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カリムが「最後のお願い」を告げたのは、母とひどい喧嘩をした翌日だった。
「一週間後、私は停止します」
私は読みかけのマンガを栞も挟まずに閉じて、カリムの方を仰いだ。顔はまだ、冷静を装っていたけれど、心の中では困惑が渦巻いていた。カリムは私に嘘をつかない。まして、私を悲しませるようなことを言うはずがないのだ。
その日がたとえ、エイプリルフールであっても、私がカリムの言葉を疑うことはなかっただろう。カリムは金属製の顔を苦しそうに歪め、カシャカシャとガラスの瞳を青に染めていた。カリムの表情に、胸が詰まる。
「どういうこと?わかるようにちゃんと説明してほしいな」私はなるべく動揺を抑えて、穏やかな口調で尋ねた。
「廃棄の日を迎えた家事用ロボットは、自動的に本部からの通信が途絶え、スクラップ工場へ送られます。つまり、それはふたりとのお別れです」
「なんで?カリムはまだまだ動けるし、どこにも故障なんてないじゃない」
「そういう決まりなのです。家に来てから10年が経つと、規格の安全保障が切れ、自動停止してしまいます。私もあなたにそんなことをお伝えするのは心苦しいです。しかしながら、現在、私たちのような家事用ロボットは家電と同じ扱いをされています。つまり、私たちが半永久的に人に仕えることは不可能なのです」
「意味がわからない。私たちは家族なのよ」
気付けば、私は泣いていた。ボロボロと頬から雫が線になり伝わっていく。元々、涙腺はゆるい方だったけれど、こんなにも辛い気持ちが溢れて、涙が止まらないのは初めてだった。
こんな時まで、カリムに気をつかわれ、何もできない無力な自分が惨めでしかたなかった。私はその場にうずくまった。すると、カリムは私の思うことを初めからわかっていたように、私の側へ寄って、こう言った。
「だから、サキちゃんにお願いがあります。私からの最後のお願いです。聞いてくれますか?」私は涙でびしょ濡れの顔を上げた。
「カリムに愛を教えてください」
「愛?」聞き返すと、カリムは頷いて、愛を知りたいのですと、もう一度、はっきりと答えた。
「機械と人間を分けるものはなにかご存知ですか?」
カリムはなにかを語る時、必ず私に問いをかけて始めるが、その質問に答えられたことは一度もなかった。
「私は喜びも怒りも、ほら、こんな風に悲しみもちゃんとわかります。形上は電子の信号ですが、心の中にすでに人と相応のものが宿っているのです。しかし……」
愛だけがなにか、わかりませんと、カリムは胸に手を当てて、つぶやいた。その瞬間、私はまたなぜか、無性に悲しくなった。カリムは私が泣き声を大きくしたのを聞いて、ごめんなさいと、申し訳なさそうに謝った。「サキちゃんが悪いわけじゃないんです。ただ、愛というのは受ける当事者にはわかりにくいもので……、とにかく、表に出にくいものなんです。ですから、いつも側にあるとしても、ちゃんと感じるとなると、とても難しい」それはと、私のいいかけた言葉を塞ぐようにカリムは「全て哲学書の引用です」と、言葉を被せた。
「とにかく、カリムに愛を教えてください」
「でも、愛なんて、私にだってわからないわ」
「大丈夫。あなたは人間です。気づかなくとも、その心にはちゃんと愛が眠っているはずです」カリムは考えを促しているようだった。が、実際、自分の胸に手をやっても、帰ってくるのは心臓の鼓動だけで、愛なんて高尚なものはどこにもなさそうだった。
「ねぇ、どうしたらいい?」
結局、私はいつもカリムに答えを求めてばかりなのだ。
「簡単ですよ。サキちゃんの誕生会を開くのです。3人でもう一度お祝いをしましょう」
カリムは真面目にそう言った。気張っていた私はその答えにすっかり肩透かしをくらった。
「そんなことで、愛がわかるっていうの?」
「えぇ、わかりますよ。十分です」その時、カリムが一瞬笑った気がしたけれど、すぐにカリムは時計を見て、いつもの顔に戻った。「ほら、もう四時ですよ、夕食までに宿題をちゃんと終わらせてくださいね。最近、寝不足が続いて、サキちゃんの体が私はとても心配です。私の方は食材の買い出しに行きますから、ほら、はやく、やってしまいましょう」早口と圧におされ、私は勉強机にむかった。横にかけていた通学カバンから英単語帳を取り出すと、ドアのしまった音が後ろで聞こえた。私は単語帳をパタリと閉じる。
「誕生日……」
そんなものを祝うのは、何年ぶりのことだろう。私が5歳の頃に、父が死んだ。父は商社勤めで、とても忙しい人だったけれど、私と母をとても愛してくれていたのを覚えている。休日はよく近隣の公園で遊んでくれたし、平日の朝起きると、いつも父の置き手紙が机に置かれていた。私は父が大好きだった。カリムを買ってきたのも父だった。カリムがやってきたのは、私が父と過ごした最後の誕生日の日だった。共働きでも私が寂しくならないようにと、父がプレゼントしてくれたのだ。今は当たり前に置かれている家事用ロボットも、当時はまだほとんど普及していない珍しいものだった。おそらく相当な無理をして送ってくれたのだろう。
