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 僕は『帰る』為に家を出た。僕の帰る場所はもうヴァレンシス家(ここ)ではない。 *****  長かった髪もその辺にあった果物ナイフで肩口でざっくりと切り、家族への想いも一緒に捨てた。  どこにでもあるような質素な服と小さなリュック、持ち出したいくばくかのお金、それが今の僕の全てだった。  迷いが少しもなかったわけではなかった。幾度も他人の妻になった僕をケインが受け入れてくれるのか分からなかったし、そもそも本当に僕の事を好きなのかも分からなかった。もしも好きだったとしてもそれは昔の話で、淫乱などと噂される僕の事なんてとっくの昔に愛想を尽かしていたかもしれない。  それでも僅かばかりの可能性があるなら諦めたくはなかった。  アテなんてものはなかったが、僕の帰る場所は彼なのだから絶対に見つかると思っていた。  そうして探し続けたある日、風の噂で最近できたばかりの美味しいパン屋の噂を聞いた。町の外れにある何の変哲もないパン屋。店主はまだ若いのに落ち着いていてとても()()()で、パンは素朴で優しい味がして普通のパンのはずなのにどこかが違うのだと言う。  確証なんかないけれど、彼に違いないと思った。  彼は今も僕の事を愛してくれていて、僕の為にパンを焼いてくれているのだと思った、いや焼いていて欲しいと思ったのだ。彼もまた幸せそうにパンを頬張る僕の姿を愛おしそうに見つめてくれていたと知っていたから。  そして訪れたパン屋の名前は『Layn』こんな単語は知らない。  単語としては成り立たないけれど綴り自体が意味を持つとしたら――Layton(レイトン)Kain(ケイン)――――。  確信を持ってドアを開けると『カランカランカラン』と僕の胸の高鳴りを代弁するかのようにベルが大きく鳴った。そして視線の先には予想通り僕を見つめる彼の姿があった。  ああ……。言いたい事が沢山あったはずなのに胸がいっぱいで言葉にならない。  何も言わない僕に彼はいつものように 「――おかえりなさい……ませ」  と言った。だから僕も 「――ただいま」  と言ったんだ。  そうして僕たちは躊躇いながらも抱き合って、久しぶりの温もりに涙が零れた。  まだこうやって抱きしめてくれるなら僕を汚いとは思っていない?  僕はあなたに気持ちを伝えてもいいだろうか?  僕はもう貴族ではないただの何も持たない男だ。  気持ちを伝える事であの日のお父様のように、ずっと続くと思っていた愛情が消えてなくなる事が怖く、なかなか言い出す事ができなかった。 「坊ちゃん……」  優しく包み込むような愛しい人の声に確かな愛情を感じた。  その愛情が僕と同じでありますようにと願いながら彼の耳元で囁く。 「お願いだ、レイと呼んで……」  僕はもうレイトン・ダナ・ヴァレンシスではなく、ただのレイなのだ。彼だけのレイなのだ、臆病な僕が言えたのはたったそれだけだった。 「――レイ……お慕いしております……」  長い『溜め』の後唸るように紡がれた言葉に彼の想いの深さを知る。  僕が思っていた以上に沢山の葛藤や諦めがあったのだろう。僕たちはすぐ傍にいながらとても遠い存在だったのだから。  だけどもう僕たちを阻む物は何もない。 「嬉しい……、僕もずっとずっと――ケイン愛してる」  見つめ合い、初めてのキスを交わす。  幾度となく交わしてきたヴェール越しのキスなどではなく唇と唇が直接触れる本物のキス。  その温かな唇にこれは紛れもなく恋人や夫婦の――愛し合う者たちのキスなのだと僕は思った。やっと僕は愛しい人の元へ帰る事ができたのだ。  ただいま、僕の愛しい人。  『僕の帰る場所はあなただけ』 ‐Fin-
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