっち?」首を捩った。「卓っちゃん、やっぱり変だよ。どうしたの?」  どうもこうも…卓は思った。当事者ですら、そう思うのだ。突然こんなことになっちまって、どうにもまだ理解出来てないというのか……俺、正気じゃないよな? 「どこ行くの!」菜摘がだんと足を鳴らした。「そっちは空き部屋でしょ、練習場はこっち!」  ああ、そうだっけ? 慌てて卓は菜摘のあとに続いた。練習場から、早くも鼓の音が聞こえて来る。アシライ吹きの笛の音、まだ乾ききっていない大皮の音、小鼓の試し打ち。こんな所に居たんだと思うと嘘のようにも感じる。 「もう」襖を開けながら菜摘はむくれた。「卓っちゃんてば…」  炭を焚いた火鉢の上に、練習に来た人が鼓をかざしている。大鼓方の松井さんに、葛西さんだ。反対に、小鼓には湿り気が必要で、邦弘さんが盛んに息を吐きかけており――卓は目を上げた。なんだか――本当みたいだ。本当に、十年前みたいじゃないか?  大勢の人たちがホールに集っている。みな手元や自分の稽古に集中しており、誰もが少しずつ若く見える。卓はそっと息を吸い込んだ。 「卓っちゃん、ご飯食べよう」 ホールの一角に、畳が二枚置かれており、その上に鍋が用意されている。そういえば、ここで邦弘さんたちや先輩たちを手伝いながら夕飯を食べていたっけ。卓は思い出した。そのあとは、空いた場所で練習をする―― 「ねえ卓っちゃん」茶碗を差し出しながら菜摘が言った。「今日は珍しかったね。どうしたの?」  何気ない言葉だったのだが、卓は凍りついた。は? 何? 言ってしまってから慌てて首を振る。「先生のお稽古に来るなんて、休むって言ってたのに」  そうだったかな…卓はゴクリと喉を鳴らした。そう言えば、あの頃の卓は、叔父の稽古の日になると、必ず何かしら理由をつけて休んでいたのだ。科学のテストで赤点を取った、花瓶を割って職員室に呼び出されたので行けません、云々。 「叔父さんに〝はい!〟なんて返事する卓っちゃん、久々に見たよ。何かあったの?」 「……」  卓はじっと黙っていた。そんな確執もあったことすら、忘れかけていたのだ。まるで、大昔憎みあっていた人間と、バッタリ町で鉢合わせたとき、反射的に会釈をして立ち去ってしまったみたいに。全ては過去のこと。置き去りにした、昔の記憶。 「…別に何も無いよ」卓は呟いた。どう言えば良いのか分からなかったのだ。「礼儀だろ。一応教えて、貰ってんだから…」  ふうん、と菜摘は呟いた。唇が優しい線を描いている。意味もなくお箸で鍋をつついており、そうだった、卓は思った。菜摘はエノキが苦手だったっけ。除けてしか食べられないのだ。 「エノキ、食うよ」卓は言った。「食べられるものだけ食べてろ。ちゃんと肉取ったか?」  すると、菜摘はもっとおかしな顔をした。今度こそ落下したUFOから這い出してきた宇宙人を見るような目付きをする。「ど、どうしたの? やっぱり変よ! お父さん!」  そこで親父を呼ぶなよ! 卓は総毛立つような気がした。邦弘さんがぽかんとしている。どうしたなっちゃん、卓に変なことされでもしたのかい――平穏な(冗談じゃない!)声が聞こえており、菜摘は騒いだ。「卓っちゃん、いつも〝好き嫌いすんな、俺に菌糸類だけ食わせる気か〟って言うじゃない!」  ああ――卓は目を回しそうだった。そうだっけ? 俺、そんな態度を取ってたっけ? どうにも、久々に会うと距離感が判らないのだ! 「と、とにかく、いちいち騒ぐな!」 〈作りし罪も消えぬべし、作りし罪も消えぬべし、鐘の供養に参らん――〉  突然、声が聞こえてきて、卓はぎくりと動きを止めた。謡(うたい)が流れてきたのだ。少し離れた所に、三十代くらいの男性が立っており、扇を手に舞を始めている。完全な運びにキリリ(※能の所作のひとつ、摺り足)とした姿勢。今辻さんだ。 「今辻さん…」  卓は思わず振り向いた。今辻(いまつじ)彰彦(あきひこ)は、響円の会きっての若手能楽師だ。叔父の重智に見込まれ、早くに玄人になってから、今回晴れて『道成寺』を披くことになった。最若年の差し許しに話題が集まるシテ役だ。 「いいなぁ!」菜摘がうっとりしたように言った。「知ってる? 本番ね、再来月の十日に決まったんだって。昨日先生が言ってた!」  卓はじっと黙ってそれを聞いていた。そう――薄ら寒いものが、忍び寄ってくる。そうだった。それで、今こうしてまめに人が集まっているのだ。『道成寺』は大曲中の大曲。披くからには、渾身の出来にせねばならない。それを皆知ってのことだったのだから。  清姫伝説の後日譚。卓は思った。紀州の道成寺には、長年鐘が失われていた。そこに鐘を蘇らせることとなり、住職は固く女人禁制を命ずる。だがそこに「白拍子」と名乗る謎の女が現れ、舞を舞う代わりに供養の場を拝ませてくれと頼み込む。見張りを命じられた番人は、ついにはそれを許してしまい… 「……鐘入り」卓は呟いた。喜んで踊る女の正体は、かつての亡霊。隙を見て鐘の下に飛び込んでしまい、その拍子に轟音を立てて鐘は落下する。百キロ近くある鐘を実際に能舞台に吊り下げ、落ちてくる瞬間にその下に舞い手が飛び込むのだ。失敗すれば大事故になりかねない、鬼気迫る演出。 「うん」菜摘が頷き、卓は我に返った。「でも今辻さんなら大丈夫だよ! 絶対、上手くいくって信じてる。でしょ?」  卓はぼんやりと目の前の菜摘の顔を見た。どうしてだっけ? どうして、あろうことかそれに彼女が巻き込まれることになったんだっけ? そういえば、あのとき―― 「――いつかね」菜摘が呟いた。「いつか、能楽師になったら、『道成寺』を披きたい。それで卓っちゃんに鐘後見をお願いするの!」  殴られたように、卓は我に返った。菜摘はこちらを見ていない。ほんのちょっと目を伏せ、卓の膝の辺りを見据えている。目が輝いており、この先の未来を真っすぐに見据えているのだ。生き続けることに、明日があることに何ら疑問を感じていない瞳。  出来るよ。卓は思い出した。あのとき卓はそう言ったのだ。お前なら出来るよ、頑張れ、菜摘。 「……馬鹿言ってんな」卓は呟いた。他にすることがなく、黙って鍋をつつく。「その前に、やることが有るだろ。そっち先にやれ」  すると、菜摘はぷっと膨れたようだった。「やることって?」と言う。「科学のテスト? それは卓っちゃんも同じでしょ。私はあと六十三点で追試だけど、卓っちゃんはあと五十七点で補講なんだからね!」  レベルの低さは同じだろ、邦弘さんがすかさず野次を飛ばす。稽古はいいけど、ちっとは勉強しろ、菜摘!  和やかな笑い声が上がっている。それを遠くに、背中で感じながら卓は思った。 (戻って来ている。嘘みたいだけれど、間違いなく、十年前のあのときに…)  菜摘が拗ねて食器を片付けてしまう。その背を目で追いながら、卓はゆったりと首を捩らせた。 (嘘じゃない――俺の気が違っているわけでもない、だとしたら)  一体どうなってるんだ? その晩、卓は菜摘の家で寝泊りすることになった。幼馴染とは恐ろしいものだ。距離感が完全に麻痺しているらしく、卓は菜摘の部屋に放り込まれた。畳敷きの部屋に、布団を敷き並んで横になる。 遅くまで稽古に励んでいたせいか、菜摘はもうすっかり寝入っている。眠っていても稽古をしているのか、たまに足をバタバタさせており(どうやら拍子でも打っているらしい)ぼんやりと眺めながら、卓は思った。本当に病院に行かなくていいのかな?  ローリング・ストーンズのTシャツと制服のズボンが、枕元に畳んで置かれている。里帰りしたとき、卓はこんな格好は勿論していなかった。ジーンズにTシャツの上にデニムのポロシャツ姿。靴だって、大人物の革靴を履いてきたはずなのに、さっき玄関口で脱いだのはあの頃愛用していたスニーカーだ。コンバースの紺色のよれた紐靴。何もかもが完全な十年前。 「……」  菜摘は昏々と眠っている。くうくう寝息が聞こえており、その音がまるきり犬みたいで、よく夢を見たものだ。菜摘そっくりの犬を学校帰りに拾ってきて「なつみ」と名前をつける夢。本人には口が裂けても言えなかったけれど…  あのとき――あのとき、事故が起きてすぐ、卓は何もかもが信じられずにいた。どこだったのか、はっきりとした記憶はない。だが、これと同じような座敷に皆で集まり、邦弘さんが、たった一日で三十歳も老けたみたいに小さくなって、拳をつき畳に項垂れていたのを思い出すのだ。卓は部屋の入り口に佇んでおり――  バタンと音がして、卓は跳ね起きそうになった。菜摘がバンザイしている。ぱっと見には大人しい彼女だが、寝相だけは昔から恐ろしく元気なのだ。卓はその手を掴むと、布団の中に戻そうとした。 (能楽師になりたいの)  菜摘の声を、思い出した。女流能はまだ盛んではない。男文化の能世界に、最近になって現れた新しい文化の一端で、女能楽師になるには大きな関門がある。菜摘はそれを目指していたのだ。 (いつかは道成寺を披きたいな。それから、卓っちゃんに鐘後見をお願いするの!)  全ての玄人が憧れる演目、道成寺。静と動の極地の大曲は、見る者全てを魅了する。能には異例の大掛かりな舞台装置が用いられ、派手な演出と質の高い演技力が求められる。家元からの許しが無ければ、けして演じることが出来ない名曲。  掴んだ手が、ほんのりと暖かい。指の下で血管が脈打っており、生きているのだ。卓はそっと目を上げた。 どうしてあんな事故が起きたのかは、覚えている。はっきりと。そして何故かは判らないけれど、卓は今ここにこうして居る。十年前の、あのときの瞬間にだ。 「――卓っちゃん?」  寝惚けた声がして、菜摘が目を開けた。その手を、遠慮なく強く握り締めると、天井の闇を見据え卓は思った。  あんな思いはもうさせない。彼女にも、邦弘さんにも、そして昔の自分自身にもだ。  君が居る未来を取り戻すよ、菜摘。        四  翌朝、菜摘に叩き起こされた卓は、朝食を食べる暇もなくさんざ会のメンバーに冷やかされた。起こしに来たのが、間の悪いことに絶対に注意せねばならない人物だったのだ。民宿時代からの古顔で、町内のゴシップは知らないものがないと言われるほどの老婆で―― 「なっちゃんが、なっちゃんが卓と手を繋いで眠っとったわよ! あんたら!」  会のお手伝いを勤めている妙子(たえこ)さんだ。卓は頭を抱える思いだった。その場の全員がニヤニヤを通り越した顔で笑っており、邦弘さんだけは微妙な表情で憮然としている。「知らないよ」と菜摘は膨れた。「卓っちゃんが、寝惚けたからだよ。離してって言ったのに…」  やっぱり幼馴染とはいえど、年頃の子供にはそれ相応の配慮をするべきなのだ。至極当然な結論が出たところで、卓は家を飛び出した。鞄が無いが、幸いこの当時の卓はまともに教科書を家に持ち帰ったことがない。全部学校に行けばあるだろうし、まあ何とかなる。 「卓っちゃん、鞄は?」  知らない、とは死んだって言えないものだ。卓は首を振った。手ぶらで登校する卓を、菜摘はしきりと気にしている。大学時代も、ウッカリ鞄を忘れてボールペン一本で登校したことはあったけれど、高校生がやると異様なものだ。卓は思った。クラス、何年何組だっけ…… 「菜摘、進路決定したのか?」  そう言ってカマをかけてみた。ぼんやりとした記憶で、三年生のときの担任の名前を思い出す。米田さんだったっけ、進路指導をしていた年配の女の先生だ。 「全然」菜摘はしょげ返った。「米田先生、せっつくんだもん。短大の国文学部でひとまず出したよ。卓っちゃんは?」  当然ながら、自分の上履きの位置も分からない。下足箱を前に卓は呆然とした。繰り返すが、十年前の出席番号と座席をイチイチ覚えている奴は居ないものだ。仕方なく、適当に誰かの上履きをつっかけ、スニーカーを下げ階段を上がっていく。菜摘はますます目を白黒させた。「何で靴持ってきてるの? 避難訓練?」  記憶喪失呼ばわりされても仕方が無い状態で、卓は教室に入った。心配を通り越してついて来た菜摘に靴を持たせ(悪い、コレ机の上に置いといて。トイレに行って来る)逃げ去ってやる。思ったとおり菜摘が卓の机の上にスニーカーを置いてくれており、これ幸いと卓は胸を撫で下ろした。こんな状態じゃ本当に身が持たないよ…  他の生徒の猿真似で教科書を引っ張り出し、ペン一本で授業を受ける。科学の抜き打ちテストは白紙で出し(そんなもの、今更解けませんよ)出席番号は教科書に書かれていたものでチェックした。昼休みに担任に呼び出され、朝のテストの白紙の真意を問いただされ―― (こんなに狭苦しかったっけ…)  あてがわれた机に頬杖をつき、グラウンドを走る生徒たちを眺めながら、卓は思った。一度学校文化の外に出ると、今一度戻ってきたとき、異様な堅苦しさを感じるものだ。昔はこんなものだ、で済ませていたものだったけれど。 「卓っちゃん、帰ろう」  放課後になって、菜摘がヒョコヒョコやってきた。パンパンの鞄を細い肩に掛けている。「鞄、見付かった? やっぱり家なんじゃないの?」  鞄を代わりに持ってやり、卓は歩き出した。男の卓の手でも重い鞄だ。