19人が本棚に入れています
本棚に追加
ベイビー&ゴースト
* 1 *
一匹と一人で夜の散歩をしていると、リードが急に引っ張られた。柴犬のキヨタダがさっさと前に進んでいくので歩くペースを早くすると、せせらぎ水路の噴水前に、お姉さんが座っていた。
足元は裸足で、ぼんやりと爪先を見ている。
幸薄そうな女の人は、そばに来た犬に気付くと頭を撫でる。それに首輪が付いているのを見ると、縄の先を辿っていって、わたしと目が合う。
「こんばんは」
女の人は白くて綺麗な肌をしていた。とびきりの美人というわけではないけれど、日常のストレスに晒されている様子がなくて穏やかそう。
「こんばんは」とわたしも挨拶すると、「すこし撫でててもいいですか?」と彼女に聞かれる。いいですよ、と答えると、細い手がキヨタダの背を撫でていく。柴犬のキヨタダは、女の人にゆっくりと撫でられるのが好きなのだ。
飽きずにずーっと撫でていたので、わたしも隣に座ることにする。夏の終わりの生暖かい風が吹いて、草の匂いが流れていく。
リュックから水筒を出して注ぐと、紅茶の匂いが立ちのぼる。それに気付くと、お姉さんがちらりと見たので、わたしはカップをさし上げた。
「くださるの?」
こく、と頷くと、お姉さんは花のような笑顔を浮かべた。
「どうもありがとう」
そう言って飲むのだけど、口に入って飲み込まれた液体たちは、ぴちゃぴちゃと地面に落ちて小さな水たまりを形成した。
それを見ると、お姉さんはほっぺたを赤らめた。
「お下品でごめんなさい……」
「気にしないでください。そういうものですから」
一度お亡くなりになった人は、飲み食いができなくなるので、飲み込んだものは、ぼたぼたと無慈悲に落ちる。生きてるのか死んでるのか判然としないときは、これを使って見分けられる。
それに、飲み込めなくても味を感じないわけではない。
「よければもう一杯いりますか?」
試しに聞くと、お姉さんは小さく頷く。再度カップをさし上げると、水たまりを再び作って、幸せそうなため息をつく。
「体があたたまったような気がします」
彼女はこの味が好きなのだろう。ほっとした表情を見て、そう思った。
「わたし以外にも、幽霊を見たことがあるのですか?」
「はい。この子といると、たまに」
そう言ってキヨタダに視線を向けたのだけど、お姉さんは違うことを思い出したみたいで、ぜんぜん別のことを聞いた。
「どこかで赤ちゃんを見ませんでしたか?」
「……幽霊の赤ちゃんですか?」
「たぶん」
「あいにく見てませんけど……」
わたしがそう答えると、お姉さんはがっかりした。彼女の手は無意識にお腹のあたりを撫でていた。
「では、もし見つけたら教えてくださいます?」
「わかりました」
ありがとう、と儚げに言うと、立ち上がって歩いていく。ふらふらと危うげな足取りで前へと進み、周辺を眺めては、気まぐれにお月様を見る。彼女はああやって、ずっと赤ちゃんを探している。
実は、わたしがあのお姉さんと会うのだって、初めてではない。何十回も会っているのに初対面のようだったのは、向こうが忘れてしまったからだ。幽霊というのは忘れっぽいので、昨日のことなど一晩も経てばどこかへ置き去りにしてしまう。あのお姉さんは“桜庭凛子”という自分の名前すら忘れていた。
ため息をついて後ろ姿を見つめていると、キヨタダが足にすり寄ってくる。そっちを向くと、つぶらな瞳が『帰ろう?』と言っていた。
頭を軽く撫でてやると、わたしたちは家に帰ることにする。
道路の交通量は午後の八時でやや少なめだ。埼玉県の端にある町は典型的なベッドタウンで、夜は静かだ。
この町――小手指町は、大昔には戦場だった。かつては小手指ヶ原という名で知られ、多くの人々が亡くなった。そのせいかどうかは知らないけれど、死人にとっては居心地がいいらしく、たまに幽霊がふらふらと歩いている。そしてそれは、犬の散歩をしているときにだけ起こるのだ。
