ホットケーキ・オン・サニーサイド

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ホットケーキ・オン・サニーサイド

「レイ、何にする?」  今日は田畑の仕事は休みの日だった。田畑は朝からペットのレイの部屋に入り浸って、休日を満喫していた。  もうすぐ午後三時。  この部屋に時計はないが、ちょうどレイの気まぐれな腹時計がぐうと鳴ったところだった。おやつの時間にしてもいいだろう、と田畑はペットの体調を預かる飼い主らしく判断した。  レイは日中、ほとんど薬で寝ている。だからおやつをとるような時間に起きていることはめったにない。だからこそ、レイはおやつの時間を特別なものとして楽しみにしていた。 「なんでもいいの?」 「無いものは買ってくるから」 「……じゃあ、家にあるのがいい」  田畑の休日はレイにとっても貴重なものだ。少しでも長く一緒に居たいがための無邪気な提案に、田畑も表情をほころばせる。 「うーん、ホットケーキならできる、かなあ」 「! それがいい!」  レイの飛び付くような返事で献立が決まった。 「それじゃ、いいこで待っていてね」  しかし、そう言って部屋を後にしようとした田畑に、レイは。 「……俺が作ろうか?」  と、ぽつりと言った。  その一言に、田畑はぴくりと反応する。 「何で、そう思ったの?」 「……わかんない」  レイ自身も、口をついて出た言葉の理由はわからないようだった。だけど、もやもやと胸が切ないのだ。何かを思い出しそうで、それがレイの気分を悪くした。 「だめだよ、レイ」  田畑に言われてはっとする。田畑はにっこりと笑って、レイの頭を撫でてやった。レイの中の思考がかき混ぜられたように散り散りになって、ぼんやりとしていく。 「思い出したって、何もないよ」  そう言われて、レイはそれらを思い出すのを諦めた。 「そう、なのかな」 「そうだよ……焼き上がったら起こしてあげるね」  どっちにしろ、ホットケーキが焼けるには時間がかかる。レイは潔く目を瞑ってしまうことにした。  田畑は、レイの作ったホットケーキを食べたことがある。  ただし、その時のレイはまだ「レイ」ではなかった。厳密には、田畑も「田畑」ではなかった。  学生街にある喫茶店。  田畑がそこを訪れたのは全くの偶然だった。仕事の関係でたまたま通りかかった。そしてたまたまそこに「彼」が居た。  彼の他に店員は年のいった店主が一人。ほぼ彼だけで切り盛りしているようだった。 「お昼は、お済みですか」  彼は田畑のテーブルにメニューを置いたあと、ランチセットの説明をしだした。 「これを頼むと飲み物が百円引きになります。サンドイッチとスパゲティと、ホットケーキが対象ですね」 「そ、そうですか」  やけに親身な彼に、田畑は一瞬戸惑ってしまった。メニューを指差しながら、時々視線を上げてにっこりと笑う。その時はただ、客商売に向いている子なのだと思った。 「サンドイッチと、アイスコーヒーを」 「はい、ありがとうございます!」  彼は揚々と伝票を持って去っていった。出されたサンドイッチは、ハムとマスタード、絞ったキュウリのサンドと、具がごろごろしたタマゴサンドで、美味しかった。  店主は田畑が居る間ずっと、カウンターの隅の方で新聞を読んでいたから、彼が作ったのだろうと思う。彼がサンドイッチの皿を置いて去ったあとも、静かで奇妙に居心地のよい店内が印象的だった。それから田畑は、近くに寄る際にはこの店を利用するようになっていった。 「ホットケーキはいかがですか?」  田畑が三度目にこの店に来たとき、彼はメニューを差し出しながらそう言った。 「自分で言うのもなんなんですけど、評判いいんですよ。甘いもの、お嫌いじゃなかったら」 「……君が焼くのかい?」 「はい!」  彼が胸を張ってそう言うので、田畑もその自信に賭けたくなったのだった。 「じゃ、ホットケーキ一つ。君を信じるよ」 「ありがとうございます!」  伝票を持っていったあと、彼が店主に呼ばれるのが見えた。  そして奥の方から、大声で何かを注意されているらしい声が聞こえてきた。  