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 公園の横を過ぎたところで車はスピードを落とした。運転席の水上愛理が「すぐそこ、美容室の向い側よ」と左側を指差す。河田奈々未はその方向にチラッと視線を送った。  くすんだ緑色のドアが目に入った。この店だ。  愛理は次の角を左折し、もう一度左に曲がって、その先にあるアパートの前で車を停めた。南欧風の洒落たアパートだ。敷地内の専用駐車場に車を入れる。無断で停めるのだが、ほんの五分くらいだから見咎められることはないだろう。  二人は車を降り、後ろの座席に置いてある版画の入った箱を引っ張り出した。版画の箱は全部で四つ、水上愛理がそのうちの二つを持ち先に立って歩き出した。奈々未も両手に箱を抱えて続いた。  すでに愛理が店の下見をしてあった。下見というより「仕込み」と言った方が当たっている。一昨日、愛理はこの先にある画廊に行き、ラッセンやブラジリエの版画を買いたいのだがと持ち掛けた。画廊の店主は、生憎だがどちらも置いてないと言った。  それでよい。これから売りにいくのである。奈々未と愛理が持っているのはラッセンとブラジリエの版画だ。  通りに出るあたりで愛理は、うまくやってねと言い残し、箱を四つとも奈々未に託した。愛理が先に帰ったのは、奈々未と二人でいるところを見られてはいけないからである。  愛理の話によると、その店は「新堀画廊」といい、店主は三十代前半、意外とイケメンだったそうだ。  ちょうど大幅な模様替えの最中らしく、壁の版画はあらかた取り外され、床には掛け替えるための版画の箱が幾つも置かれていた。入り口近くのラックに入っている数点の版画は、パッと見たところあまり高価なものではなく、五千円から高いものでも三万円ほどだった。メルヘンチックな西洋の城やバラの花束などの絵柄が多かった。他には、地元の横浜中華街や山下公園、マリンタワーを描いたものもあった。カシニョールやカトラン、あるいはローランサンなどのヨーロッパの作家は見当たらなかったということだ。  それを見て、愛理はこの画廊で実行すると決めた。ターゲットにした。  これから実行しようとしていること、それは見ようによっては詐欺行為と受けとられかねないことである。  方法はそれほど難しくはない。今回のように愛理が前もってターゲットの店に、○○の版画を探している、購入したいと持ち掛ける。その後で奈々未が○○の版画を売りたいと店に行くのである。画廊はいいタイミングだとばかりにそれを買い取る。ところが、そのあとで愛理に連絡しようとしても電話は通じなくなっているという寸法だ。奈々未と愛理は現金を手にし、画廊は版画を在庫として抱え込むことになる。  詐欺と言われたらそれまでだが、版画を騙し取るわけではないし、一般の人に高額ローンで売り付ける絵画商法とも違うのである。しかも、その版画が売れれば、画廊にとっては「仕入れ」と同じことになるのだ。  四月の始めのことだったが、県内の川崎にある画廊で同じような詐欺を働き、その時は百万円ほど手に入れた。あれから一か月半ほどたち、そろそろお金も底をついてきた。この辺でひと稼ぎしようということになった。  河田奈々未は新堀画廊の前で立ち止まった。ここから先は奈々未の腕の見せ所である。  版画を売りにきたお客を演じる。そう、女優のように演技するのだ。  緑色のドアの上には半円形の窓があって、ステンドグラスが嵌めこまれている。なかなかいい感じの店だと思った。  愛理の話では、ラッセンと聞いて店主は首を傾げたそうだ。この世界では著名なアーティストを知らなかったとみえる。察するに、趣味が高じて画廊を始めた脱サラ組なのだろう。ここで商売の厳しさを教えてあげよう、この世界は甘くないのである。  奈々未が版画の箱を二つドアの横に立てかけ、別の箱を運ぼうとしたとき、向いの美容室から女性が出てきて「持ちましょうか」と声を掛けられた。詐欺の手伝いをさせるわけにはいかないので結構ですと丁寧に断った。  ドアの前で呼吸を整えていると内側から開いて店主らしい男性が顔を出した。ストライプのワイシャツに黒いジャケットを着ている。これが吉井孝夫だろう。愛理から名刺を見せてもらったので名前は知っているが、ここは初対面なので知らないフリをしておく。  愛理が言っていたように、吉井孝夫はそこそこのいい男だ。奈々未の好みのタイプに近かったので思わず笑みがこぼれる。 「こんにちは」 「パートに応募の方ですね」  いきなり、アルバイトの面接に来たのかと間違われた。出窓のガラスに『アルバイト募集』の張り紙があるのが見えた。それは無視して、店内に版画を二点持ち込んだ。
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