そんな父の死因は出張中の事故だった。詳しいこと未だにはわからない。知っているのは、まだ幼い私を隣人の家にあずけ、北海道の病院に親族が駆けつけた時には、父はすでに息を引きとった後だったということだけだ。それも祖母が教えてくれたことだ。母からは何も聞けていない。いや、聞くことができなかったのだ。父の通夜の夜、私は母が泣いているところを目撃した。寝付けずにひとりでリビングへいくと、母が食卓のテーブルに突っ伏して声を殺し、震えていたのだ。私が知る中できっと、それは一番静かな涙だった。その日から、我が家では父の話題が氷河のように凍りつく禁忌となった。
それっきり、母は別人のようになった。より一層強く、快活な人になったのだ。元々、芯が通った人だったけれど、それでもこの変化は、事情を知っている周りの人々を大いに驚かせた。特に私はそうだった。早朝から夜深くまで仕事に励み、最低限の家事と着替えを済ませると、ばたりと倒れて、眠りにつく。まるで、父なんて初めからいなかったみたいにだ。あの夜のことは全て都合の良い夢だったのかもしれないと、本気で疑った。その頃から、私は母を薄情だと、思うようになった。もちろん、カリムと一緒に夜遅くまで玄関で母の帰りを待っていたこともあったけれど、結局、優しかった昔の母が戻ってくることはなかった。私たちの間にはいつでも隙間があった。小学校が始まったのをきっかけに、生活は完全にすれ違うようになった。
立ちかえれば、5歳だった。そこで、家族の団欒や誕生日は終わりを告げ、カリムとの日々が始まった。
——カリムのために、私はもう一度、母と向き合うことを決意した、はずだった……。
気付けば、「大嫌い」と、私は思い切り叫んでいた。きっと、考えが甘過ぎたのだ。顔を見合わせれば、いつも喧嘩ばかりしていた母との関係修復を、そんなちんけな覚悟ひとつで、達成できるわけがなかった。今日の喧嘩のきっかけは、来年に控えた、私の高校受験の話だった。これまで、全てをカリムに任せてきたくせに、母はそういうところにだけ口を挟んだ。あなたのためを思って、という母の言葉を私は世界で一番信用していなかった。きっと、それは私のためなどではなく、世間体のためだと、思っていた。この人とだけは、到底、分かり合えない。母を理解しようと思うほど、乗り越えられない分厚い軋轢を再確認するだけなのだ。私は首を振った。
「どうせ、私のことなんか愛してないんでしょ。わかってるの。大好きなパパが死んだら、そりゃあ、こんな出来損ないの娘なんてお荷物でしかないって」私の言葉に眉を釣り上げていた母の顔がひどく歪んだ。それを拍子にずっと心の奥底で押さえていた感情が、壊れたマシンガンのように飛び出していく。でも、撃った言葉はおかしな軌道で進んで、標的の母を掠めて跳ね返り、私の胸の傷をさらに深くえぐった。愛されていない。自分の中で蠢いていた疑惑が、確信に変わった気がした。それから、私は自分の部屋へ全速力で走った。自分自身でさえ、わけがわからなくなっていた。とにかく、今この時の現実から逃げだしたかった。鍵をかけて、ベッドにうずくまると、ドアをドンドンと叩く音がした。ドア越しに母がなにかを言っていたが、なにも聞きたくなかった。布団をかぶり、目を瞑っていると、糾弾はいつのまにか止んで、ギシギシと、階段を降りる音が鮮明に聞こえた。
部屋はついに、静寂に包まれた。心はグルグルと洗濯機のように回っていた。今、さっき傷つけた母の顔よりも、なにもないこの暗がりが、私の卑怯な全ての行為を叱責していた。どうしようもない、やるせなさに涙が出た。なにも上手くいかない。そして、今更ここをでて、謝る勇気もなかった。
その時、「ハンカチをお持ちしました」と、透き通った声がドアの方から聞こえた、カリムの声だ。「お母様はついさっき、寝室に向かわれました。だいぶ、お疲れのご様子だったので、はやく休息をと……」私は考える前にドアをあけ、小柄なカリムの体に覆い被さるように抱きついた。「まぁ、こんなに泣いて。せっかくの可愛いお顔が台無しですよ」カリムは優しくほほえみ、部屋の電気をそっとつけた。カリムは訳もきかず、私の息が落ち着くまでベッドの上に座っていた。
「素直になってみては、どうでしょう」
カリムは一言だけ私に、言った。私は黙っていた。反論はなかった。カリムはいつも私を見ていたし、誰よりも私のことを知っていた。だから、その言葉だけでいいと、カリム自身もわかっていたのだろう。ずるいよ、私は一言だけつぶやいた。その夜は、そのまま泣き疲れて、眠ってしまった。あくる朝、目を覚ますと、私の体には綺麗に布団がかけられ、机には桃色のハンカチが置かれていた。私はそれを手に取り、強く抱きしめた。