こんなに持って帰っても、勉強もしないだろうに、いつも彼女は律儀に持ち帰っていたっけ。英語と科学がお互い苦手だった。 「卓っちゃん、やっぱり変だよ…」と、菜摘が呟いた。「なんだか年取ったみたい?」  これには少なからず卓は傷ついた。年取ったって……思わず相手の顔を見返してやる。そりゃ、理由は分からないけれど、確かに十年またいでここに立っているけれど。「三つくらい大人に見えるよ」  しかも三つかよ。卓は更に独りごちた。つまり俺の頭は二十歳のままか? 苦笑してしまう。まあ、でもそうかもしれない。菜摘が亡くなってから、ずっと時が止まったみたいに感じていたから。どんなに頑張っても、三年程度の進歩が関の山だったかもしれない。 「英語、見てやるよ」と言った。「今日の範囲、テストに出るよ」  菜摘はポカンとしている。ややあってから、鞄をぽこんと手で叩いた。「卓っちゃんのクラス、今日英語あったの?」  ぐっと詰まりそうになって、卓は咳払いした。一応大学を卒業して、その程度くらいなら分かるようになったのだ。能のことは忘れかけていたし、毎日追われていた覚えもの(※台本や所作のこと)も、今は白紙の状態だけど。 「分かるようになったんだ」卓は呟いた。空がおっとりと暮れ始めている。足元に二つ長細い影が並んでおり、それを眺めながら鞄を背負いなおすと、卓は言った。「――少しずつだけど、色んなことが」  その日家に帰ると、菜摘の家の前に、見知らぬ車が一台停められていた。紺色のベンツで、叔父が普段乗り回しているものとは違うものだ。見覚えは有るけれど…誰のものだったっけ? 思いながら眺めているうちに、車は行ってしまった。菜摘が目をぱちぱちさせている。「誰だろ、卓っちゃん?」  庭先で邦弘さんが掃き掃除をしている。何も無い地面をならしており、卓たちに気が付くと手を上げた。「おお、お帰り」にっこりする。「先生、もう来てるよ。卓っちゃんも練習していくかい?」  ええ――卓は曖昧に頷いた。ひとまず、覚えものを覚えなおさなくてはならない。こんな状態では、十年前丸出しだし、ますます叔父になんと言われるか…  扇を手に、練習場へと向かう。ホールでは今辻さんたちがもう稽古に入っており、ちょうどワキの住職が謳っているところだった。今辻さんがいかめしい顔をして正座している。 「失礼します、先生――」  今日は菜摘の稽古の日だ。卓はその後をついて行った。どうせなら、この際菜摘の稽古に参加させてもらって、カンを取り戻そうと思ったのだ。叔父はこちらに背を向けている。と、出し抜けに怒鳴り声を張り上げた。 「何しに来た、卓!」  は? 卓は思わず足を止めた。普段から卓に風当たりが厳しいのは承知の上だが、今日はまた格別だ。何しにって…言う前に、今辻さんが立ち上がりさっと割り入って来た。「先生、今日は格別虫の居所が悪くてな」と囁く。「お前は帰ってな。せめて、あっちに行っとけ」  はあ……釈然としない思いで、言われるまま卓は部屋を出た。囃子方の人間が、いささか不憫そうな目付きで卓を見守っている。ああ、これだったっけ、卓は思い出して目を上げた。こういうのにも耐えられなかったな。どうしてこう、俺ばかり嫌うんだろう、って…  廊下に出て、練習場の扉を背に独りごちる。違う違う! 早速叔父の声が聞こえてきており、「急に向きを変えるな! 半拍置いてから向きを変えなさい」  『船弁慶』だ。卓は思った。以前卓は披いたことがある。体の細身な彼女には、戦場の勇ましさを表すのは難しいようで、毎日必死になっていたっけ。「型を大きく見せなさい!」 菜摘には甘く、今辻さんには期待たっぷりに。卓はほっと息を吐いた。菜摘は、確かに誰が見たって可愛いし、今辻さんは才能のある秘蔵っ子だ。俺はといえば大嫌いな兄貴の一人息子か――  ドン! 突然音がして、卓は反射的に振り向いた。急いで稽古場の戸を開ける。ほとんど後先考えず、中に踊り込むと、舞台に膝をついて屈んでいる菜摘が目に飛び込んできた。「菜摘!」  叫ぼうとして、卓は言葉を飲み込んだ。違う、「飛ビ返リ」だ。身体を回転させながら飛び上がり、百八十度転換してから片膝をついて舞台の上に着地する。キレのある動きと、大胆さが問われる技の一つ。菜摘はいつもこれに苦労していたっけ。「やり直し!」  汗だくになっている。額にも、首周りにも汗粒が光っており、その目はどこまでも真っすぐだ。昔から卓の何十倍も能が好きで、汗を流すことを惜しまなかった菜摘。本番のとき、かけた面の顎の内側に、銀の粒がいつも光っていたのを思い出す。蒸気のこもる面の下で、苦労を隠す彼女が唯一見せる努力のかけらだ。 「やり直し!」  だがさっきより良くなった、叔父が付け足す。それは菜摘が単に可愛いからじゃない、彼女の精一杯さに、叔父が報いていたからだった。「もっと鋭くならんのか、自分で考えてみなさい!」 「――上半身だよ」  パッと菜摘が顔を振り向けた。泣いているみたいに、目蓋にも汗が浮いている。叔父が目を剥き、卓は片手を振った。「スケートと一緒だ。菜摘、早く飛び返ろうとして、スケーターみたく上半身が先に動き過ぎてる。腰から下の動きも一緒でなきゃ」 「卓っちゃん――」 「舞台に落ちることに怯えんな」卓は言った。膝から思い切り板の間に落下する。そりゃ痛いし、卓も痣になったことが何度も有るけれど。「やってみな、菜摘」 「……」  叔父が黙っている。半分睨んでおり、半分は卓の言うことにも納得しているのだ。卓は板の間に上がると正座した。 「もう一回やってみな。俺も謡うから。俺も一緒に稽古させてください、叔父さん」        五 その夜、久々にバテてしまった菜摘を部屋に寝かしつけると、卓は稽古場に引き返した。ホールでは、まだ今辻さんが舞を続けている。囃子方の人間も遅くまで付き合っており、クーラーをかけているのに室温が倍くらいに跳ね上がったみたいだ。 「卓、今日はたまらんかったなぁ」と、様子見に来た妙子さんが言った。能は全身運動だ。ほんの五分動いただけでも汗だくになるし、体じゅうの筋肉が軋み始める。空の湯飲みを十個ほど盆に乗せて立ちながら、妙子さんは呟いた。「先生、今日はとりわけご機嫌が悪うてな。邦弘さんにも愚痴っとったが…」  叔父さんの機嫌が悪いのは、いつものことだよ。卓はそっと笑った。卓を見れば機嫌が悪くなる。なかなか、両者の溝は簡単に埋められるものではないようだけれど…「何か有ったの?」  すると、妙子さんは返事の代わりに小鼻をひくひくさせた。お得意のゴシップで、特ダネが有るときはいつもこの動きが顔に出るのだ。「峰成会(ほうせいかい)の倉岳(くらたけ)さん」と言った。「夕方、ここに見えてたのよ」  その名前を聞いて、卓ははっとなった。聞き覚えがある。倉岳会長のことだ。叔父の重智は昔からくせのある人物で、会の外にも苦手とする人間が結構おり――峰成会は、その筆頭だ。ここに来てたって? 「何で?」卓は目をしばたいた。同じシテ方で、流派は同じでも、昔から響円の会と峰成会は仲が悪い。理由は簡単、こちらのほうが有名だからだ。玄人を育てられるのは「職分家」だけだが、同じく歴史の浅い者同士で、塚元家が近年新手の職分家に数えられていることが認めがたいらしく――まあ、そんなもんだろうね。 「何しに来てたの?」卓はきょとんとしてしまった。今辻さんたちは、『乱拍子』に入っている。小鼓とシテの息一つだけで繰り広げられる緊迫感ある見せ場の一つだ。「所属も違うのに、まさか喧嘩でも売りに来たとか?」 「そうなのよ!」と、妙子さんは途端に大袈裟に頷いてみせた。「あれは卓の言う喧嘩やな。うちが今回道成寺を披くことになって、倉岳先生らも、同じく道成寺を披かせてもらうことになったそうなのよ。それもわざわざ公演の月まで重ねて」  は? 卓は思わずポカンとしてしまった。そりゃまた……なんて露骨なやり方だ? しかも月まで被せてきたって? 「相手のシテは、今辻さんと同い年」妙子さんはひゃっひゃとおかしげに唇を震わせて笑った。「どうあっても、当会はあなたがたにひけは取りませんとでも言いたいみたいねえ。教室に挨拶に来て、居ないからここまで先生を探しに来たんだと」  はあ……卓はなんだか気抜けしてしまうような思いだった。さっきの車、あれは倉岳さんらの車だったのか。能は確かに狭い社会だ。でも、だからってそんな下らない真似をしなくても… 「お陰であのご機嫌よ」妙子さんはふんと鼻を鳴らした。「今辻さんも、引っ込みがつかんのやろうね。ずっとあの調子で、朝までやるつもりなんかねぇ…」  ポケットに手を突っ込みながら、卓は考えていた。そういえば…そうだったっけ、と思う。そんなこともあった。倉岳会長は、昔から叔父に暇さえあれば絡んできた人だったのだ。確か、それでお互いの関係が激化して…  首を振り、卓は練習場をあとにした。おやすみ、妙子さんに言い置きその場を離れる。菜摘の部屋の前を過ぎ、今日は開いた部屋を一つ借りよう――思った卓は、ふと思い出したことがあって足を止めた。 (峰成会の会長が来て、叔父に喧嘩を)  それでどうなったっけ? 卓は思った。そう、それは確かに卓はもう経験している。これが間違いなく十年前の過去ならば、卓はそれを知っているはずなのだ。この先どうなるかのかを。  だが、その記憶がどうもぼんやりとしている。卓は思わず舌打ちした。これも十年間、封じ込めに封じ込め続けてきた結果だ。何らかの理由を挟んで、ああいう結果になった。菜摘のところに、あの話が回ってきて…  だが、それが思い出せない。詳細をすっ飛ばし、結論だけがいつも飛び出してきては卓を震え上がらせるのだ。思い出したくない未来を――いや、過去の映像を突きつけて卓を凍りつかせる。 (何故だ? どうして今辻さんが舞うはずだった道成寺が、菜摘に回ってきた?)  菜摘だけではない。まだまだ素人の卓に、一体どうして、そんな大それた話が来ることになったのだ?  考え直して、菜摘の部屋に引き返す。覗いてみると、案の定彼女は布団を跳ねており、卓は溜息を洩らした。やっぱり布団を跳ねてら。ああすると、いつもお腹を壊すくせに…  こっそりお邪魔して、布団を覆いかけてやる。座布団が、枕元に三段になって積まれており、その上に腰掛け壁に背をもたせると、卓は目を閉じた。 今辻さん…卓は思った。若手の能楽師で、会の筆頭として道成寺を披くのに申し分無い。凛々しくて、非の打ち所がなく、卓自身も菜摘がポーッとしてるのに納得するくらいだ。あの当時の卓は、かなりの確率でムッとしていたけれど…  あの人にも、何か苦手があったっけ? 思ってみた。能を舞うには文句のつけようがない人だ。兄貴肌だし、卓もよく悩みを相談していた。頭もいいし、切れ者で、何か失敗するようなことが……  うとうとしながら考える。そのとき、卓の脳裏にある言葉がふっと浮かんだ。 (酒――酒だ)  その瞬間、卓は目を見開いた。  翌朝、陽が昇る前に起き出すと、卓は早速厨房に飛び込んだ。妙子さんが朝食の支度をしている。大鍋に大量の味噌汁を作っており、卓を見るとあら珍しい、という顔をした。「今日から試験か? 卓」  違うよ――卓はうわのそらで首を振った。そんなことではないのだ。昨日の晩、思い出したのだった。どうしてあんなことになったのか、その記憶の断片を。 (どうして今辻さんが、舞台を降りることになった? わざわざ、この状況の中で)  その答えはこいつだ。卓は厨房の角に眠らせてあった日本酒を引っ張り出した。歳末に、みんなで集まって忘年会をする際に飲んだときのものだ。今辻さんには、たった一つ弱点があった。それも致命的なレベルの弱点が。  酒に弱いのである。卓は下唇を噛み締めた。別段飲めない、という意味ではない。気持ちよく酔うかわりに、少々歯止めが効かない所があるのだ。以前にも、そんなミスを一度やらかしたことがあった。あのときは確か厳重注意で済んだけれど…  妙子さんの見る前で、酒を隠してしまう。ついでにカレンダーに駆け寄ると、卓はそれを素早く指で追って確認した。 (大安) 十一日後の、七月六日にそう記されている。卓は密かに拳を固めた。やっぱりだ、この日だった。確かこの日にあれが起きたのだ。 能をやっていると、年のわりに〝シブ好み〟の人間を目にすることが多くなる。卓は笑った。菜摘はああ見えて時代劇が大好きだし(年頃の娘が、何を見てるんでしょうね?)今辻さんには変わった習慣があった。毎年陰暦カレンダーを買って来て集めるのと、そしてコレだ。六曜を異様に気にする癖が。  あの日、今辻さんは確か仲間と飲みに行ったのだった。能楽師をやっていても、オフの日は能と関係の無い友人や学生時代の仲間たちと集まる。そしてその先で、何かしらの悶着を起こし、喧嘩になって足を怪我したのだった。それで本番間近に舞台を降りざるを得なくなった――  そしてその日がいつだったのか、卓ははっきりと言い切ることが出来る。十一日後の大安だ。あの日、病院に駆けつけた卓たちの前で、がんじがらめにギプスをした足を前に、今辻さんは始めて泣きながらこう言ったのだから。畜生、吉日だってのに何でこんなことに……  今辻さんなら、危険を回避できる。