7人が本棚に入れています
本棚に追加
メロンパンが焼き上がる18時ちょうどにやってくるお客さんがふたりいる。ひとりは細身でいかにも神経質そうな会社員で、もうひとりは茶髪を綺麗にまとめた癒し系の女性だ。ふたりは2年ほど前から、水曜日だけの常連だった。
「メロンパン、焼き上がりました」
店内に響く、営業用のいつもより高い自分の声とメロンパンの甘い匂い。もちろん、水曜日のサービスディを目当てでくる客は、そのふたりだけじゃなかった。けれど、初めからそのふたりだけに目がいったのには理由がある。一言でいうなら、それは奇妙だったからだ。ふたりはつい首を傾げてしまうほど、不思議な組み合わせだった。第一に職場の同僚にしては近すぎて、カップルにしては離れすぎた距離で、仲良さげにしているのに、どこか恋愛を感じさせないさっぱりさがあった。ことに、兄弟や親戚なんていう飛躍した設定も、その正反対の雰囲気からいえば、どうもしっくりこなかった。
さらに、この謎を解決不能にしたのは、彼らの唯一の共通点が、『メロンパンへの愛』だったことだ。それも少し異常なくらいだ。今日もやってきたふたりの前に、湯気を立てたメロンパンを置けば、途端に目を輝かせ、彼らは心から幸せそうに笑う。パン屋のバイトは誰もが思っているよりずっと重労働で、ストレスが多いけれど、その笑顔を見れば疲労は一切合切、吹き飛んでいく。例えば、それがどんな土砂降りの雨の日でも、クレーマーに散々怒鳴られ、頭を下げ続けた日でも、私はいつも救われる気がした。まさに、暗闇の中の蜘蛛の糸だ。自分でも驚くことに、そんな些細な水曜日の出来事が、生きる意味の大きなひとつになっていた。
この笑顔に初めて救われたのは、1年と少し前のことだ。元カレをふってすぐの、ちょうど人生のどん底にいた頃。今でも、あそこで別れを踏み切らなかったら、私は今、どうなっていただろうと、不意に恐ろしくなることがある。一世一代の別れだった。
元カレは高円寺住みのバンドマンだった。友達の家を転々として、たまにライブをすると思えば、ほとんどただ同然でアマチュアバンドのヘルプに入る、そんなろくでもない奴だった。昔はバンドをしていたらしいが、酒癖の悪さや金銭の問題で揉めて、一年もたたずに解散したらしい。
周りの友人にも何度、あいつと関係を切れと忠告されたかわからない。もちろん、ここまで落ちた理由の半分以上は自業自得だと、今ではちゃんとわかっている。世間知らずでバカな私は酔うと語り出すあいつの夢の話が大好きだった。付き合ったきっかけも、安いバーでたまたまあって、ロックスターになりたいというなんて語りに乗せられチケットを買ってしまったところからだった。毎回語る夢も振りかえれば、現実味のない、吹けば飛んでいくような薄っぺらい空想だった。いつか、何万人の心を動かすミュージシャンになるだとか、俺を馬鹿にした連中を黙らせる曲を作ってやるんだとか、お前を絶対幸せにしてやるだとかだとか。そんなくだらない類の話だ。褒めるところといえば、妙なオーラと顔の良さくらいだった。それでも、やっぱり愛することをやめられなかった。
案の定、別れる原因も、裏でライブハウスの女と遊んでいたのが原因だった。浮気なんて5回6回どころじゃなかったし、薄々わかっていたから、怒りや悲しみもわいてこなかった。急に凧の糸が切れて、空に消えていくように、何かを考える間もなく、私はあいつの元から別れようと思ったのだ。それこそが、私の最後の防衛本能だったと、今ならわかる。同棲していたアパートを引っ越した夜に、自分の生活がどれほど荒れていたのかを、私はやっと理解した。毎日、自炊をしていたはずのコンロにはビールの缶が並び、服はシャツやワンピースも関係なく、どれもアイロンをかけないまま床に山積みにされていた。朝まで、あいつが帰ってこないのは聞かなくてもわかっていた。私はポストに鍵を投げ込み、足早に階段をおりた。置き手紙さえ、残さない。それが、自分のできる、精一杯のケジメだった。
その後、ひとり逃げ出した先は、真っ白で、空っぽのなにもない部屋だった。あいつの家から遠いというだけで即決した物件だった。住み心地もなにも考えなかったので、家賃の割に古くて、狭かった。荷物の運び入れが終わり、高校の頃の友達が帰ると、静まり返ったひとりきりの新しい家は、まるで異世界のようだった。しかし、異質なのはその環境ではなく、自分のほうだというのが、すぐにわかった。ポカリと胸に開いた大きな穴の存在に、私はふと、深い絶望を感じた。ベッドだけしかない、段ボールが支配する、知らないリビングで、しばらく私はぼんやりと天井を見つめていた。私はすでに、過去の自分自身をなくしていた。どうやって、笑っていたのかも、起きている時間の全てをどう過ごしていたのかもわからない。どんな行為の根幹にも、あいつの影がみえるほど、私はあいつに依存していた。
