ベイビー&ゴースト

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ベイビー&ゴースト

  *   1   * 一匹と一人で夜の散歩をしていると、リードが急に引っ張られた。柴犬のキヨタダがさっさと前に進んでいくので歩くペースを早くすると、せせらぎ水路の噴水前に、お姉さんが座っていた。 足元は裸足で、ぼんやりと爪先を見ている。 幸薄そうな女の人は、そばに来た犬に気付くと頭を撫でる。それに首輪が付いているのを見ると、縄の先を辿っていって、わたしと目が合う。 「こんばんは」 女の人は白くて綺麗な肌をしていた。とびきりの美人というわけではないけれど、日常のストレスに晒されている様子がなくて穏やかそう。 「こんばんは」とわたしも挨拶すると、「すこし撫でててもいいですか?」と彼女に聞かれる。いいですよ、と答えると、細い手がキヨタダの背を撫でていく。柴犬のキヨタダは、女の人にゆっくりと撫でられるのが好きなのだ。 飽きずにずーっと撫でていたので、わたしも隣に座ることにする。夏の終わりの生暖かい風が吹いて、草の匂いが流れていく。 リュックから水筒を出して注ぐと、紅茶の匂いが立ちのぼる。それに気付くと、お姉さんがちらりと見たので、わたしはカップをさし上げた。 「くださるの?」 こく、と頷くと、お姉さんは花のような笑顔を浮かべた。 「どうもありがとう」 そう言って飲むのだけど、口に入って飲み込まれた液体たちは、ぴちゃぴちゃと地面に落ちて小さな水たまりを形成した。 それを見ると、お姉さんはほっぺたを赤らめた。 「お下品でごめんなさい……」 「気にしないでください。そういうものですから」 一度お亡くなりになった人は、飲み食いができなくなるので、飲み込んだものは、ぼたぼたと無慈悲に落ちる。生きてるのか死んでるのか判然としないときは、これを使って見分けられる。 それに、飲み込めなくても味を感じないわけではない。 「よければもう一杯いりますか?」 試しに聞くと、お姉さんは小さく頷く。再度カップをさし上げると、水たまりを再び作って、幸せそうなため息をつく。 「体があたたまったような気がします」 彼女はこの味が好きなのだろう。ほっとした表情を見て、そう思った。 「わたし以外にも、幽霊を見たことがあるのですか?」 「はい。この子といると、たまに」 そう言ってキヨタダに視線を向けたのだけど、お姉さんは違うことを思い出したみたいで、ぜんぜん別のことを聞いた。 「どこかで赤ちゃんを見ませんでしたか?」 「……幽霊の赤ちゃんですか?」 「たぶん」 「あいにく見てませんけど……」 わたしがそう答えると、お姉さんはがっかりした。彼女の手は無意識にお腹のあたりを撫でていた。 「では、もし見つけたら教えてくださいます?」 「わかりました」 ありがとう、と儚げに言うと、立ち上がって歩いていく。ふらふらと危うげな足取りで前へと進み、周辺を眺めては、気まぐれにお月様を見る。彼女はああやって、ずっと赤ちゃんを探している。 実は、わたしがあのお姉さんと会うのだって、初めてではない。何十回も会っているのに初対面のようだったのは、向こうが忘れてしまったからだ。幽霊というのは忘れっぽいので、昨日のことなど一晩も経てばどこかへ置き去りにしてしまう。あのお姉さんは“桜庭凛子”という自分の名前すら忘れていた。 ため息をついて後ろ姿を見つめていると、キヨタダが足にすり寄ってくる。そっちを向くと、つぶらな瞳が『帰ろう?』と言っていた。 頭を軽く撫でてやると、わたしたちは家に帰ることにする。 道路の交通量は午後の八時でやや少なめだ。埼玉県の端にある町は典型的なベッドタウンで、夜は静かだ。 この町――小手指町は、大昔には戦場だった。かつては小手指ヶ原という名で知られ、多くの人々が亡くなった。そのせいかどうかは知らないけれど、死人にとっては居心地がいいらしく、たまに幽霊がふらふらと歩いている。そしてそれは、犬の散歩をしているときにだけ起こるのだ。 