卓は唇を吊り上げた。あの話が卓たちに回ってこないようにすればいい。警告して、間違っても酒で失敗させないようにすればいいのだ。鐘のこともそれとなく言い含めておく。そうすれば、事前に過去を変更することが出来る。 「おはよう、卓っちゃん」菜摘が目をこすりこすり起きてきた。「…何でこんなに早いの?」 「試験対策だよ」卓は言ってやった。嘘! 菜摘が飛び上がる。慌ててカレンダーを確認し、「嘘つき! 来週からじゃない」 妙子さんがおしんこの入ったボウルを突き出してきた。小さなトングが入っており、盛り付けを手伝え、ということらしい。卓は大人しくそれを受け取ると、ズラリと並んだ焼き魚の角皿に盛り始めた。「追試だよ。今度こそ落とさないようにしないと…」  すると、菜摘は目をぱちぱちさせた。もう決まったの? というような顔をする。「科学? 駄目だよ、諦めちゃ。まだ日が有るんだから、頑張ろう?」  卓は菜摘の顔を見た。まだ半分寝惚けており、寝癖で前髪が跳ねてしまっている。それを戻してやると、卓は首を振った。 「科学じゃないよ」 菜摘はポカンとしている。諦めるもんかよ――背を向けながら、卓は思った。 追試みたいなものだ。人生の、再試験。菜摘はおしんこをポリポリつまんでいる。その横顔を眺めながら卓は目を据えた。 まだ日が残っている。だったら今度こそ、上手く行かせてみせるよ。絶対に。        六  週末は、今辻さんの本番前の初リハーサルだ。卓たちの稽古場――塚元教室は、今日は朝から舞台に鐘が吊り下げられている。本番で使うのと同じ、作り物の鐘だ。 手伝いに早朝からやってきた卓は、お昼に取る弁当を運び込みながら、大汗をかく思いだった。囃子方も、狂言方の人間までもが集まっている。普段よりも倍以上の人数で集合しており、こうしてみると本番みたいだ。 お定まりの老松の前に、装束を着た今辻さんが佇んでいる。大きな鐘の下で動きを確認しており、着物に仕込んだ後シテのための面を懐に収めなおしているのだ。道成寺の〝白拍子〟は前半部分。前(まえ)シテといい、これが鐘の下に飛び込んで、次に鐘が上がるときには鬼女に化けているのだ。降ろされた鐘の中で、シテが着替えを済ませ、面を般若の面につけ変えて蹲っており――これが正体を現した女の本性で、通称後(のち)シテという。 「格好良い!」菜摘は今朝からずっとこの調子だった。目がうるんでしまっている。「今辻さん、格好いいね! ねぇ卓っちゃん!」 「いいから手伝えよ」卓はむくれた。さっきから、弁当を運ぶのも、お茶を配るのもみんな卓の仕事なのだ。不満の要素はそれだけではないのだが…「今辻さんに言いつけるぞ」  菜摘が四つほど、四角形の小箱のようなものを持っている。後生大事に腕に抱え込んでおり、卓は呆れた。「何だよ、それ」 「今辻さんに貰ったの」菜摘はニコニコした。「昨日行ったお店で配られてたんだって。新装開店の、料理屋さん!」  卓は菜摘の手から小箱を一つ取り上げた。箱の中身は、薩摩切子風の小さなショット・グラスだ。『創作和風料亭 あたみや』と外箱に文字が入っている。確か駅前にあり、結構な高級感だっけ。予約が必ず必要な―― 「卓っちゃんにも一つあげるね」と菜摘は笑った。「赤だけ、二つあるの。いいなあ、行きたいな!」 「青を寄越しな」卓は唸った。「ちゃんと手伝え。じゃなきゃ白もついでに取りあげる。ホラ、運んだ!」  道成寺は、全部あわせて二時間近くの公演になる。今日は予め鐘が吊るされているが、本番では、鐘を運び込んで吊り上げるところから始まるのだ。物干し竿のような竹に通した鐘を、狂言方の人間が四人がかりで担いで持ってくる。手首ほどの太さの紐を鐘に通し、まず、その紐の先を、割れ目の入った竹ざおに引っかけて、天井の金具にそれを通すのだ。続いてもう一人が今度はフックの付いた竹ざおでそれを引き降ろす。あとは後見人に選ばれた人たちが、一斉に紐を引っ張って鐘を吊り上げる―― 「鐘後見、決まったんだって」菜摘が囁いた。鐘を吊り上げ、本番中にその鐘を降ろしたり上げたりする人間を鐘後見と言う。五人がかりの大仕事で、文字通りシテの命を預ける役割だ。卓は頷いた。「近藤さんだろ」  何で知ってるの? 菜摘は途端にきょとんとした。「主後見に大皮の近藤さん、副後見に俺の叔父。文鎮さんに(※おもり役になる人)葛西さんと須藤さんで、さばきに地謡(※紐をくくる役の人)の金子さんだろ。知ってるよ」  菜摘はますます目を丸くした。そう――否が応でも、その面々はよく知っている。例の事故のあと、誰が元凶だったのか、誰の失態だったのかでさこそ大騒ぎになったのだから。卓にとってはどうでも良かった。そんなこと、今更騒いでも、もうどうにもならなかったのだから… 「さっき発表されたばっかりなのに」と、菜摘は言った。「いつ知ったの? 卓っちゃんてば――」  卓は菜摘の手を握った。いいから、もう黙ってろ。その場を引き離そうとする。これ以上、この場に居させることが耐えられなかったのだ。卓はその手を引っ張った。本番は始まりだしており、邦弘さんが小鼓を叩いている。ワキの住職役が謡を始めている――  菜摘は、びくともしなかった。いつの間にか、釘付けになるようにして舞台の様子に魅入っている。まるで、体が突然石にでもなってしまったみたいに。菜摘そっくりの灯篭が、そこに立てられているみたいに… 本気なのだ。その横顔を見て卓は悟った。本気でこの舞台に、将来立ちたがっているのだ。悔しいけれど、今辻さんの姿に、未来の自分の姿を重ねて見渡している。 (いつか、能楽師になりたいな。道成寺を披いて、卓っちゃんに鐘後見をお願いするの!)  何だってしてやるよ。卓は思った。大人になって、菜摘が夢を叶えるときが来たら、そのためになら今は何でもするよ。  突然、小鼓の音が狂い始めた。変に早くなったり、遅くなったりを繰り返している。シンコペーションするみたいに白拍子の動きが狂い始め、叔父がパパンと手を打った。「なんだなんだ、邦弘くん、一体どうした!」 「そこのおふた方だろ」と、金子さんがぷっと吹き出した。邦弘さんが棒っ切れみたいになってしまっている。「なっちゃん、せめてリハーサル中にお父さんを惑わすのは止めてやれや。外に行ってやんな」  菜摘はきょとんとした。さっき迂闊に、菜摘の手を掴んだままでいたのだ。面の下で今辻さんが笑っており、卓は慌てて手を離した。菜摘がやっと気付いたのか目をしばしばさせている。 「ほ、保健体育の実習で…」  脈拍を測る練習を。邦弘さんに言い置き卓はその場をあとにした。他意はありませんよ、他意は……  道成寺は、亡霊になりたくなくてもなってしまった女の悲しみだ。囃子の音も、含みがあればあるほどいい演出になる。感情を移入するほどに鼓は良い音を奏でるのだ。  ポオォーンと、いやに情感を含んだ音で小鼓が鳴った。    その夜、リハーサルを済ませると、卓は真っ先に今辻さんの所に駆け寄った。良かったよ! 声をかけ着替えの手伝いをする。「全然駄目だ」今辻さんは唸った。「あんなのじゃ客を納得させられない」 「自分を追い込むなよ、彰彦くん」邦弘さんが笑ってフォローする。「まだひと月以上も有る。それまでに、芸を磨けばそれでいいよ」 「い、今辻さん」卓は言った。「あのさ、お願いなんだけど、来週の七月六日って予定があったりする?」  へ? 装束を脱ぎながら、今辻さんはきょとんとした。汗びっしょりになっており、熱気で耳まで真っ赤になっている。邦弘さんがははん、と眉を上げ笑ってみせた。「おねだりする気か? 例の料亭に、卓っちゃんよ」 「ち、違うよ」卓は作り笑いを浮かべてみせた。「そういうわけじゃないんだけど……」 「飲みに行こうかと思ってたんだが」と、今辻さんは言った。「まだ、仲間には声をかけてないよ。どうした?」 やった、指を鳴らしたいのを堪え、卓は用意した嘘を口にした。「実は試験勉強なんだけど、科学と漢文が、欠点なんだ。漢文が、下手したら留年かもしれなくて…」 すると、同時に邦弘さんまでもがギクリとしたようだった。「お、叔父さんに殺されるぞ、卓っちゃん」と言う。「彰彦くん、漢文得意だったよな? 少し見てやれや」 「何点取りゃあいい」今辻さんは神妙だった。「四十点か、半分以上か」 「は、八十七点――」  うわあ! 邦弘さんが飛び上がってしまった。そりゃないぜ卓っちゃん、お母さんが、いくら不在だからって勉強しないのにもほどがある! 代わりに叱られてしまう。「稽古はいいから勉強しろ! 破門にされちまうぞ、おい!」  結局、件の日はみっちりと教えてもらうことになった。しめしめ、内心安堵しながら稽古場を離れる。これで安泰だ。あとは、鐘の事故のことをそれとなく伝えれば… 「卓っちゃん、今日はうちに泊まる?」外に出ると、菜摘が訊いてきた。「泊まりなよ。今日のご飯はカニクリームコロッケだよ」  幾分気が楽になって、卓は頷いた。大分陽が長くなったが、まだ陽の入りは短い。蝉が鳴き始めており、卓は目を上げるともう一度頷いた。 「うん」  過去はこれで変えられるだろう。卓は内心ほっとする思いだった。これで予定通り、今辻さんが舞台に立つことになる。確かに危険ではあるが、抜群のキレと運動神経を持つあの人のことだ。今度はきっと大丈夫―― 「爪、付いてるかな」菜摘が言った。「はさみが出てるやつがいいな。カニっぽい雰囲気だもん」  何だよそれ、卓は笑った。久々に、菜摘に向かって笑えた気がした。菜摘もそれに気付いたのだろう。ほっとしたように笑顔になる。  これで万事万端。心配事は、無事に消え去った――  だが、それはあまりにも甘い考えだったのだ。        七  三日後は、六月のちょうど最終日だ。例の神社では夏越の祓をやっており、年に数回だけ賑わいを取り戻す。学校の帰りにかき氷を食べ(参道の入り口付近に、小さな屋台が幾つか出ているのだ)強引に菜摘を引っ張って帰ってきた卓は、戻ってすぐ妙子さんと玄関で鉢合わせた。いつになく真っ青になっており、風呂敷包みを手にしている。 「ただいまぁ」と菜摘が平和な声を出した。「どうしたの? 妙子さん」 「た、卓!」妙子さんが風呂敷に包んだ着替えを突き出してきた。「なっちゃん! 頼むからどっちか留守を頼まれてちょうだいよ」  卓は菜摘と顔を見合わせた。と、白い乗用車がこちらに走ってくる。ライトが点いており、ファンとクラクションを鳴らすと邦彦さんが窓から顔を出して身を乗り出した。 「妙子さん! 早く!」  ま、待った――着替えを再びひったくられながら、卓はきょとんとした。妙子さんが頭から助手席に飛び込んでいく。「何なの? 邦弘さん、どうしたのさ?」 「卓っちゃん、戸締まりしたら菜摘と来てくれ!」ユーターンしながら邦弘さんが言った。菜摘は客用サンダルに履き替えている。「彰彦君が、入院した!」  は? 卓は一瞬棒立ちになった。言われたことの意味が、とっさには分からなかったのだ。一拍早く、菜摘が理解したらしい。転びそうな勢いで車の運転席の窓に飛びついた。「お父さん、どういうこと!」 「落ち着け、菜摘」卓は菜摘を車からひっぺがした。三人とも、卓に負けないくらいに動揺している。菜摘はショックで震え始めており、邦弘さんが忘れていたシートベルトを締めると早口に言った。 「わ、分からん」と言った。「たった今稽古場に連絡が入ってきた。喧嘩らしくて、足の骨を骨折したと。今手術室に入ってるらしいが…」  今度こそ、菜摘が悲鳴を上げ座り込んでしまった。卓は愕然としていた。出し抜けに、物陰から暴漢が飛び出してきて頭を思いきり鈍器で殴られたみたいに。ぐわぁんと頭に衝撃が来て、とっさにはものが言えなくなる。 「携帯の、留守番電話に病院の住所を入れといた」邦彦さんがアクセルを踏んだ。声が置き去りになる。「落ち付いたら二人で来なさい! 怪我するんじゃないぞ!」  車が急発進して行ってしまう。菜摘がアスファルトにしゃがみ込んでおり、卓は全身がスポンジみたくスカスカになってしまったみたいな気がした。  どういうことだ? 卓は自問した。過去は変えたんじゃなかったのか? あの日を避けるように、今辻さんには警告しておいた。なのに怪我して入院しただって?  気が付くと、菜摘が腑抜けてしまっていた。呆然と地面を眺めている。口が半開きになっており――卓は屈み込むと、菜摘の肩を強く揺さぶった。目が返事のようにちまちまする。 「――どうしよう」と、菜摘が呟いた。「卓っちゃん、今辻さんが…」  馬鹿、卓は無理に頭のスイッチを入れると、菜摘を抱き寄せた。俺が放心しててどうする! 自分に言い聞かせ、菜摘の背中を叩く。「大丈夫だ。とにかく病院に行ってみよう、な?」  菜摘を励まして立ち上がらせる。今度こそしっかりと手を繋ぐと、卓はポケットの携帯を取り出した。  留守番電話の内容は、聞かなくても知っている。病院の位置も、怪我の容態も、手術にかかる時間もだ。 『済生会 駒沢病院』卓は走り出した。二度と行きたくない病院の一つだ。こうなっては背に腹は変えられないけれど。