それからホットケーキが出てくるのには、十五分くらいかかった。彼は平謝りしていたが、ホットケーキは美味しかったので、気にしないことにした。  田畑が店に寄ったとき、レイが居ない日は無かったが、レイと店長の他に店員が居る日はあった。  そんな日は、注文を取るのはレイ以外のことが多かったので、田畑はレイに会えないことを少し寂しく感じていた。でも、ホットケーキはいつもレイの味だった。それだけで、田畑の心に火が灯るようだった。  田畑が最初にこの店に来たときから、どれだけ時間が経っていただろう?  それは、突然訪れた。  田畑が店のドアを開けると、開店中のはずなのに薄暗かった。そして唯一明かりが漏れるキッチンから、怒声が聞こえる。田畑がただ事でない雰囲気を感じながら立ち尽くしていると、キッチンの入り口にかかる暖簾の下から、彼が飛び出してきた。  彼は、泣いていた。  それでも客である田畑を認めると、しゃくり上げながら「いらっしゃいませ」と言おうとして――それも言葉にならない。そこに、 「もうクビだ! 出てけ!」  店長の叫びが響いて、彼は飛び上がる。そしてあわあわと田畑に頭を下げてから、彼は店から出ていった。  何が起こったのか理解しないうちから、田畑は彼の味方であった。  田畑が彼を追って外へ飛び出すと、彼の背中が見える。田畑は日頃の運動不足を呪いながら、走り続けた。  ある川沿いの道で、田畑は彼に追い付いた。走り疲れてとぼとぼと歩く彼の肩を叩くと、彼は驚いた様子だった。 「すみません。追いかけるの、大変だったでしょう」 「僕はいいんだ、それより……」  田畑は彼が事情を説明してくれないかと、淡い期待を抱いていた。田畑はただの客で、彼の問題に口を突っ込む筋合いは無いことは、痛いほどわかっていた。  それでも、彼の力になりたかった。  彼は沈黙に耐えかねたのか、小さな声で語りだした。 「……店長が、お金を取っただろうって」 「君がかい?」  田畑は信じられなかった。あんなに一生懸命働いていた彼を疑うなんて。 「そうです。俺以外にいないって」 「でも、他にも人はいたじゃないか」 「みんな、俺が怪しいって言ったそうです」 「……ひどいな」  田畑の端的な感想に、彼は困ったように笑った。 「でも俺、やってないんですよね」  彼は握りしめていた手を開いた。ぐしゃぐしゃの伝票が収まっていた。 「なんでかなあ、何で俺、うまく行かないんだろう……」  彼の瞳から、また大粒の涙が零れる。 「みんなと仲良くやりたくて、店長に認められたくて、頑張ってたのに。何でみんなの邪魔になっちゃうんだろう」  田畑は言葉を失くして、それを見ていた。  彼は何を失敗したのだろう。  田畑は事の詳細を知らない。でも、とても彼が悪いようには思えなかった。彼が他人に疎まれるのが全部彼の責任というのは、そんな惨い話があるだろうか。  けれど、田畑が言えたのは、一つだけ。 「僕は、君の言うことを信じる」  田畑自身は何もできない。今から引き返して、田畑が店長や他の店員に猛抗議をしたって、彼はもう以前と同じようには働けない。 「君が悪くないことを、信じるよ」  何もできないけれど、彼の味方になりたかった。それだけ彼のことを大事に思っていることに、田畑はやっと気付いたのだった。 「……ありがとう、ございますっ」  涙の止まらない彼の肩にそっと触れて、田畑は考える。  僕が彼にできることは、何だろう?  レイの身に起こる不幸はそれだけではなかった。始まりに過ぎなかったけれど。 「そんなこともあったなあ」  ホットケーキを焼く度に、思い返す思い出。ホットケーキの甘さと、彼の苦渋の苦さと、触れた肩の温かさ。  田畑はほかほかのホットケーキを盆に乗せて、レイの部屋のドアを開く。  今の彼はもう、誰からも裏切られたりしない。  ベッドで微睡むレイには、何の苦しみもない。全て田畑が取り上げてしまった。  結局、田畑が出来たことは、それだけなのだった。
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