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「版画の買い取りをお願いしに来ました」
奈々未はそう言って画廊の中を見回した。
ドアを入ったところが展示スペースで、中央には応接セットがあり、突き当りの右手には事務机があってパソコンやファイルが置かれている。
展示スペースの壁に掛かっているのは白と黒の画面の精密な絵画だった。いや、絵画でも版画でもなく、むしろ写真のように見えた。それが十数点並んでいた。
不思議な感覚にとらわれた・・・これは版画なのだろうか。
店内の様子が予想とは異なっていたので戸惑っていると、吉井孝夫が「あとの二点は」と言いながら、外に立てかけておいた残りの版画を持ってきた。ふと、違和感を覚えたのだが、店主が自ら詐欺の手伝いをしてくれたので手間が省けた。
次第にこちらのペースになってきたので落ち着きを取り戻す。奈々未は箱から版画を取り出し壁に立てかけた。
「これを手放そうかと思って・・・買い取ってくださらない」
ラッセンとブラジリエがそれぞれ二点ずつ、ラッセンのイルカの版画は高さが1メートルほど、ブラジリエの馬をモチーフにした版画はその半分くらいの大きさである。
吉井孝夫は何も言わずにブラジリエとラッセンの版画を見て頷いた。品定めをしているのだろう。
奈々未は自分の後ろの壁に掛かった版画を眺めた。
画廊の中では一際大きい版画で、高さ1・5メートルくらいある。人相の悪い男が横になっていて、前に立つ女性は背後の男性を振り返っている構図だ。物語の一場面らしいが、二人がどのような関係なのかは分からない。
サラッと見ただけで奈々未はソファに座った。すぐに孝夫も向い側のソファに腰を下ろした。
そのタイミングを逃さず、先手を打って仕掛けた。
「どうですか、いい品物でしょう。買ってくれませんか」
にっこりとほほ笑むことも忘れない。もちろん、これもお芝居である。
この仕事をするときは、いつもより念入りにメイクをする。そうでなくとも顔にはそこそこ自信がある方だ。鼻がスッと高めで、初対面の人からも美人だと言われる。そこへ文字通りの詐欺メイクだから、この顔でほほ笑みかければ、たいていの男はソワソワし始める。そうなったらこっちのもの、言い値で版画を買ってくれるというわけだ。
「ええと、馬の版画はブラジリエでしたかね・・・大きい方は」と言ったまま考え込んでいる。
「イルカはラッセンよ。ブラジリエとラッセン」
作家の名前を二度繰り返した。
「ああ、そうだ、ラッセンでした・・・うちでは買い取りはあまりしたことがなくて」
吉井孝夫は乗り気がなさそうである。
これではなかなか商談が進まない。
そこで、こちらから、
「全部で六十万円でどうかしら」と、希望金額を言ってみた。
一点あたり十五万円である。この版画であれば、通常は購入価格が十五万円前後であろう。画廊に買い取ってもらうとなると、せいぜい五、六万円にしかならない。
六十万円という値段を出したのは相手を見て強気に出てみたのだ。とっさにラッセンの名が浮かんでこないのはいかにも素人である。
高額で売り込むために、別の作戦も用意している。
奈々未はソファに深く座り直し、ゆっくり脚を組み替えた。タイトスカートから太ももをチラッと見せた。これも仕事上のテクニックだ。
すると、吉井孝夫はあたふたした様子で席を立った。「少々お待ちください」と言ってパソコンの前へ行き、なにやら見入っている。
何をしているのかだいたい見当は付いた。インターネットで版画の取引価格を調べているのだ。どうやらその気になってきたらしい。奈々未の美脚作戦が当たった。
さっそく愛理に連絡しようとスマホを取り出した奈々未だったが、そこで誰かの視線に気が付いた。
あれだわ・・・
壁に掛かった縦長の版画で、豊かな長い髪をした女性の上半身が描かれている。手には一口齧った果物を持ち、愁いを秘めた眼差しでこちらを見ているのだ。ザクロのような果実の真っ赤な果肉、それを齧った赤い唇が不気味な感じである。
カラーなのでこれは展覧会のポスターであろう。
画中の女性の視線が気になったのでスマホを閉じた。
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