いや、それよりも――  混乱しそうになる頭を落ち着けながら、卓は走った。菜摘が転びそうになっている。  これじゃ、十年前とまるで同じじゃないか!  病院に駆け込むと、卓は真っ先に見知った人の姿を見付けた。邦弘さんと妙子さんだ。受付で待っていたらしく、蒼白な顔をしてこちらに駆け寄って来る。 「な、なっちゃん」と、妙子さんがうろたえながら言った。「お――落ち着きなさいよ。もうじき、手術室から出てくるらしいから…」  左大腿骨骨折。卓はあのときの記憶を思い出していた。卓の記憶が正しければ、半年の入院になる。空気塞栓を起こすので、この手の骨折は緊急手術が必要になるのだ。叔父がやってきたらしく、玄関口のガラス戸の前に車が急停車する。 「け、喧嘩ってどういうことなの?」菜摘がしゃくりあげるようにして訊いた。もう泣き出し始めている。邦弘さんが菜摘の背中を擦っており、「どうしてそんなことになったの? お父さん――」  酔っ払い同士の喧嘩だよ。卓はそっと思った。今辻さんは、酒に弱かった。良い気分になって酔っ払っていたところに、二人組の酔っ払いに絡まれたのだ。当然掴み合いの喧嘩になって…  過去を変えたと思っていたのに。卓はひそかに歯噛みした。これじゃまるっきり同じじゃないか? 運命は、しかるべくして回るとでもいうことか――  冗談じゃない。思いかけて、卓は強く首を振った。どういうことかは判らないけれど、それなら卓が阻止するまでだ。絶対に、阻止してみせる。二度もあんな思いをさせてなるもんか。  手術室から、ストレッチャーが運び出されてくる。看護士が付き従っており、やってきた叔父が卓の背後で立ち止まった。  今辻さんの怪我は、思った通りだった。  個室を借りて、みんなで容態を案ずる。全身麻酔がまだ効いており、今辻さんはものも言えなかった。警察の人がやってきて、たまたま一緒に居合わせた友人たちに事情を聴いている。 「若かったですけど……」友人は言った。頬にガーゼと腕に湿布を貼っている。「二人組でした。半分、難癖を付けるみたいにして彼に絡んできて、それで掴み合いになったんです。今辻君、酔ってたから…」  蹴飛ばされて、気が付くと地面に倒れていた。卓は背中で聞きながら項垂れる思いだった。なんてこった。今辻さん、本番はこれからだってのに。  菜摘を連れ深夜になって家に戻る。誰もひと言もものを言わず、みなが家路に着いていった。  練習場は、異様なほどにしんとしている。電気が消されており、菜摘がすすり泣く声が聞こえて来る。彼女の隣の部屋を借り、じっと目を開けたまま、卓は布団に横たわっていた。 (警告したのに、日を変えて同じことが起きた。過去がそのまま繰り返されている)  クソ、闇の中で舌打ちする。これじゃ詰め将棋だ。運命は、まず間違いなく次の段階に入った。この次は、卓には予想がつかないけれど、何らかの動きが起こって、卓たちにあの話がやってくるのだ。異例も異例の、あの話が。  起き上がり、廊下に出ると菜摘の部屋をノックする。返事はなく、代わりに洟をかむ音が聞こえてきた。卓は引き戸を開けた。 「菜摘、大丈夫か?」  目を真っ赤にした菜摘がこちらを見上げてくる。タオルをハンカチ代わりに使っており、丸めたティッシュがくずかごに山積みだ。「卓っちゃん…」と言った。「ごめんね、卓っちゃん…」  構わないよ、卓は呟いた。そりゃ誰だって泣くさ。菜摘は昔から、今辻さんに憧れており、優しくされるととりわけ喜んでいたものだった。今辻さんは誰にでも優しかったけれど… 「ど――道成寺」菜摘が嗚咽を堪えながら言った。「披けないって。足が治っても、暫くは無理だろうって。先生が…」  卓は頷いた。能をやっている人間なら、それがどんなに残念なことかは分かる。叔父だって、きっと同じ思いだ。だからみんな、あんなに寡黙だったのだ。 「菜摘のせいじゃないよ」卓は背中を叩いた。「今辻さん、明日行って元気づけてやろうぜ。だからそんなに大泣きすんな」  ポロポロ涙を零している。ああ、しょうがねえな。卓はタオルで垂れている洟を擦ってやった。まるでウサギみたいな目だ。「黒糖パフェ食わせてやるから」 「……」 「コンビニでコロッケと辛味チキンも買ってやるから」卓は付け足した。英語だって見てやるよ。宿題だって、ちょっとは手伝ってやるから。だからそんな悲しい顔ばっかりすんな。 「卓っちゃん…」  菜摘が呟いた。ずずずと座布団を引きずり、その上に横になってしまう。こちらに背を向け、鼻の詰まった声で囁くように言った。 「道成寺、誰がやるのかな」そう言った。チケットはほぼ完売している。本来なら、鐘後見の人間が例外的に勤めるはずだ。葛西さんか、叔父さんか―― 「代役見付かるのかな」まだ囁いている。「誰でもいいから、出来る人がやってくれるといいね…」  言いながら縮こまってしまう。クーラーの電源を切り、手近にあった座布団を引き寄せると、菜摘の身体に積み上げて卓は頷いた。        八  翌日からは、期末試験の開始週間だ。まだぐずっている菜摘を学校に引っ張って行った卓は、予想通り何一つ手に付かなかった。化学も数学も物理もサッパリ。考えることもできず、心ここにあらずの状態だ。  今辻さんは、すっかり落ち込んでしまっている。病院で、物もまともに食べることが出来ず、看護士さんたちに心配をかけているらしい。菜摘といえば、輪をかけて萎んでおり、下手に励まそうとしては病室からしょんぼりして出てくる状態だ―― 「卓っちゃん、菜摘を励ましてやってくれ、な?」  邦弘さんまでもが頼ってくる有様だ。卓は走り回りながら、密かに息を殺すような状態だった。いつだ? いつ飛んでくる? 次の段階はどんな形で襲ってくるんだ?  過去が日付を変えて、そのままの形で進行している――このことは、卓を心底から震え上がらせた。それはつまり、悪い未来、いや過去に直進しているということだ。どこかで軌道を変えなければ、結局同じ結果になってしまうということなのだから。 (何かが起きて、卓たちにあの話が来ることになった。その〝何か〟を変えればいいのだけど…)  入院以来、叔父はますます気難しくなった。妙子さんは、いつものゴシップ好きの空気がすっかり消し飛んでしまっている。邦弘さんはこまめに今辻さんを励ましに行っており、卓は毎日悪夢の連続だ。あの夢を見ては悲鳴を上げて飛び起きる。 (あの話が来ないようにすればいい。だが、どうすればそう出来るのだ? 過去の卓は、生憎とそのトリックを知らない――)  四日目の放課後、午前上がりで試験の済んだ卓は、病院に足を伸ばしてみることにした。今辻さんは、今頃投薬と昼食の時間帯だ。また食べ残していたら、少し叱ってやろう。そんなのじゃ、怪我が早く治らないよ、と。これ以上心配させないでよ、今辻さん。  病院の前に、紺色のベンツが停められている。玄関口に堂々と横付けされており、ちぇ、邪魔だな、思った卓はぎくりとした。 (この車――倉岳会長だ。峰成会の。わざわざ来ているだって?) 急いで階段を駆け上がり、病室に向かう。扉は今日はきっちりと閉ざされており、中に人の気配を感じて卓は聞き耳を立てた。とっさに扉に貼り付いて耳を押しつける。 「それでは、お大事に。この度は本当に残念でしたなあ!」  時と場合によらなくても、嫌味に取られる声が聞こえて来る。足音がして、卓は慌てて扉の横に退いた。と、同時に扉が向こう側から開かれた。  卓は思わず顎を引っ込めた。出てきたのは、掠りの袴姿の底意地の悪そうな老年の男だったのだ。重智おじさんよりも十歳ほど年上で、頭が半分禿げかかっている。倉岳会長、卓は身構えた。見覚えがある。記憶よりもちょっと若いけれど。 卓を見ると、相手はおやぁ? と笑った。後ろに男が三人ほど付いている。 「お見舞いかい、偉いねえ。稽古しっかり頑張るんだよ」  邦弘さんが、声を聞きつけてさっと外に飛び出してくる。卓を認め、とっさに〝聞かれたか〟というような顔をした。妙子さんが機転を利かせ扉を閉める。「菜摘、帰りなさい」邦弘さんが言った。「今日は今辻さんは検査で忙しい」  菜摘だって? とっさに卓は頷くと踵を返した。ちょうどやってきたエレベーターに、慌てて乗り込む。つまり、中には叔父が居たのだ。邦弘さんは、叔父に卓がここに居たことを悟られたくはなかった―― (この度は本当に残念でしたなあ!)  倉岳会長。卓はさっきの顔を思い浮かべた。どう考えても悪意のある、ひと癖もふた癖も有りそうな古狸。あんな顔に見舞われたんじゃ、治る怪我人も治りが悪くなりそうだ――思った卓は、ふとエレベーターを出て足を止めた。 何かが有って、あの未来が降ってくることになった。『道成寺』を、正式な玄人でもない卓たちが代役で披くというお達しが。 異例中の異例の出来事だ。卓は考えながら固まっていた。本来なら、後見人が代理で換え役を務め舞台に上がる。叔父は玄人だし、芸は下がってはいるが申し分が無い。葛西さんも見事な腕前だし… (稽古しっかり頑張るんだよ)  頭の中で、絡み損ねていた知恵の輪が、ピンと音を立てて外れた。あの口ぶり、天から馬鹿にするような口調だった。第一、なぜ卓をひと目見て能を舞う人間だと判ったのだ?  何かが、叔父に引っ込みつかなくさせた。そうせざるを得ないように上手く追い込んだ。  それは、ひょっとしてあの倉岳会長ではないのか?  その日の夕方、稽古をしていた卓は、自分の読みが的中していたことを知った。菜摘の家で自主稽古をしていた卓は、その最中に、叔父に呼び出されたのだ。卓だけではない、菜摘もだ。ホールの隅に呼び寄せられる。  板の間に、急ごしらえに用意された畳敷きの上で、叔父と膝をつき合わせて座る。菜摘はきょときょとしており、叔父はいつにも増して厳しい表情だ。卓は固唾を飲みながら待っていた。叔父が切り出す言葉を。この次に、起きるだろう出来事を。 「道成寺を、引き続き披くことになった」叔父は言った。気のせいか、動きが少し固まって見える。「代役を立てて続行する」  途端に、パッと菜摘が笑顔になった。ほっとしたような、嬉しそうな顔をする。本当? 唇が形作った。誰がやるの? 先生?  叔父は頑なに黙り込んでいる。まるで、この先自分の言う言葉が、あまりに強引で、無理のあることだと重々承知しているみたいに。随分待ってから、叔父は言った。まるで隕石みたいに重い言葉を口から押し出す。 「――お前が舞ってみるか、卓」  途端に、邦弘さんが鼓を肩から取り落とした。菜摘が驚いたように卓の横顔を見る。卓はあっけにとられていた。予想はしていたものの――知っていたものの、やっぱり衝撃だったから。あり得ない言葉を前に思考が硬直する。  道成寺を。あの、重習(おもならい)中の重習を。  芸の技の集大成、道成寺。卓は口を半開きにしていた。それを披く順番で、玄人の序列が時として決まるほどの。あのとき、卓はなんと言ったんだっけ? 混乱しかける頭で卓は思った。じ、冗談でしょう? そう言った。いくらなんでも、そんなもの家元が許すものか!  重習は、家元の許しが無ければ勝手に披くことは出来ない。いくら卓が職分家の息子だからって、そうおいそれと許されるはずが―― 「許した!」突然叔父が叫んだ。それは半ば自棄っぱち、売られた喧嘩を前に今更後に引けるかというような表情だ。卓の脳裏に、昼間の会長の顔が思い浮かんだ。ほくそ笑んでいるような口調で(残念でしたなぁ!)  卓は目を上げた。見ていなくても、その場を知らなくても、卓は刹那にそれを悟ったような気がした。これ以上ないほどの満足の表情。煮染めたような、会長の顔が卓の中でも笑っている。しかし困ったことになられましたな。今辻君に変わられる、若手の舞い手は他におりませんか? (よろしければ、当会の人間をお貸ししましょうかな!)  叔父のこめかみに、うっすらと淡い影が見えている。青筋が浮いているのだ。どうあっても、叔父にストップをかけるのは無理――そう思ったとき、卓の頭に走馬灯のように過去の記憶が蘇った。あのときの映像が稲妻のように脳裏を駆け抜ける。  お前がシテを舞ってみるか、卓。  あのとき、叔父がそう言ったとき、卓は迷っていた。叔父に対する複雑な思いに。重すぎる決断に。だが、それよりも、何より卓を迷わせたのは菜摘のことだった。あの言葉が卓を支配したのだ。 (能楽師になりたいな。それから、いつかは道成寺を披きたい!)  菜摘、卓は思った。きっと今も、彼女は同じ思いを抱いて隣に居るのだろう。真っすぐで、能が大好きで、誰よりも夢に一途だった菜摘。その言葉を胸一杯に張り上げて生きていた菜摘。 (卓っちゃんに、鐘後見をお願いするの!)  菜摘――卓は強く目を閉じた。あのとき、卓はとっさに遠慮したのだ。能が好きだった、だがそれ以上に菜摘が好きだった。だからああ言ったのだ。いや、言ってしまったのだ。  出来ませんよ、と。そっけないほどに。僕には荷が重過ぎます。 「――やります」ほとんど条件反射みたいに、卓は言った。気が付くと畳に頭をつけ叫んでいた。「やらせて下さい、お願いします!」  菜摘、ごめん! 卓は内心叫んでいた。