11人が本棚に入れています
本棚に追加
蜜樹
目覚めた柘榴は、圧迫感のある黒い霞の中にいた。また知らぬ間に遠くに飛ばされたのかと落胆しながら辺りを見渡してみると、丸まった背中が目に写った。よく見ると、少年が膝を抱えて俯いていた。
ぼさぼさの髪を無造作に一つに束ねた少年の前方で、彼岸花が一輪咲いた。ついでいくつも同じ紅が咲く。少年は顔を上げ、彼岸花を見つめた。よろよろと力無く立ち上がり、助けを求めるような仕草で彼岸花の元へ向かう。しかし間に見えない壁があるのか、伸ばした手は宙でぴたりと止まった。
どこかに隙間がないかと、少年は見えない壁に両手のひらを押し当て懸命に探った。しかしいつまでも進展はなく、少年の手は花に届かない。
「さっきからなんだい、あのみすぼらしい子は。じぃっと遠慮もなしに見てきて気味が悪いったら」
彼岸花の一つが、子供を嫌がるように大きく揺れた。呼応して他の彼岸花達も揺れる。
「あれはほら、他所から来たあのどうしようもない男の子供よ。女と見ればちょっかい出して、どこに行っても喧嘩沙汰を起こす厄介者」
「ああ、そいつか。恥ずかしげもなく悪事を重ねる愚か者。あんな男の血を引く子供も、どうせ同じような出来損ないなんだろうねぇ」
「まともな精神を持ってたら、あの男の嫁や子らみたいに今頃耐えきれず生きちゃいないから、ねぇ。あの子供も、父親と同類よ。ろくでなしよ」
「豚の子供は豚。クズの子供も所詮クズ!」
あはははは!
彼岸花達は愉快そうに仰け反って嗤った。少年はとぼとぼと元の場所に戻って膝を抱えると、小刻みに震えながら、声を押し殺して泣き始めた。構わず彼岸花達はいかに少年の父親が悪人であるかを声高に語り、罵っては嗤う。
彼岸花達の言葉は全て少年に刺さった。一方で、少年の啜り泣く声は、彼岸花達には欠片も届かない。
「そうだ!」
彼岸花の内の一つが、いい事を思いついたと言わんばかりに声を張り上げる。
「あの男には皆うんざりしてるけど、仕返ししたって効きやしないどころか、逆効果でしょう?」
「余計に喚いて塀を壊してきたり、庭木を枯らされたりするねぇ」
他の彼岸花が呆れたように言うと、声を張り上げた彼岸花は楽しそうに揺れる。
「だったら、身代わりに責任を取ってもらえばいい」
一瞬の間の後、淀んだ愉悦がざわざわと空気を逆立てた。黒く塗り潰された波が四方八方に広がるように、低く唸る嘲笑はすぐさま一面を染める。壁は消え、彼岸花達が少年を囲った。
あはははは!
彼岸花が少年の上空から幾本も降ってきた。それらは矢のように少年の皮膚を破って頭や背、腕に突き刺さり、狂ったように嗤った。少年は苦しげにのたうち回り、必死に彼岸花を抜く。その傍らで、もっと刺せ、やっちまえ、脚も刺してもいでしまえ、と野次が飛ぶ。
そうしている内に彼岸花の毒が回ったのか、少年はうう、うう、と呻き声を上げながら、両手で首を搔き毟り始めた。涙も唾液も絞り出して、胃から塊として吐き出したのは、真っ赤な花弁だった。少年は花弁を吐き続け、彼岸花の悪心に苦しめられては、じたばたともがき暴れる。
少年を助ける者などいなかった。
彼岸花達は直接手を出してくるか、遠巻きにしていい気味だとほくそ笑んでいるか、無関心か。そのどれか。
血の通った人間など、いやしない。
「……」
数度のまばたきの後、柘榴は時間を掛けて深呼吸をした。酷い夢を見た。幼い頃の自分は、今もなお夢で見たように苦しんでいる。
蜜樹と出会う前の記憶が生んだ夢だった。この村が妖怪だらけの地獄だと言われる所以を、あの頃は嫌という程食らっていた。脂汗が滲み出る。吾緋村に義理人情などない。妖怪の巣窟と呼ばれるに相応しい、人でなし共の溜まり場だ。
顔か天賦の才か、あるいは金か。特別秀でたものさえあれば、利用価値があるとして歓迎される。自分は何一つ持っていなかった。加えて己を守る盾となる言葉も、力も、知恵もない子供だった。
母も兄姉も死んでしまって、残った肉親は、家族の死の原因になった父親だけ。生まれてしまったが運の尽きとすら思っていた。
家の中も外も地獄だった。村人達は日常的にいがみ合い、嫉妬で他人を蹴落としては嘲笑い、鬱憤が溜まれば弱者を踏みにじって晴らす。そんな地獄を窘める者は一斉にやり込められて、早々に村から去るか、自ら命を絶つまで追い詰められるかのいずれか。
自分は蜜樹に生かされたようなものだ。蜜樹がいなければ、自分はとっくに。
「……」
天井を見上げながら、溜息をついた。
自死したら、蜜樹が悲しむ。だからどんなに辛くても、生きる事を諦められなかった。そうして必死に生きて、もがいて、最終的に他人から富を奪う人殺しに落ちたのだ。
当たり前に明日を迎えると思っていた人間から迸る熱い血の生臭さ、死への恐怖に見開かれた目、道連れにしてやろうと掴みかかってくる血塗れの手の凶悪さ。慣れない頃はそれらに耐えきれず、胃液を吐いては悪夢に叫び、死人の幻影に怯えて盗品の刀を振り回した。
それも、吹っ切れてしまった。蜜樹の知る自分はもう、どこにもいない。離れ離れになってから十数年が過ぎている。
傷つくばかりで刃向かえなかった頃の小さな自分と、哄笑しながら標的を仕留め、拷問するのもためらわなくなった自分では、体格も身のこなしも違う。中身の変容に伴って、顔つきも酷く変わってしまったように思う。
自分らしく生きる為に、殺しを繰り返す。ついには友人が優しく守り続けていた存在さえも葬った。己の心の解放を求め、惰性で生きて、足元に広がるのは罪と血の海。こんなに醜くなった自分を、蜜樹には見せたくなかった。
最初のコメントを投稿しよう!