柴犬のキヨタダは変な犬で、幽霊の匂いを嗅ぎ取れるらしい。たまに見知らぬ人のそばに行って尻尾を振ると、その人はたいてい死んでいる。ある人の言葉を借りると“縁起の悪いアホ犬”ということであり、油断してると幽霊が隣に立っていることもある。 一週間後、そんな感じでわたしが出会ったのは、小学生の男の子だった。    *   *   * 散歩中、黄色と黒のバーの前で、列車が通り過ぎるのを待っていた。 黄色い電車が視界を横切り、バーが上がって、いざ行こうとしたときである。 隣を見ると、小学生の男の子がキヨタダのお腹を撫でていた。 「踏切を渡りたいんだけど……」 いつまでも撫でていたので声を掛けると、男の子は目を丸くした。 「びっくりした! 話し掛けられるなんて、ずいぶん久しぶりだよ!」 ずいぶんと驚かれて、しまったなあと後悔した。よくよく見たら、その子は靴を右だけしか履いてなかった。 話し掛けたのをなかったことにして散歩を再開しようとすると、思った通り、男の子は付いてきた。 「ねえねえ、お姉さんってどうして僕のことがわかるの? 霊能力者なの? それともエスパー?」 幽霊というのは記憶力がないくせに、生きてる人に無視されるのは知ってるらしく、わたしみたいなレアな生き物に遭遇すると、ここぞとばかりに話し掛けてくる。 「ねえねえ、返事してよ。ねえねえねえ。でないと犬のうんこ投げつけるよ!」 「あの……放っておいてくれないかな?」 「どうして?」 「散歩をしないといけないから」 「それなら僕もついていくよ」 付いてこられても困るのだけど、一度お亡くなりになった方々は、マイペースにやってる人がとても多い。 「ところでお姉さん、僕のお母さん知らない?」 「しらない」 「まだどんなお母さんかも言ってないのに!」 適当にあしらおうとすると、鼻息を荒くして怒られた。ため息をつき、一応聞いてみることにする。 「ごめんごめん。それで? お母さんってどんな人なの?」 「覚えていない」 自分から振ってきたのに、すばらしいマイペースっぷりである。 「それじゃあ捜せないね。残念だね」 「そう、だね……」 どうしようもない状況なのに気付いたのか、くすんくすんとべそをかき始めた。そっとしておいてあげると、男の子は勝手に立ち直った。 それを見て、わたしは感心した。 「タフな心をしているね」 「まあね。このところ、もの覚えが悪くって大変なんだ。家のことも憶えていないし」 なるほどそれは、一度お亡くなりになった人たちにありがちなことである。 とはいえ一応、確認しておかなければならなかった。 「あなた、今の状況がわかってる? 自分が、その……」 「死んだってこと?」 それには気付いているようなので、ほっとした。ちびっ子やご老人には、生きてるつもりで死んでる人がけっこう多い。 暇なわけではなかったけれど、鬱陶しいし、家が近いなら道案内をしてもよかった。 「あなた、自分の住所は覚えてるの?」 「それも忘れちゃった」 さっきから覚えてないことばかりである。 「じゃあ、自分の名前は覚えている?」 「それくらいなら覚えてるよ。近藤玉城(たまき)っていうんだ」 それを聞いて、何か引っ掛かるものがあった。どこかで聞き覚えがあったのだ。 あっ、と思い出して驚いたけど、男の子は石ころを蹴っ飛ばしていて気付かなかった。 「まあ、忘れちゃったのは残念だけど仕方ないよね。こうやって歩いてれば、いつかは着けるかもしれないし、立ち止まっても誰も慰めてくれないし……」 さみしそうな顔を見せると、道端に落ちてた小枝を拾う。 「じゃあ、またね」 さよならをすると、男の子は木の枝を振り回しながら、遠足みたいな足取りで歩いていく。ちいさな背中を見つめながら、わたしは言葉をかけられなかった。 さっきの名前と彼の顔を、わたしは前に見たことがあった。ずいぶんと時間が経っていたので、そのことを忘れてしまっていた。 近藤玉城とは、桜庭凛子に誘拐された男の子の名前だった。
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