あのとき目を反らしながら、断った自分の姿を思い浮かべた。逃げだった、それは菜摘の本気に対してだけじゃない、自分自身の――生き方に真っ向から向き合うことに。  そしてそれが菜摘をあの舞台に立たせた。もう二度と、同じ失敗はするもんか!  叔父は黙っていた。あまりに意外だったのか、軽く目を見開くような顔をしている。空気が硬直しており――ややあってから、叔父が低く言った。「明日から稽古に入る」  卓は目を見開いた。叔父が立ち上がり、畳を降りる。 「披くからには、完全に勤めて貰うぞ。厳しくなるが覚悟しなさい」  そのまま稽古場を出て行ってしまう。はかったように妙子さんがさっと引き戸を開け、その途端に稽古場の空気がどよめいた。 「た…卓っちゃん!」  菜摘が飛びついてきた。葛西さんが呆然としている。空気が凝然としており、出来るわけがない! 憤りの声が聞こえてきた。本気なのか? 信じられないというような声も聞こえて来る。邦弘さんが、立ち上がり疲れたようにこちらに近付いてきた。「やったな、卓っちゃん…」 「……」  卓は黙っていた。邦弘さんが半ば脱力したような顔をしている。「やっぱり聞いてたな、昼間の話を。どうするんだ?」  どうもこうもないよ、呆然としながら卓は黙っていた。今更ながら、衝撃が襲ってきたのだ。菜摘が興奮して叫んでいる。「凄い! 凄いね卓っちゃん!」  過去を変えてみせる。卓はまばたきをした。その尻尾を今ようやく掴んだのだ。菜摘に代わって卓があの舞台に立つ。少なくとも、今度は軌道をずらすことが出来た。  だが――今更のように、認識が舞い戻ってきて、卓は棒立ちになった。それはまるで、ブーメランのように。おまけに勢いでぶん投げてみたものが、戻って来たら全身カミソリの刃で出来ていたみたいな。  菜摘に代わって。卓は目を動かした。あの舞台は、失敗に終わる。鐘が落ちてくるタイミングが狂い菜摘が亡くなったのだ。その代わりに、ということは…  出会い頭に殴られたみたいに、卓は我に返った。やっちまった、正気を引っこ抜かれたように顔面蒼白になる。過去を変えたんじゃない、いや、確かに変えたが摩り替えたのだ。現状はまるで変わってない!  つまり、今度は俺が死ぬってことじゃないか!        九  その晩、卓は流石に眠ることが出来なかった。布団にもぐり込み、引きこもりみたいに頭から掛け布団を被って暗闇に閉じこもる。後悔はない、だが今更ながらパニックが押し寄せてきて、卓は愕然としていた。  どうしよう。あの舞台に、今度は自分が。  身長ほどの高さの、布で包まれた作り物の鐘が象徴の『道成寺』。二度と思い出したくない光景がありありと頭に浮かんでいる。宗家から借りた装束に身を包み、見事に舞ってみせる菜摘の姿が。  新人には見えないくらいに。女流能に、否定的な観客も中には居ただろうけれど、そんなものは微塵も感じられなかった。完璧にこなす役割の下に、はつらつとした彼女の活力が見えている。菜摘、揚げ幕の陰から舞台を見ながら卓は思っていた。良かったな、菜摘――  鐘入りは、クライマックスを飾る見せ場のシーンだ。吊り上げられた鐘を後見人たちが引き降ろし、その瞬間にシテが鐘の下に向かって飛び込む。舞台手前で被っている烏帽子を叩き落とし、それが合図。『思えばこの鐘うらめしや!』  タイミングは完璧だった。卓は目を閉じた。誰もがそんなことが起きるとは思ってもいなかった。練習どおり、全ては順調、だがそのとき事故は起きたのだ。  ガクンと鐘が大きく傾き、微かな音がした。卓はその瞬間を確かに見ていた。鐘後見が、普段通り膝をつくようにして鐘を吊る紐をしっかり引っ張っている。鐘から紐が伸び、それが天井の金具の中を通って、紐の先を鐘後見が掴んでいるのだ。卓は叫ぼうとした。 「危ない! 菜摘――」  そのときの記憶が、卓は曖昧になる。叫んだのか、叫ばなかったのか分からないのだ。異変を悟っていたのか、そんな暇すらなかったのかも。彼女が真っすぐに鐘に近寄っていく。滑るように。そのとき何かがふっと宙に浮いた。  菜摘!  ドーンと、低い音がした。地面が跳ね上がり、卓は凍りついていた。邦弘さんが、鼓を放り出したのを始めて見た。 「菜摘!」  舞台に駆け出したとき、菜摘はまだ生きていた。女面を取ったとき、面にも負けないくらいの白い彼女の顔が出てきたのをはっきり覚えている。鐘を下ろすタイミングで、古くなった滑車が壊れ鐘が急激に落下したのだ。  そこからあとは記憶が無い。閃く救急車の回転灯と、音の消えた世界だけだ。  気が付くと、卓は強く膝を抱え込んでいた。奥歯を噛みしめる。そうだった。事故はそうして起きたのだ。金具の故障が原因だった。あのタイミングで、百キロ近くの重量を吊り下げていた金具が、がたが来て壊れたのだ。それが全ての原因だった。  見えてきた、卓は思った。拳を思わず握り締める。事故の原因は知っている。それならば、卓の舞台でも、似たようなことが起こるはずだ。いや、同じことがきっと繰り返される。  タイミングの狂う瞬間も知っている。何が起きるかも、どうすればそれを回避できるかも、全てを。  卓は布団から顔を覗かせた。ほっそりと、扉の隙間が透いている。さっきちゃんと閉めたのに、いつの間にか誰かが覗きに来ていたのだ。菜摘――おそらく、様子を見に来たのだろう。そういや卓も同じことをしたっけ。  いつか、菜摘が玄人になって、道成寺を披いたら、鐘後見をやる。袴を着て、紐を力一杯掴む自分の姿が見えた気がした。任せろよ、その代わりお前にも後見人を頼む。この次は、今度は正式に道成寺を披くときがやって来たら、俺もお前に命を預けるよ、菜摘。  運命を変える材料が、今、目の前に揃っている――  ならやるしかない。卓は強く拳を固めた。  翌日から、卓の稽古は熾烈を極めた。  学校を最小限の時間で済ませ稽古場に直行する。道成寺は、二時間近くにもなる長めの一曲だ。実際に、シテが舞う箇所は限られているが、謡や所作、覚えものなどが大量に降ってくる。 「違う、違う! もっと情感を出しなさい。シテの感情がちっとも伝わって来ん!」  叔父も死に物狂いだ。普通なら、道成寺に入るほどになると、能楽師は自分で芸の良し悪しを磨き始める。今辻さんも、「自分で考えなさい」の言葉に、さんざ苦労していたっけ。だが今回限りはイレギュラーのイレギュラーだ。  鐘を見上げる動作だけで三時間。卓は死にそうになった。十年前の稽古を思い出す。菜摘、あいつもこんなに打ち込んでたっけ? 叔父の声はもはや連発してエコーしかけている。「違う違う、違ぁう――」  菜摘は卓を励ますのに必死だ。一緒に横に付き、舞を覚えている。そう言えば、卓が何か新しいものを始めるとき、いつも横について菜摘も一緒に覚えていたっけな、卓は思った。なっちゃんは卓のあとつき虫だ、よく周りにそう言われていたっけ。  一週間で練習用の扇を三つ使い潰す。試験勉強もそっちのけ、見事補講が決定し、それすら行けないと判った卓に降ってきた課題と宿題を邦弘さんたちが片付けている。囃子方一同が揃って板の間に宿題を広げ「なんだこりゃ、さっぱり分からん!」  食事の時間も惜しく、あろうことか稽古場で夕飯を摂る。カレーの匂いが充満した能舞台で、乱拍子を練習し、何がなんだかもう分からない勢いだった。「小鼓のクセと間を掴みなさい! もう一度!」  夕方になって、卓はランニングに出ることにした。やり進めるうちに、自分の肺活量のなさに気付いたのだ。二時間の舞台は集中力と持久力勝負、覚えもの以上に固まった基礎が不可欠になる。ランニング・ウェアに着替えて外に出ると、溜息が出た。最近朝日と夕日しかロクに見てないや…  慣れ親しんだ町を走り出す。いつもは海辺に行かないが(能をやる人間は、日焼け厳禁なのだ)ちょっと足を伸ばしてみようか、と思った。夜の稽古にはまだ間が有る。トレーニングはきつければきついほどいい―― た――卓っちゃん。 声がして、卓は立ち止まった。後ろには、誰もいない。幻聴だ、卓は再び走り出した。急がなきゃ時間までに戻って来れない。 菜摘が居なくなってから、何度となくその幻聴を聞いたっけ。走りながら思った。ふとしたら、後ろに居るような気がして、振り向いては居ないの繰り返しだった。走っても歩調が勝手に緩まる。菜摘は、足があんまり速くなかったから… 「た、卓っちゃん!」  今度こそ、卓はつんのめりそうになった。振り向くと、菜摘があとを追ってくる。緩やかな坂道を、必死に駆け上ってくるのだ。「ま――待って!」  なんだよお前! 卓は叫んだ。ゼエゼエ言いながら菜摘は卓に追いついてくる。「私も一緒に走る――」  何でだよ? 卓はうっかり怒鳴ってしまった。なんだってこのタイミングでついて来るんだ! そう思った。下手に昔を思い出しているときに。第一、お前もうヘロヘロじゃないか! 「上手くなりたい」菜摘は膝に手をつきながら言った。肩がひっきりなしに上下している。「卓っちゃん、置いてかないで」  この、大馬鹿野郎――卓は泣き出しそうになった。それはこっちの台詞だったのだ。菜摘が居なくなってから、何度そう思ったか分からない。頼むよ菜摘、何度も思って泣いてきた。置いてくなよ!  卓は背を向けて走り出した。汗を拭うふりをして、涙を拭う。ぱたぱたと足音が続いており、サンダルで走ってきやがった、卓は振り向いた。「靴、交換しろ! 俺がそっち履くから」 「何で?」菜摘はひいひい言っている。「卓っちゃん、これから毎日走るの? 誘ってよ、聞いてる? ねえ!」  分かってるよ、卓は思った。言われなくてもそうする。菜摘が居なきゃ、なんにも始まらなかったんだから。 「あとひと月だね」走りながら、菜摘が言った。息が上がっている。「絶対、上手くいかそうね!」  卓は頷いた。陽が沈みかけている。  本番まで、あと一ヶ月――        十  七月は、能の稽古に最悪の季節だ。クーラーをかけても、運動で発熱する体には追いつかないし、外を移動する際は日焼けを過剰なまでに気にする。とくにシテ方の人間にとっては日光は天敵で――真っ白に日焼け止めを塗りたくって、首にタオルを巻き、農家用の前垂れのついた麦藁帽姿で稽古場に駆けつけた卓は、げんなりした。倉岳会長だ、また来ている。  稽古場の庭に車が停まっており、それに向かって会長たちが歩いている。心なしか、顔が引きつっており、不機嫌そうだ。車に乗り込むとき、卓の姿に気付き、軽く片目を細めてみせた。そのまま中に入ってしまう。 「どうしたの? 卓っちゃん。農家のおばさんみたいな格好」  菜摘が教室の裏の勝手口から顔を出してきた。炊事をしていたのか、タオルを手に持っている。自分も負けじとかっぽう着姿で、人のこと言えるかよ、言ってやったところで車は行ってしまった。卓は道路を顎でしゃくった。「倉岳会長、また来てたのか?」 「うん」菜摘は頷いた。「家元に聞いて、文句言いに来たんだって。気にすることないよ」  なるほどね…卓は内心納得する思いだった。大方、事態を知ったのだろう。卓が代役を務めることを聞き、家元に反論した。だが、そう強く言える立場でもなく――それで叔父のところにわざわざ来たのだ。ウチの玄人を使いなさい、と。 「お気遣いは結構、だって」菜摘がウフフと笑った。「そちらも多忙な時期でしょう。他の会に関わられるとは、なかなか順調なようですな、何よりです」  声を低くして叔父の真似をしてみせる。似てねえよ、頭を叩くと卓は裏口から中に入った。勝手口は、稽古場のバックヤードの横にある台所に通じている。テーブルの上に見るも毒々しい水色の食べ物が置かれており、卓はぎょっとした。「何だよ、これ!」 「卓っちゃんを励ますための計画。夏限定、目にも涼しいウルトラマリンのラーメンです」  逆効果だっつの……卓はげんなりした。そうだった、菜摘は昔から変なところで外す癖があったのだ。お客様用に醤油味のカステラを買って来たり、四国のお土産にわざわざ特大サイズの坊ちゃん団子を贈ったり。一度などは、ボール紙で出来たといわれる極彩色のアメリカ産ポテトチップス(ポテトじゃないと思うのだが)を試し、夜中にお腹が痛くなって大騒ぎになった。卓なら死んだってそんなもの口にはしないのだが… 「塩味だよ」と、わざわざ注釈を付けた。「お父さんは、慣れればイケるって。先生は嫌がってたけど…」  まるで、相手は頭が堅いから、というような顔をする。目を閉じてラーメンを腹に流し込み、具合が悪くならないか恐々としながら卓は稽古場に入った。叔父はあとを引いているらしく、ラーメンの汁が染み通ったみたいな青い顔をしている。「稽古を始めるぞ、卓」  舞台の脇に、白拍子のつける装束が置かれている。衣紋掛けで風を通しており、明日はこれを身に着けて、実際に本番をする舞台にリハーサルとして上がるのだ。卓は扇を手に持った。 (問題は、あの滑車なのだ。それが壊れてタイミングが崩れる。その瞬間さえ回避したら)  卓はそっと首を捩り振り向いた。壁の桟のところに、歴代の能楽師たちの写真がずらりと飾られている。どれも舞台の上のもので、土蜘蛛、石橋(しゃっきょう)、演目は様々だ。