柴犬のキヨタダは変な犬で、幽霊の匂いを嗅ぎ取れるらしい。たまに見知らぬ人のそばに行って尻尾を振ると、その人はたいてい死んでいる。ある人の言葉を借りると“縁起の悪いアホ犬”ということであり、油断してると幽霊が隣に立っていることもある。
一週間後、そんな感じでわたしが出会ったのは、小学生の男の子だった。
* * *
散歩中、黄色と黒のバーの前で、列車が通り過ぎるのを待っていた。
黄色い電車が視界を横切り、バーが上がって、いざ行こうとしたときである。
隣を見ると、小学生の男の子がキヨタダのお腹を撫でていた。
「踏切を渡りたいんだけど……」
いつまでも撫でていたので声を掛けると、男の子は目を丸くした。
「びっくりした! 話し掛けられるなんて、ずいぶん久しぶりだよ!」
ずいぶんと驚かれて、しまったなあと後悔した。よくよく見たら、その子は靴を右だけしか履いてなかった。
話し掛けたのをなかったことにして散歩を再開しようとすると、思った通り、男の子は付いてきた。
「ねえねえ、お姉さんってどうして僕のことがわかるの? 霊能力者なの? それともエスパー?」
幽霊というのは記憶力がないくせに、生きてる人に無視されるのは知ってるらしく、わたしみたいなレアな生き物に遭遇すると、ここぞとばかりに話し掛けてくる。
「ねえねえ、返事してよ。ねえねえねえ。でないと犬のうんこ投げつけるよ!」
「あの……放っておいてくれないかな?」
「どうして?」
「散歩をしないといけないから」
「それなら僕もついていくよ」
付いてこられても困るのだけど、一度お亡くなりになった方々は、マイペースにやってる人がとても多い。
「ところでお姉さん、僕のお母さん知らない?」
「しらない」
「まだどんなお母さんかも言ってないのに!」
適当にあしらおうとすると、鼻息を荒くして怒られた。ため息をつき、一応聞いてみることにする。
「ごめんごめん。それで? お母さんってどんな人なの?」
「覚えていない」
自分から振ってきたのに、すばらしいマイペースっぷりである。
「それじゃあ捜せないね。残念だね」
「そう、だね……」
どうしようもない状況なのに気付いたのか、くすんくすんとべそをかき始めた。そっとしておいてあげると、男の子は勝手に立ち直った。
それを見て、わたしは感心した。
「タフな心をしているね」
「まあね。このところ、もの覚えが悪くって大変なんだ。家のことも憶えていないし」
なるほどそれは、一度お亡くなりになった人たちにありがちなことである。
とはいえ一応、確認しておかなければならなかった。
「あなた、今の状況がわかってる? 自分が、その……」
「死んだってこと?」
それには気付いているようなので、ほっとした。ちびっ子やご老人には、生きてるつもりで死んでる人がけっこう多い。
暇なわけではなかったけれど、鬱陶しいし、家が近いなら道案内をしてもよかった。
「あなた、自分の住所は覚えてるの?」
「それも忘れちゃった」
さっきから覚えてないことばかりである。
「じゃあ、自分の名前は覚えている?」
「それくらいなら覚えてるよ。近藤玉城(たまき)っていうんだ」
それを聞いて、何か引っ掛かるものがあった。どこかで聞き覚えがあったのだ。
あっ、と思い出して驚いたけど、男の子は石ころを蹴っ飛ばしていて気付かなかった。
「まあ、忘れちゃったのは残念だけど仕方ないよね。こうやって歩いてれば、いつかは着けるかもしれないし、立ち止まっても誰も慰めてくれないし……」
さみしそうな顔を見せると、道端に落ちてた小枝を拾う。
「じゃあ、またね」
さよならをすると、男の子は木の枝を振り回しながら、遠足みたいな足取りで歩いていく。ちいさな背中を見つめながら、わたしは言葉をかけられなかった。
さっきの名前と彼の顔を、わたしは前に見たことがあった。ずいぶんと時間が経っていたので、そのことを忘れてしまっていた。
近藤玉城とは、桜庭凛子に誘拐された男の子の名前だった。
最初のコメントを投稿しよう!