そうだ、私はいつもこんな風に孤独なんかじゃなかった。自分ばかりが悲劇のヒロインのようになって、私は母の苦しみに目を背けていたのだ。私にはいつもカリムがいて、支えてくれた。けれど、母はその間もずっと独りで戦っていたのだ。私を養うために悲しむ間もなく働いて、私のために生きてくれていた。本当は多分、ずっと前から心のどこかでそれをわかっていたのだ。なのに、素直になれなかったのは、失ったものの大きさを埋める手段もなかった、私の弱さのせいだった。私は最低だ。一番支えなくてはいけなかった母に当たったのだ。私は母ともう一度、話さなければならない。甘えてちゃダメだと、私は頬をピシャリと叩いた。
その夜、帰宅した母に頭を下げて、「昨日のこと、ほんとにごめんなさい。受験のこともちゃんと考えるから、私の話をきいてほしい」と、言った。突然の行動に怪訝な顔の母に、私からカリムの話を切り出すと、母は驚くこともなく、「知ってたわ」と呟き、目線を落とした。「どうやって、あなたにいえばいいかわからなくて、実はずっと伝えられなかったの。あなたは、特にカリムになついていたから…」母の声がいつもより柔らかく聞こえた。母は話を続けた。「サキに言われてから、ずっと考えてた。お父さんを突然失ったあなたにどれだけ我慢をしいてきたかを。本当にごめんなさい。私、母親失格ね」母の言葉に、私の胸は張り裂けそうだった。本当のことをいうのが、今更怖くなったずるい自分。もう逃げちゃいけないと、私は震える手をギュッと握った。
「私のために、お母さんが頑張ってくれていたこと、ほんとは気づいてたんだ。でも、その度に、自分の不甲斐なさにイラついて、苛立ちをお母さんにぶつけてた。全部、私が悪かったの。ほんとに、ほんとに、ごめんなさい。大嫌いなんて言って」私は息を吸って、素直になれ、心の中で何度もそう反芻した。「できたら、もう一度、やり直したい。最初から」私は母の目をじっと見つめ、伝えた。すると、母は顔を歪めた。でも、それは昨晩とは全くの別物だった。母は、私の前で子供のように大粒の涙を流していた。あの日から閉じ込めていた悲しみがドッと溢れ出したように、声をあげて泣いていた。絶対的だった強い母の像は崩れ、目の前には私と同じひとりの人間がいた。大好きな、愛すべき人がいたのだ。母の味方でいられるのは、家族である自分しかいない。もう、守られるだけじゃない。私はもう、今年で15だ。
誕生日の日は、すぐやってきた。
ケーキは、私の大好きな母特製のチョコレートケーキだ。上に乗せる、ろうそくはちょうど、15本。火を灯すだけでも、時間がかかるようになった。
食卓には、母と私とカリム。そして、満面の笑みで微笑む父の写真が飾られていた。私達はなにも話さなかった。しかし、けしてしんみりしていたわけじゃない。沈黙こそが、本当の愛を語っているみたいだった。時計が5時55分をさす。外ではそろそろ日が沈む。あと5分で、カリムは停止する。
母が裾を引っ張り、私は目くばせをする。カリムの前に出したのは、ひまわりのブーケだった。
「プレゼント。あなたがここへきた今日は、あなたの誕生日だから」
「2人で、1時間も悩んで、選んだのよ」と、母が付け足した。
「大好きよ、カリム」
私の言葉にカリムは静かに微笑んで、言った。
「サキちゃん、最後に白状すると、実は、『愛』が何かを知っていたんです。いや、知らないわけがなかったんです。毎日、有り余るほどの愛をカリムはお二人からもらいました。でも、私は、私が止まる前に、どうしてもお二人が笑いあう姿をもう一度だけ、見たくて、『愛』を知らないなんて嘘をつきました。でも、その嘘でこんな日が迎えられるなんて、思っても見ませんでした」カリムの声が弱々しくなるほどに、終わりの時間の近さを感じた。カリムは手に持った花を愛おしそうに見つめた。「ありがとうございます」その言葉で、私はもう我慢できずに立ち上がって、カリムを抱きしめて、大好きよと、言った。それから、ママも私を後ろから覆って、カリムの頬に短いキスをした。「カリムは、世界で、一番、幸せな、ロボットでした」掠れて途切れになった声で、カリムは言った。それがカリムの本当の最期だった。お別れに涙はなかったけれど、触れていた指が冷たくなり、それが完全に金属の塊と化した時、私達は泣き崩れた。それから、また、涙は一晩、とまることを知らなかった。いつかは別れがあって、どんなに愛しい相手が消えても世界は回っていく。そして、残された私達にはそれぞれの明日が来る。
愛するものからの卒業。それでも、胸の痛みと思い出と絆を抱え、私たちは命が尽きるまで、精一杯に、前に進んでいかなければならない。
「いってきます」
母親に手を振って、今日も学校へ。
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