父、塚元寛二の写真が飾られており、般若の面をつけた背後にピンぼけで鐘が写っている。  〝鐘入り〟だ。卓は思った。その瞬間さえ回避すればいい。間一髪で避けるか、逆に飛び込みきるか。危険すぎる賭けだ。今辻さんならそれが出来ただろうが、卓の腕前では到底不可能だろう――せいぜい危険を察知してギリギリでかわすことしか出来ない。  だが、それで充分だ。乱拍子を始めながら卓は思った。運命を変えるにはそれだけでいい。明日、稽古をしてから能楽堂にも直接警告する。吊っている鐘がどうも不安定に感じる、と。本番までに滑車を一度点検して下さい。 「集中しろ!」叔父が怒鳴った。「舞に狂いがある。もう一度!」  強引に頭を切り替え、卓は稽古に集中した。もう時間がない。本番まで、あとたったの十日間だ。それまで芸を上げるだけ上げて、あとはもう賭けになる。運命を勝ち取るか、あれと同じ未来を辿るか、賭けしかない。  菜摘が離れた所で同時に舞っている。卓よりも、小鼓の音と息の合った動き。邦弘さんの鼓に耳を傾け、卓は目を据えた。 (やりきってみせる。必ず、過去を変えてみせる)  急かされるような、焦れるような空気をこらえ舞を続ける。誰かがカレンダーを破り、遠くに八月の文字が見えた。本番の日に赤い丸印が付けられている。 (この芝居で運命を変えてみせる)  鐘の降りる場所に走り出る。鐘が有ると想定して素早く中に飛び入り、拍子を打つ。(※所作のひとつ。踵を鳴らす)力強く。それは渾身の力で打つ宣言の音だ。絶対に!  ダン! 叔父が足を鳴らす。鐘の落とされる合図だ。その瞬間、目の前に、体の周りに鐘が降りてきた気がした。 「今のは良し!」 叔父が始めてそう叫んだ。菜摘が、邦弘さんが笑顔になる。卓はカレンダーに視線を飛ばした。 本番まで、あと十日。        十一  能楽師でも、よほどの有名人でもない限りは、前日は自分の家で寝泊りするものだ。  八月十日、吉日。早朝に起き出した卓は、最初にカレンダーを確認した。枕元の時計と(念のため、逆さにした金盥の上にセットしておいたのだ)携帯のメッセージを確認する。間違いないな、今日だよな。  いよいよ本番なのだ、卓は思った。会のメンバーたちは、全員珍しく起き揃っている。菜摘だけがまだグウグウ眠っており(昨日、興奮してひと晩眠れないよと言っていたのは、どいつだったかね…)妙子さんが言った。「頑張っといで、卓」  受験の朝みたいだな、卓は笑った。シテ方は、朝一番に公演される能楽堂に足を運ぶことになっている。開演は、一時から――予め会の人間が前座として仕舞を挟み、舞囃子などを演じてから本番になる。大トリは文字通り最後だ。一つの礼儀作法みたいなもの――  大昔、まだ卓が小さかったとき、亡くなった父が道成寺を披いたときのビデオを見せられたことがあるのを思い出した。まだ映りは悪く、画質も良くない時代の映像だ。動きの端々に、父だ、と感じさせる動作が見て取れる。ごらん卓っちゃん、邦弘さんが菜摘と並べて卓を膝の中に抱きかかえ、そう言っていた。先生は本当に立派な人だったよ。  道成寺は〝鐘入り〟のあと、シテが鐘の中で着替えを済ませ、般若になったあとは派手なアクションになる。住職を演じるワキと仲間(※助演のようなもの)たちが数珠を鳴らし、鬼女を追い立てるのだ。杖を振りかざし、柱にしがみ付いて抵抗する鬼女はとうとう川に身を投げ姿を消す――それが最後のシーンだ。開かれた五色の揚げ幕の中に飛び去って、最後にひと飛び。ダン! その瞬間幕が下ろされる。 クライマックスの瞬間、揚げ幕に飛び入る能楽師は、同時に次の世界に飛び込むのだ。それは玄人だけが見ることの出来る世界。人生の次のステップに、力強く一歩足を踏み出す。  菜摘の部屋の前を通りかかると、扉が透いていた。相変わらず、布団を跳ねて彼女は眠っている。全く、卓は苦笑した。ひょっとしてこれが最後になるかもしれないってのに…  布団を掛け、額を叩いてやる。犬みたいな寝息に、ちょっと唇を吊り上げると卓は言った。 「楽しかったよ」まるでお別れみたいじゃないか、と思った。縁起でもないけれど。でも、その言葉が浮かんだのだ。ひと月とちょっと、高校生の菜摘と再会した。どうしてかまだ分からないけれど、十年前の菜摘と時を過ごした。それだけで最高だったよ。  こじゃれたドラマなら、ここで額にキスの一つくらいはしてみせるものだ。だが、卓は立ち上がると、代わりにぼんと布団の腹を蹴ってやった。行ってくるよ。 引き戸を開ける。廊下に出て戸を閉めるとき、寝惚けた声が聞こえてきて卓は笑った。「卓っちゃん、行くの?」 うん、そっと頷いた。返事の代わりに扉を閉める。時間らしく、表で邦弘さんの車のクラクションが鳴る音がした。 時間だ。ポケットに挿した扇を握り締め、前を向く。 人生を変えに行ってくるよ、菜摘。 能楽堂は、朝から人の入りが忙しなかった。貸し出しの膝掛けを積み上げて受付嬢が枚数を確認している。まさか卓がシテとは到底思えないらしく、「坊や、そこは立ち入り禁止よ」 舞台の上で、囃子方の人間が集まり音響効果を確かめている。仕舞を舞う人間が、扇を手に切り戸口の滑り(※能舞台の右隅にある出入り口)を確認しており、卓は一瞬呆けてしまった。本当に、ここまで来たのだ―― 「本番だな」声がして卓は振り向いた。今辻さんだ。足にギプスを嵌め、松葉杖をついている。ちょっと苛ついているような、心配しているような、ないまぜの表情をした。「頑張れよ。代役、頼んだぞ」 今辻さんはいつだって舞えるよ、卓は思った。舞台の右脇、地謡座に葛西さんが座って床を摩っている。「へこみが出来てる。誰だ、こんな真似をしたのは…」  天井を見上げ、卓は滑車を確認した。舞台の天井、後方辺りに、金属製の大きな滑車が見えている。能楽堂に言ったのに、まだ古びているらしく、卓は遠目で確認すると生唾を飲み込んだ。浮いてきた鳥肌を摩る。交換はされてない、やはり、あのままなのだ。  正方形の形をした舞台の角に、四隅に一本ずつ立つ柱のうち、右奥の柱にだけ金属の環が付けられている。膝丈ほどの高さに取り付けられており、本番は、鐘を吊った紐をここに通して括るのだ。鐘後見はあのメンバーのまま。金子さんが、卓の姿に気付き舞台の上から手を振ってみせる。 「任せとけ」卓の視線に気付いていたのか笑った。「絶対に、ミスなんてしないからな」  分かってるよ、卓は頷いた。それは承知の上だ。鐘後見の人たちに、ミスなんて無かった。もちろん菜摘にも無かった。あの金具が全てのミスの原因だったのだ。誰一人気付いちゃいないようだけれど…  午後の開演までまだ四時間ある。気を落ち着けるために、表に出た卓は、ポケットに手を突っ込み駅に向かって歩き出した。開演が始まってから、シテの人間は着付けに取りかかる。スタートから、道成寺まで二時間ほどの間が有るのだ。大丈夫、大丈夫――  菜摘からメールが来ている。《ごめんなさい》タイトルが付いており、見覚えのあるへたれたパンダの絵文字がぺこぺこ謝っている。《今からそっちに行きます。卓っちゃん、頑張ろうね!》  パンチマークを一つだけ入れて返事を送ると、卓は携帯を胸ポケットにしまった。ついでにマナー・モードにしておく。全く、今起きたのかよ。溜息をついた。そういや、今の高校の受験日のときも、菜摘は遅刻して大騒ぎしたっけ。邦弘さんに校門まで車で送らせ(先生に見られた、面接官だったらどうしよう!)  駅前までの道は、狭い住宅街になっている。能楽堂と言っても、やはり能は現代ではマイナーな伝統芸能だ。人通りの多い場所に必ずしも有るわけではなく、軽工業系の工場や個人の家に混じって建設されている。まあ、この方が人が集まったって迷惑はかからないけれど…思いながら、角を曲がった卓ははっとなった。  少し先に、地図を開いた男が一人立っている。若い男で、あちこちキョロキョロしているのだ。番地を確認しているのか、電柱の表記を目で追っており――卓に気が付くと、すみません、と言った。 「この辺りにある、塚元能楽堂はどっちでしょう?」  は? 卓は思わず言いそうになった。そりゃなんてタイミングだ、塚元じゃないけれど、能楽堂は――卓たちがこれから公演を行う能楽堂は、すぐ近くに有る。相手はパンフレットを持っており、差し出された地図を見もせず卓は背後を指さした。「この道を、戻って左に」  その途端、ドスン! 出し抜けに衝撃が来た。みぞおちに一発、硬い鈍器みたいな拳が当たり視界が暗くなる。なん――言う間もなく、卓はくずおれた。足元によれかけた地図が転がったのが見えた。意識が遠のく。  よし、車に運べ。誰かの声が聞こえた。どこかに寝かされ、バタンとドアの開け閉てする音がする。 (顔を見られてないな?)  見てたって同じだ。別の声が応じる。分かりゃしねえ。指定の位置に――  そこで辺りが真っ暗になった。          十二 「卓はどうした、一体どこに行った!」  業を煮やしたように、重智おじさんが叫んだ。開演まであと二時間、全ての後見人と、スタッフが能楽堂に揃ったのだ。後見人は今朝から紋付き袴で集合している。狂言方が最後のリハーサルをしており、和やかな舞台の裏ではパニック寸前だ。 「さっきまでここに居たのに」今辻さんが、うろたえきったようにそう言い辺りを見回した。囃子方の人間は、全員が緊急で外に飛び出している。思い当たるところを、探しに行ったのだ。卓の行きそうなところ、喫茶店、本屋、映画館の関係全てに。 「なっちゃん、何か聞いてないか?」今辻さんが言った。寝坊で置いてけぼりを食らい(起こしてくれても良かったのに!)、バスと電車で菜摘が駆けつけたとき、卓はもうここには居なかったのだ。妙子さんが慣れないスマートフォンを弄りまわしている。「いかん、どうやってダイヤルするの!」  先生がそれを取り上げた。卓に鳴らしているのだ。卓っちゃんは…菜摘はポケットに手を突っ込んだ。「い、家を出る前に返事が来ました。でもこれだけで」  パンチのマークが一つ。菜摘はメールを今辻さんに見せた。これじゃなんのヒントにもなりゃしねえ! 忌々しげに今辻さんが足踏みする。まだ痛いだろうに、お構い無しで「まさか、俺が変なことを言ったから――」  違う! 菜摘は叫びそうになった。反射的に上げられた菜摘の顔を見て、今辻さんが黙る。卓っちゃんが、逃げ出したりするはずがない。万に一つでも、そんなことあり得ない。何かあったに違いないのだ。  携帯を鳴らし耳に押しつける。卓が普段コール音にしている、ロックみたいな洋楽が流れて来るだけだ。何度鳴らしても出ず、菜摘はスイッチを切った。「さ、捜します、捜しますから!」  携帯を手に、外に出ようとする。その腕を、今辻さんが引き止めた。妙子さんが据え置きのピンク電話に飛びついている。すさまじいスピードでダイヤルを回しながら、「あんたはここに居な、菜摘!」  どうして? 菜摘は目を剥いた。先生が蒼白になっている。今辻さんが菜摘の腕をずっと掴んでおり、菜摘は黙っていた。どうしたの? 今辻さん、何か言いたそうだ。何がしたいの? 《卓っちゃん、連絡下さい!》さっき送ったメールを思い浮かべた。《先生カンカンだよ、早く!》  じゃないと、代役が立ってしまう。  狂言方の人間が帰って来た。ぞろぞろと、舞台裏を覗き込み、見付かりましたか? と眉を下げる。菜摘は窓の上の時計を振り向いた。お願い電話に出て卓っちゃん!  時計の針が容赦無く進んでいく。午前十一時のアラームが、今、頭上で静かに鳴り始めた。  開演まであと二時間。  浅い夢の底に、卓は佇んでいた。  早朝のように冷たい空気。だが、陽射しは暖かく、卓の肌をほのかに温めている。まるで、冬のうんと晴れ渡った昼に、外に佇んでいるときみたいに。風はないけれど、一旦吹きつけてくれば身も凍るような寒さが訪れる――  能舞台が、目の前に広がっている。いつもとは違った雰囲気。屋外に檜舞台がどんと構えており、その前は、本物の池になっている。一張羅の舞台じゃないか、と思った。橋掛かりの横に生えている松も本物だ。  舞台の上で、誰かが舞っている。活き活きと。細身の舞い手だが、それを感じさせないほど力強い。脂の乗りきった腕で芸を披露している。  聞き覚えのある謡を耳に、(ああ、『船弁慶』だ)卓は思った。戦場で、船から船をひらりひらりと飛び移る武者の動きを描いたもの。パッと身体が飛び、キレのある音を立てて片膝を立て着地した。〝飛ビ返リ〟だ、見事なもんだ。  はつらつと、誰かは舞台の上で舞い続けている。本当に楽しそうに。面を付けていても、その下でどんな顔をしているのか分かる気がした。笑っている、微笑んでいるのだ。  舞台の奥に、見知った人の顔を認め、卓ははっとなった。金子さんだ。舞台の右横――地謡座に座っている。横に若い人たちが並んでおり、全員袴姿で謡を続けていた。  後背部に、今より少し老けた邦弘さん、大皮の近藤さんが座っている。風が吹いており、シテの着物の袂が揺れている。囃子の音も軽やかに、再び身体が宙に舞った。  