本当の自分を追いながら、気づけば夜も昼もなく倒れるように寝むっている。三日三晩、そんな生活を繰り返した。そして、急にグルグルと、私の腹がなった。その時、自分自身の内から湧き上がる衝動に、心が共鳴し始めたのだ。それは私が求めていた、純粋な感情の小さな破片だった。長い髪をとかすこともせずに、前へ垂らしながら、私は走って、キッチン中の戸棚を端から全て開けた。その引き出しのどこかに、引越しの日、友人に渡した食べ物の残りをいくらか置いていたのを、ふと、思い出したのだ。お湯が沸き、それを入れるだけの作業をして、口の中へドッと、獣のようにかきこんだ、あの日のカップラーメンは、この人生で一番、不味かった。張り付いた喉や胃に侵入した麺は靴紐を食べているような不快感があり、お湯を入れすぎたスープはとても薄かった。あの衝動が起こった原因は、単に死ぬのが怖かったからかもしれないし、はたまた無意識下での葛藤の結果であったのかもしれないけれど、どのみち、私は自分の人生を、未来を諦められなかった。みっともなくても、明日を生きたかった。骨張った腕で箸を持ち、私は必死にカロリーを詰め込んだ。すると、そのうちに目から涙が流れ、感情が溢れた。息をするのも、苦しかった。けれど、もう大丈夫だという確信だけがあった。心の中で、生きたいという無意識が、時間が経つほど、強い意志に変わっていたからだ。
その日の夜、バイト募集の一番初めに載っていた、今のバイト先へ電話をかけた。それが、自分自身をもう一度、好きになるための近道なると、思ったのだ。行動を起こせば、案外、そこからはとんとん拍子に話が進んだ。2日後には簡単な面接と研修があり、そのまま制服が渡された。元々、働いていた人が最近辞めてしまったので、なるべくはやく働いてほしいという、オーナーからの要望があったのだ。もちろん、パンを作ることはできないので、基本の業務はレジ打ちや品出しと接客だった。大半は前に働いていたコンビニと変わらない業務だったけれど、朝方にシフトを入るのだけがとてもきつかった。朝7時に起床し、髪をとかし、しっかりと洗濯されたシャツに腕を通し、バイト先のパン屋へ向かう。それは、すっかり夜型に染まってしまった生活を立て直す、よいリハビリだった。
もちろん、その合間に、大学の授業にも行き始めた。ゆるい文系学部だったことと一年時に貯めた単位のおかげで、なんとか留年は免れそうだった。ただ、このまま過ごせば、元に戻れるというのは、やはり考えが甘かった。勉強を疎かにしていたツケとして、大量のレポートやテストが一気に夏休み前の月に押し寄せたのだ。生活は多忙を極めた。私は毎日、クマをつくりながらパン屋の接客に臨み、その後は遅くまで大学で課題をこなした。帰宅後にせめて、メイクだけでもと、最後の良心で洗面台へたどり着けば、鏡の中の自分はボロボロなんていう日を何度も重ねた。確かに変わったという実感も、その姿をみると、自信はたちまち縮みこみ、昔の最悪な自分に逆戻りしているのではないかと不安に駆られた。あの時は、多分、そんな葛藤を常に抱えていたんだと思う。そこから私が吹っ切れたきっかけこそが、あのふたりとの巡り合わせだった。
ふたりの来店は、ちょうど18時だった。「はい、どうぞ」と、私はいつも通りに、焼き立てのメロンパンをトレーへ並べた。すると、「おいしそう」と、後ろで女性の声が聞こえた。振り返ると、そこにはふたりのお客が嬉しそうに、にっこりと笑い合っていたのだ。
起こったことは、本当にそれだけだった。本来なら、気にもとめないような些細な出来事だったかもしれない。でも、暗くなった私の心には、それで十分だった。世界が広がっていく感覚とともに、ひとりで逃げ出した頃には大きすぎた空っぽの穴が、素敵な笑顔で、いとも簡単に前を向くための力で綺麗に埋まっていく。最低な過去との決別、あいつの支配が、その瞬間、やっと、終わりを告げたのだ。
私の生活はその夏、光だした。どんな辛いことに出会っても、超えていく力がわいた。思ったより、自分らしく生きることは簡単なのだと、気づいたのだ。
「いらっしゃいませ」
オープンの看板をだし、声をはって、朝からお客様を迎える。
そこからの2年は思うよりあっという間で、私はあと一週間で、このバイトを辞めることになった。大学の単位を無事に取り切り、保険会社の内定が決まったのだ。今日は水曜日。あのふたりに感謝を伝える、最後のチャンスだった。
「ここのメロンパンを愛してくれて、ありがとうございます」
突然、頭を下げた私を見て、ふたりは顔を見合わせると、女性の方が口を開いた。
「こちらこそ。いつも美味しいパンと、あなたの頑張っている姿に元気もらっているんです」女性が目くばせをすると、男性はそれに深く頷き、「どこよりも、ここの接客がいいんですよ」と、はにかんだ。
私は驚きを隠せなかった。まさか、そんな返答が来るとは、まさか思ってもみなかった。私は涙をこらえながら、最後までパン屋の店員を全うしようと紙袋を手渡して、深々ともう一度、お辞儀をした。
「またのご来店をお待ちしています」
ふたりは私に手を振って、店を出た。カラカラと、響いたベルが静かになるのを待って、私はグッと口角を上げた。最後まで、ふたりの関係性はわからないままだったけれど、今はその方がよかったような気もした。私はエプロンをきつく締め、また、お客様の元へ向かった。
「いらっしゃいませ」
自分らしく生きるということは、やっぱり、そう難しいことじゃない。ただ、誰かの笑顔のために、全力で進めばいい。そして、その思いこそがこの世界中を幸せにする何百の太陽になる。
最初のコメントを投稿しよう!