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ある日の夜。柘榴は布団の中で目を覚ました。ふあっと大きく欠伸をして目をこする。肺に滑る冷気は清く、さざなみのない湖面のように淑やかだった。鼻につく異臭がない空気を屋内で吸うのは、いつぶりだったか。
「……どこだ、ここ」
小声の寝言に近い柘榴の問いに応える声はなかった。元々返事を期待していなかった柘榴は、自力で居場所を特定しようと試みる。しかし寝ぼけた頭で得られるのは、やけに上等な布団の寝心地の良さくらいなものだった。
濃い眠気のせいで視界はぼんやりと霞んでいて、まるで役に立たない。
――酒が見知らぬ土地に俺を連れていったか?
柘榴は再びあくびを一つ放った。どうにも眠気が重い。酒を飲みすぎた時はいつもこれだ。目が覚めても、しばらくは頭がなかなか回らない。
――つっても、このまますぐ二度寝するのもな。
視界が溶けていても分かる程、夜闇はいまだ深い。朝の予兆すらない中途半端な時間に目覚めてしまった。
せっかく雨風が凌げる屋内にいるのだし、ここは大人しく寝ておけばいい。普段ならためらいなく寝るところだが、何故か妙に胸騒ぎがした。
「……」
柘榴は布団から腕を出し、袖をまくった。鳥肌が立っている。そこはかとなく感じる整然とした空気が、鳥肌の鍵になっているらしい。
整いすぎているのは訳あって苦手だ。だというのに、こんな場所で眠っていたのは何故なのか。経緯が丸々抜けている。
はっきり覚えているのは山際の夜道だ。夕暮れ時から酒場に入り浸り、名前も知らずに酒を酌み交わした飲んだくれ達と別れて外に出た。その時には日は落ちて、月が皓々と輝いていた。
でたらめな歌を空に聞かせながら、踊るような足取りで砂利道を歩いた。わざと人通りのない山際を選んでいた。
いかにも酔っ払いの悪ふざけといった風情で、手拭いを女人のように吹き流しにして、髪と顔を隠しながら右へ左へフラフラと歩いた。追い剥ぎ達が警戒せず、容易く仕留められる獲物だと勘違いするように。
闇の深い藪には大抵、下種がいる。御しきれない色欲と支配欲に狂って娘らを襲うような下種だ。それらは酔っぱらいが通れば金を奪い、ついでとばかりに殺して藪に捨てる。
来るなら早く来ればいいと思っていた。徒党を組んで娘を襲うような輩は一等嫌いだから、刀の錆に出来ればよし。もし運悪く殺されてしまったら、その時はその時だ。
この身に宿る命は、人としての性に逆らう事しかしやしない。年端も行かない子供の頃から他人の血にまみれてきた自分は、きっと骨の髄まで真っ赤っか。
「こんなものが欲しいなら、とっとと奪ってしまえばいい!」
闇に向かって吠え、腹から笑った。覚えているのはそこまでだ。意識が途切れる間際、頭でも打ったのか視界全体が赤くなった気はするが、何にせよこの部屋に辿り着いた記憶はない。
記憶を辿っている間に視界がやや鮮明になり始めた。辺りに視線を走らせる。壁も柱も煤汚れのないきちんとしたもので、棚の上は小綺麗に整っている。
布団から饐えた臭いがしないから薄々勘づいてはいたが、やはりここは自分で選んだ宿ではない。
金をつぎ込むのは博打や酒、花街の娼館くらいなもので、寝泊まりはいつも安宿で済ませている。背伸びして高級旅館の一室を借りた事もあったが、どうにも性に合わず、その日はろくに寝れなかった。
贅沢な宿というのは、建築物から掃除の一つに至るまで黄金の風を薫らせる質を提供し、客人に心尽くしのもてなしをする。それが肌に馴染まなかったのだ。
「あの」柘榴、と持て囃されるようになるまで、どれほどひもじい思いをした事か。丁寧な奉仕に慣れているはずがなく、気が浮ついてしまう。それに、あまりに充実した環境下にいると、己が培ってきた常識より上位の空気に巻かれるようで、疎外感を覚えるのだ。
そして何より念頭にあるのは、幸福な人間と揃う程に己を甘やかす事を許さない、罪の意識だった。
かつて自分は、殺してはいけない人を殺してしまった。唯一にして最大の罪悪感は、今も日々、心臓に重い痛みを走らせている。
「……」
自分に対する嫌悪感が、ふつふつと湧き上がるのを感じた。鋭く舌を打って、柘榴は考える事をやめた。
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