橋掛かりの奥に、揚げ幕が見えている。下ろされており、誰かが風でめくれないよう内側から押さえているのだ。その隙間から、卓は二つの顔が並んで覗いているのに気が付いた。  卓だ。卓ははっとなった。あれは卓自身だ。大人になった自分が――見慣れた自分がそこに立っている。紋付袴姿で、仕舞用の扇を手にしており、舞台に見入っていた。  今辻さんが、その横で笑っている。少し落ち着きの出た顔つきで、それでも楽しくて仕方ないような表情だ。愉快そうに、膝頭をポンと扇で打ったのが見えた。  菜摘? 卓は身を乗り出していた。あれは菜摘だ。大人になった、能楽師になった菜摘。腕は段違いだが、楽しむことは、能が好きなことだけは昔と変わらない菜摘。子供の情熱をそのまま大人にしたような、未来の彼女がそこに居る。  シテが宙を見渡し、客席の中の卓を見据えた。見せ場の瞬間に、一番見て欲しい人の視線を捉えたのだ。生きている、卓は思った。生を謳歌している。見るものにも命を感じさせる菜摘の強い舞。 (卓っちゃん?)  声がした。夢の映像がよどみ、急激に卓は現実に引き戻された。 (――卓っちゃん、卓っちゃんてば!)  必死な声だ。何かを、懸命に呼びかけているような。その瞬間、卓は目を見開いた。  菜摘はバックヤードで携帯を手に呆然としていた。  舞台裏は、もはやパニック寸前だ。能楽堂はまだ開いてはいないが、ぱらぱらと、お客の姿が表に集まり始めている。今辻さんはショックを通り越して悄然としており、先生は脳卒中寸前だ。狂言方の人間もあっけにとられており、能楽堂のスタッフたちにもそれは伝わっている。 「ど――どうしましょう」と、金子さんが言った。腑抜けたような顔をしている。稀にだが、本番直前になってシテが事故に遭ったり、急病になったりして会場に到着しないことがある。その場合は、代役を立てるのだが、皆が心配しているのは別の事情だった。卓が行方不明になっただって?  囃子方の人間が、どどっと駆け戻ってくる。万一のことを考え、近くの病院に男の子が緊急で運び込まれたりしていないかを確かめに行っていたのだ。「居ません!」と、父、邦弘が言った。「ここ三時間の間に、高校生の緊急外来を受け付けた覚えはないと」  菜摘は手の中の携帯電話を見下ろした。いやに冷たく感じる。ついさっき、もう鳴らせるだけ携帯を鳴らしていた菜摘は、電波が一瞬繋がったのを感じたのだ。音楽が途切れ、沈黙が訪れる。  た――卓っちゃん? 呼びかけてみた。しかし返事はない。卓っちゃん、卓っちゃんてば!  ぷっつりと切れてしまう。それきり電源が切れてしまっており、菜摘は目をしばたいた。  卓っちゃん――動悸を抑え、無理やり深呼吸しながら菜摘は思った。何か有ったに違いない。電話からは、何の声も聞こえて来なかった。ゴオオーというような、何だか車の上みたいな音だけだ。  父がこちらに背を向け先生と話をしている。お、お父さん…事情を伝えようと近寄って行った菜摘は、父が振り向いたのに気付き、足を止めた。 「仕方ない」先生が言った。目に危機感が充満している。「限界まで探して、開始後は代役を立てる。今辻くん――」  今辻さん? 菜摘は思わず振り向いた。まだギプスを足にしている。松葉杖に身体を半分もたせかけており、歩くこともままならないというのに。先生が言った。「大至急、装束の着替えを教えてやってくれ」  菜摘は唖然としていた。通常、こんな場合だと、鐘後見の人間が優先的に代役を務めるのだ。最初のときだって、本来ならばそうなるはずだった。よほどの舞い手か、もしくは一度はこの曲を披いたことのある人。大皮の近藤さんか、先生本人か。 「菜摘、代役はお前で行く」  菜摘は目を見開いた。あんまり唐突に、事件が降ってくるとショックでものが言えなくなるのだ。そ、そんな、無理です…言おうとした菜摘の腕を今辻さんが引っ張った。 「なっちゃん、謡は覚えてるな? 下に今キャミソールかなんかは着てるか?」  あれよあれよと言う間に連れ去られてしまう。奥に錦の着物が飾られており、菜摘はその前に立たされた。  時刻は午後十二時五分。        十三  最初に目に入ったのは、白いフェルト張りの車の天井だった。  皮張りの座席に寝転がらされている。頭上にスモークのかかった窓があり、青っぽい窓のスクリーン越しに外の景色が素早く流れているのが見えた。  なん――なんだ。卓は身じろぎした。一体、何だったんだ?  肩の下に、スマートフォンが下敷きになっている。左頬を下に横たわらされており、背もたれのほうに向かって体が傾いている。車の後部座席に押し込まれており、手を上げて携帯を取ろうとした卓は、腕の自由が効かないことに気が付いた。ガムテープでがちがちに両手首を縛られている。  何でこんな所に、卓は思いながら咳き込んだ。身動きすると、胃の上の辺りが鈍く痛む。それではっとなった。そうだ、確か――  駅に向かおうとする途中、男に話しかけられたのだ。地図を手に能楽堂の位置を訊ねられた。それで、案内しようとしたら…  突然衝撃が来た。みぞおちに、撃たれるみたいなパンチが一発。  目を動かすと、後部座席の足元に、クシャクシャになった地図が見えた。一緒にパンフレットが放り込まれている。着物を着た女が鐘の前で舞う姿が描かれており、それを見た途端、卓の頭のコードが瞬時に繋がった。そうだった、本番!  座席から跳ね起きると、運転席の男が気付いたようだった。助手席にも一人、別の男が前に座っている。年齢はおつかつそうだが、二人とも目深に野球帽を被り、前を向いたままでいる。卓は言った。「あ――あんた」  すると、運転席の男が軽く笑ったようだった。斜め後ろからでも判る、あまり堅気ではなさそうな男だ。「あんたら、何なんだ?」  相手は返事をしない。車内の時計を見て、卓は息が止まりそうになった。十二時十七分。  本番は一時から開演される。卓は冷や汗が吹き出すのを感じた。最初の一時間半ほどは、仕舞や狂言の前座で飾られる。道成寺の正式な開始は二時半頃――今すぐ戻らないと! 「降ろせ!」卓は怒鳴った。後部座席から前に身を乗り出そうとする。「今すぐ降ろせ! お前ら――」 「そうはいかない」と、助手席の男が言った。運転席の男とは違って、頭の良さそうな男だ。「君には別の場所で暫く待機して貰う。ことが済むまでは」  卓はうっかり絶句した。何だって? 頭がとっさに回らなくなる。別の場所? 何がしたいんだ?  男は手の中に何かを持っている。ジリジリと音がしており、それを見て、卓は刹那にそれがスタンガンだと悟った。迂闊なことがあればお見舞いしてやる気だ。 「知ってるか」言ってやった。「誘拐ってのは絶対捕まるんだ! 日本の警察は甘くない、あっと言う間に身元が割れてお前ら揃って刑務所行きだぞ、今すぐ車を停めろ!」  すると、今度こそ助手席の男ははははと笑い出した。帽子のつばに隠れていても判る、やにさがったような表情だ。「誘拐じゃない」と言い放った。「移動させただけだ。金なんて要求もしていないよ?」  卓は絶句した。そのひと言で、全てを悟ったのだ。こいつらは――峰成会の連中だと。運転席の男は雇われ者のようだが、助手席の男は、サンダルを履いた足にタコが出来ている。何年も、板の間に座り続けて出来たタコだ。  車のスピードは結構な速度が出ている。飛び降りることも出来ない、窓を開けようにも手が固まってる――卓は素早く辺りを見回した。何か武器になるものは? とにかく、一刻も早く会場に戻らないと。  菜摘、卓は思い出し息を吸い込んだ。でないと過去がもと通りになってしまう! 「倉岳会長の奴らだな」卓は言ってみた。当たり、背中の動きがそう卓に教える。大方、会場に戻れないほどの距離まで引き離して、卓を置き去りにするつもりなのだろう。もしくはどこかの廃工場に放り込むか。卓はパニックで血が逆流しそうな気がしてきた。早く――早く会場に戻らないと!  無茶苦茶に腕を動かし、ガムテープを千切ろうとする。たかが布なのに頑丈で、卓は大暴れした。離せ! 離せ!  うるさい! 運転席の男が怒鳴った。日焼けしたこめかみに青筋が浮いている。「ガキを黙らせろ! もう一度寝かしちまえ!」  助手席の男が身を乗り出そうとする。それを思い切り蹴っ飛ばし、卓は叫んだ。「車を停めろ!」  その瞬間、コロリと座席に何かが転がってきて、卓は動きを止めた。後部座席に、一緒に放り込まれていたのだ。四角い小さな箱で、どこかで見たことのあるものだ。銀行か何かで貰える景品みたいな… 『あたみや』文字が箱に印刷されている。料亭じゃないか? 卓はそれを凝視した。確か中身は切子風のショット・グラスで、今辻さんが菜摘にやっていたのだっけ。来店記念サービス。  何かが卓の中に浮かんできて、卓は動きを止めた。あの料亭は――確か予約が必要だ。結構な高級感で、事実とんだ値段も吹っ飛ぶ類の店。こいつらも、そこに行っていただって?  最初のとき、どうしたっけ? 卓は思った。今辻さんは、酒に失敗する癖があった。それで怪我したのを知っていた。いつそうなるのかも卓は知っていた。だから、あのとき、わざわざ警告したのだ。大安の日に別の予定を組み込ませて。  なのに過去は同じことになった。まるで、運命はしかるべくして予定に乗っ取り進んだみたいに。チンピラに絡まれて、足を怪我することになった。店を変えても、時間や日付を変えても…… (二人組の、男だったよ)  何かが卓の頭に循環して、一周して帰ってきた。それは明らかな確信。信じられないことだが、許しがたい事実。卓は呻くように言っていた。「お――お前らなんだな?」  何が? 助手席の男がそんな顔をした。今辻さんは、必然で、怪我することになっていたのだ。偶然や事故なんかじゃなく。 「今辻さんの、足を潰したのはお前らなんだな?」  そしてその結果菜摘が死んだ。鐘に当たって、扇を最後まで握り締めながら。そして今またその過去に直進しようとしている――卓が居ない今、代役を務めさせられるのは菜摘と決まっているのだから!  血が沸騰した。卓の中で、一挙に許容範囲を超えて何かが爆発した。それは卓を跳び上がらせるほどの勢いで発破をかけ突き動かす。  させるもんか! 二度とそんな未来にさせてやるもんか!  ありったけの声を上げ、卓は後部座席から飛び出した。後先考えずに運転席の男に掴みかかる。あっと声がして、助手席の男が卓を引き剥がそうとした。スタンガンが足元に転がる。  車が蛇行し側壁にぶつかった。ハンドルを掴み思いきり左に切ってやる。どこかで悲鳴が上がり、視界がぐるうりと変な感覚を伴いながら半回転した。ガシャン! 音がしてフロントガラスが木っ端微塵になる。車がバウンドし、一度上を向いたと思ったきり下に向かって転がりだした。 「うわぁああ!」  ザン、と音がして車は停車した。水が卓の顔に引っかかる。目が回っており、上手く身体が動かない。ややあってから、ハンドルを放すと、卓は後部座席に戻ってドアを押し開けた。ドブンと足が水の中に落ちる。  河川敷だ。卓は首を捩りそう悟った。住宅街のわきを走る河川敷。狭い川を背に、斜面状の堤防がコンクリートで緩やかに舗装されており、その上のガードレールが引きちぎれて大穴が開いている。人が集まり始めており、買い物袋を下げた中年の女がしきりと叫び声を上げていた。「救急車! 救急車よ!」  眩暈を堪えると、卓は斜面を這い上がった。千切れたガードレールの先端で手首の布テープを切る。どう見ても縛られている卓を野次馬たちは凝然として眺めており、卓は叫んだ。「誘拐です、警察を!」  両手を自由にして、頭を振る。集まっている人の腕時計を盗み見て、卓は今が十二時半過ぎだと知った。とっさに走り出す。 「僕、どこに行くの!」  卓は首を捩ったきりその場をあとにした。ここは何処だ――標識を探しながら走り回る。駅はどっちだ、どう帰ればいい!  がむしゃらに走りながら、ポケットに手を突っ込む。スマートフォン、忘れてた。半ばパニックになりながら卓は駅に向かって全力疾走し始めた。        十四  電話は一発で相手が出た。  どうにか最寄りの駅に駆け込み、電車に飛び乗った卓は真っ先に菜摘の携帯を鳴らしたのだ。コール音一回で相手が出る。「もしもし、菜摘!」  た、た、卓っちゃん? 菜摘はうろたえたようだった。「どうしたの! 今どこに居るの、ねぇ!」  途端に電話の声が変わる。叔父だ、後ろから携帯をひったくったのだろう。左から右に耳に突き抜けるような大声で、「何をやっとる、馬鹿者――!」  手短に事情を説明すると、叔父は硬直したようだった。峰成会の人間に連れ去られて、今は別の場所にいる、と。大分離されたらしく、京都府の県境で伊根とは正反対だ。どんなに急いでも戻るのに三時間ちょっとはかかる。今辻さんが後ろで怒鳴ったのが聞こえてきた。「畜生、あいつら! 警察を!」 「とにかくすぐに戻れ」と、叔父は素早く言った。「出来る限り間に合わせろ。こちらは念のため代役を立てる!」  菜摘に代わって下さい、卓は叫んだ。がさごそと音がして、菜摘が出る。「も、もしもし卓っちゃん?」  菜摘、卓は目を閉じそうになった。立っているらしく、声が半分うわずっている。お絞まりです!背後か(※能の作法の一つ。帯締めの際ことわりを入れる)ら声が聞こえてきた。着付けをしている。本番のための装束を着付けているのだ。 「き、気を付けろ!」どうにか言った。囃子方の音合わせの音が聞こえてくる。本番が近付いている――卓は背筋が凍りつくような気がしてきた。客席の微かなざわめきが流れてる。 「鐘に気を付けろ、菜摘!」卓は叫んだ。「タ、タイミングはちょっと遅いくらいでいい――すぐに戻るから待ってろ!」 「うん!」  電話が切れてしまう。電車がトンネルに飛び込み、卓は電話を額に押しつけて祈った。菜摘――クソ、さっきから変に笑顔が思い浮かぶのは何でなんだよ? (頼む、頼むから間に合ってくれ!)  能楽堂は、駅から離れた所にある。電車を変え、乗り継ぎに乗り継ぎを重ね、タクシーを飛ばしながら卓は走った。時刻は淡々と過ぎていく。どんなに祈ったって願ったって少しも考えを変えちゃくれない、この世で一番冷酷な運命の判事だ。  あれからかれこれ二時間、卓は心臓が口から飛び出しそうだった。きっと今血圧計で図ってみたら、目盛りがブッ飛ぶか測り直しを余儀なくされていただろう。渋滞に引っかかり、タクシーを降りて自転車を盗んで次の駅までスッ飛ばす。携帯を手に、卓はひたすら祈り続けていた。  じき、道成寺が始まる頃だ。最初の仕舞が済んで、休憩を挟み、本番の開演が始まる。リハーサルの目安では二時四十分頃――卓の携帯のデジタル表示が今それに切り変わったところだ。  問題は鐘入りだ。卓は奥歯を強く噛み締めた。鐘入りに間に合いさえすればいい。鐘を吊るのにまず十五分ほど、そこから開演が始まって、見せ場のシーンまで一時間ちょっと。四時頃に鐘入りのシーンになる。それにさえ間に合えば! 身を乗り出し、携帯で渋滞を検索する。残された猶予はあとわずか。爆発しそうな焦りを堪えながら、卓はタクシーの後部座席に縮こまるようにして座りなおした。  その頃――  菜摘は橋掛かりの上に立っていた。予定が少しだけ早まり、本番がいち早く始まったのだ。今辻さんは緊張で揚げ幕の裏にしがみ付いている。先生はといえば、舞台の上で蒼白を通り越して白魚みたいだ。  卓っちゃん、菜摘は思った。とうとう本番に間に合わなかった。今頃必死で走っているのだろう。面で視界が極端に悪いのが幸いだが、これが本番だと思うと、それだけでもうプレッシャーで押し潰されそうだ―― (いいかなっちゃん、練習だと思ってやれ。卓と一緒に稽古してたんだろ? それを舞台でやりゃあいい)  そんなはずがないよ。菜摘は面の下で唇を噛み締めた。これは本番なのだ。この舞台に上がった限りは、絶対に舞い通さねばならない。客席に受け入れられるだけの演技を披露せねばならない。それが本物の――能楽師なのだから。  卓っちゃん、菜摘は扇を持つ指先に力を入れた。卓が居ない今、この舞台を支えるのはもう菜摘しか居ない。卓っちゃんみたいに上手に舞うことは出来ないけれど、代わりを勤めてみせる。せめて最後までやり通してみせる!  鐘が揺れている。さっき吊り上げたときの振動が、まだ残っているのだ。鐘に気を付けろ、卓の言葉を思い出した。すぐに戻るから、待ってろ菜摘! 何だか必死みたいな口調だった。菜摘は思った。まるで、何かを訴えようとしているみたいな… 鼓の音が始まる。舞台に進み出、扇を開きながら菜摘は緩やかに舞を始めた。  車が急停車したとき、卓は前の座席の背もたれに叩きつけられた。タクシーを急がせるだけ急がせ、能楽堂の近くまで走らせたのだ。少し先に渋滞が出来ており、玉突き事故でもあったのだろう。車が三台ほど路肩に寄せられている。検証車が来ておりただでさえ狭い道幅を塞いでいる。  後続車が、どんどん詰まり始めている。車線の片側が完全に塞がっており、卓は思わず舌打ちした。もうちょっとだってのに!  時刻は、もうじき三時半を過ぎるところになる。ユーターン出来そうな空間もなく、警察が赤い光るコーンを道路に立て始めている。「兄ちゃん、ごめん!」運転手が振り向き怒鳴った。「ここからはもう走った方がいい!」  なけなしの五千円札を放り出し、卓はドアを蹴破るようにして外に飛び出した。能楽堂は、ここから走って二十分くらいの距離のところだ。兄ちゃん、お釣り! 後ろで叫ぶ運転手を無視して卓は再び走り出した。菜摘――間に合ってくれ!  色々なことが思い浮かぶ。咳き込みながら卓は走った。関係ない思い出ばかりだ。子供の頃、潮干狩りに行ってカニに指を挟まれた菜摘が大泣きしたこと。小学校の帰りに菜摘のランドセルを蹴って泣かせたいじめっ子を追い回してひっぱたいたこと。セーラー服を着て大喜びしている菜摘に皮肉を言って妙子さんに叱られたこと。星の数ほどの思い出がひと束になって脳裏を駆け巡る。  なんでだよ! 卓は首を振った。縁起でもない。菜摘は生きるんだよ、大きくなって、いつかは本当に能楽師になって舞台に立つんだ。道成寺を披いて俺が鐘後見をする。あいつの命は俺が今預かってるんだから!  あの夢に見た、明るい舞台ではつらつと舞う菜摘の未来は必ず来るって決まってるんだ!  能楽堂の看板が見えて、卓は息を飲んだ。呼吸するのももう忘れている。雑居ビルの屋根の向こうに灰色のホール状の建物が見えており――それを見た瞬間、卓は意識がまっ平らになっていくのを感じた。        十五  能楽堂の受付は、閑散としていた。ほとんどの観客がホールに吸い込まれ、係の人間さえもホールに向かっているのだ。表に祝いの花が飾られ、『響円の会 第二十一回公演会 塚元重智会長殿』木札が飾られている。 「ぼ、僕! どうしたの?」  トイレの方から、受付係であるらしい女性が出てきた。汗だくを通り越して、鬼気迫る表情の卓を見てあっけにとられる。「チケットは、もう受け取れないのよ」と困惑するように言った。「もう終わりに近いから…」  その途端、卓は駆け出した。女性の止める間もなくホールの扉を開ける。ちょっと! 声を耳に中に駆け込み、卓は凍りついた。落雷みたいな衝撃が地面を伝って卓の身体を這い登る。  乱拍子が、最後に差しかかっている。相変わらず、見事な舞。卓よりもずっと邦弘さんと息の合った動きだ。キリリと身体が客席を向き、そして今一度、鐘の――客席に背を向けて、舞台の奥の方へと向き直った。扇で頭の烏帽子を叩き落とす。この次の謡は、 『思えばこの鐘うらめしや!』  卓は走り出した。どやしつけられたみたいに。客席は、舞台の正面と、その左横の扇状の中(なか)正面、舞台の左横になる脇正面になっている。脇正面横の通路を駆け下り、最後の謡が始まるのと同時に卓は叫んでいた。「止せ、菜摘―――ッ!」  スローモーションみたいに。そこからあとは時間が止まっていた。鐘に向かって白拍子が直進していく。カキン、聞き覚えのある金属音がどこかで響いた気がした。鐘後見たちが、紐を手に踏ん張りながら唖然としている。走ってくる卓の姿を認め凍りついている。  ひと息に卓は舞台に飛び上がった。菜摘が気配を感じ、鐘に向かいながらこちらを振り向いた。鐘の真下に近付いている。その瞬間、卓は力任せに飛びかかり彼女の体にタックルした。  あっと声が上がり、卓は舞台の上に転がった。ふっと視界が眩み、一瞬の間を置いて衝撃が来る。ドーンと音がして、床板が跳ね上がり、頭がついでにバウンドして床に叩きつけられた。空白が訪れた。 「………」 気が付くと、卓は菜摘を抱えたまま舞台の上に転がっていた。つま先から二センチと離れていないところに、巨大な鐘がどんと居座っている。割れた金属の滑車が転がっており、全身が痺れて上手く動かない――卓は息を吹き返すと無理やり起き上がった。 菜摘は仰向けになっている。あのときと同じだ。身じろぎもしておらず、卓は叫んだ。「菜摘!」 「はあい…」  間の抜けたような、返事が一拍置いてから返ってきた。面が外れ、呆けたような菜摘の顔が現れる。菜摘を助け起こし、卓は首を巡らせた。邦弘さんが鼓を放り出し駆け寄ってくる。 「菜摘! 卓!」  叔父が腰を抜かして這うようにこちらに近付いてくる。今辻さんが、松葉杖を放り出し片足で跳ねながら揚げ幕から飛び出してきた。妙子さんが白目を剥いて床に座り込んでいる。  客席は、パニック状態だ。悲鳴が上がり、受付嬢までもが客と一緒になって走り回っている。古今東西、こんなに騒がしい能楽堂は見たことがないほどの騒動で、ぐるりを見渡し卓は思った。上手く言葉が出てこないのだ。怪我ないか? 菜摘。 「卓っちゃん…」 卓は頷いた。菜摘はまだ黙っている。ややあってから、ぽつりと囁いた。 「鐘入り、失敗しちゃった……」 むっくりと起き上がった菜摘を抱き寄せる。暖かい、血の通った頬。生きているのだ。その頬に、構わず自分の頬を押しつけると、卓はやがて安堵で目の前が霞んでいくのを感じた。 ***  蝉の声がして、卓はぼんやりと目を開けた。油蝉の声が、うるさいくらいに辺りに響いている。今年初の蝉が境内でとうとう目を覚まし始めたのだ――  鳥居を背に、卓は横になっていた。階段の上に腰掛けるような格好で、柱を背もたれにしている。日光がきつく、卓は起き上がるとそっと目を擦った。いつの間にこんな所で眠ってたんだっけ…  太陽の光がカンカンと照りつけている。それを見た卓は、思わずはっとなった。日焼けは厳禁なのだ、そう思いかけてから、苦笑してしまう。違う、夢だ。おかしな夢を見たもんだ。随分長くて、変てこな夢。十年前に戻って菜摘や叔父たちと過去をやり直しただって?  ありっこないよ、と思った。故郷に戻って、こんな所で居眠りしていたからこうなったのだ。そんなことはあり得ない。十年前の時を変えて、菜摘を、何もかもを――取り戻せるだなんて……  ポケットに手を突っ込み、小銭入れを取り出した。不思議なことに、幾分気持ちがすっきりしている。さあ、さっさと神社にお参りを済ませてしまおう、と思った。この次は、思い切って墓参りに来てみようか。菜摘も、きっとそれを望んでる。ずっと放りっぱなしにしていたことを謝ろう。  目の前に影が降りている。観光客? 気付いて立ち上がろうとした卓は、息を飲んだ。 「卓っちゃん!」  目の前に、女性が立っている。すらりと伸びた身長に、ぐんと大人びた身体つき。長い髪を首の横でよじるようにして束ね、階段の途中に佇んでいるのだ。卓と目が合うと、やっぱり、というような顔をした。「やっぱりここだった。先生、探してるよ?」  卓は唖然としていた。菜摘だ。十年経って、様子もまるで違っているけれど、優しい頬の線と真っすぐな瞳はそのままだ。十年の時をまたいで、居なくなったはずの彼女が、そこに立っている。 「日焼け厳禁だよ」と怖い顔をした。「〝卓が本番間際に消えるのは二度目だ〟って。さあ立って!」  腕を引っ張られ、卓はうろたえながら立ち上がった。ほ――本番て? キョロキョロと辺りを見回しながら訊ねてみる。「な、菜摘、なんかあんのか?」  夢の続き? そう思った。菜摘はきょとんとしている。随分美人になったけど、まだ少し昔のままみたいな雰囲気。菜摘はぷっと吹き出した。寝惚けてるの、と言う。鳥居を指さし「道成寺だよ」 卓は今度こそ愕然とした。それはさっき見たあのポスターだ。赤頭(あかがしら)になり、般若の面を被り舞う白拍子の姿。『道成寺』重々しい文字が躍っており、その下に演者の名前が書き連ねられている。〝シテ・塚元卓〟卓は思わず飛び上がった。 じ――冗談だろ! 言いそうになった。菜摘は背後からそれを覗き込んでいる。鐘後見・今辻彰彦、野守菜摘、葛西新介――卓は目を見開いた。 「任せて」菜摘が力こぶを作る真似をしてみせた。「絶対成功させてみせるから。卓っちゃんの命は、預かりましたよ!」  卓は呆けていた。何だか、実感が沸いてこない。当然だが、何より信じられないのだ。あの――夢か現実かも判らない中で、十年前に戻り、菜摘と過去をやり直したことを。運命を、強引に動かそうと奔走したことを。  無理だよ、卓は首を振った。練習したのは十年前だぜ? 第一、頭がついていかないのだ。謡も所作も覚えているかどうか…  目の前に、扇が差し出される。本番のとき、能楽師が手にして舞う〝披き扇〟だ。牡丹に胡蝶と弓月(ゆんげつ)の模様。道成寺を披くときに用いられる玄人の証し。 「出来るよ」菜摘が笑った。「卓っちゃんなら」  そのとき、卓は遥か十年の時を経て、運命がひと度巻き戻され、しかるべく姿で再び時を刻み始めたのを感じた。体が、不思議なことに舞を覚えている。所作を、謡を、能の全てを。 扇を受け取る。それに応じるように、菜摘が微笑みながら頷いてみせた。 舞ってやろうじゃないか、と思った。                                                                           了
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