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 隣の部屋に入っていた吉井孝夫は封筒を手にして帰ってきた。奈々未が中を見ると確かに一万円札が60枚入っていた。  無事に六十万円を手にすることができた。今回は詐欺ではなく、正当な商談が成立したのだ。 「ありがとうございます」一応お礼をしておく。  すると孝夫は別の封筒を机に置き、 「三万円あります、どうぞ」  と言った。  奈々未が封筒を確認すると一万円札が三枚あった。予想通り、代償を求めてきたのだ。それでも、パパ活としては妥当な金額だし、好みのタイプのイケメンだから断る理由は見当たらなかった。 「いいわよ、一晩だけなら・・・」 「一晩? いえ、三日間です」 「三日も!」  三日間と聞いて驚いた。三万円で三日もパパ活とは、詐欺の代償とはいえ随分足元を見られたものだ。奈々未は帰ろうとしてソファから腰を浮かせた。それでもお金の入った封筒はしっかり掴んでいる。一度受け取った物は返さない。  「表の張り紙はご覧になったでしょう。ちょうどいま、受付のアルバイトを募集しているんです」 「バイト・・・ああ、なんだ、そっちの話ですか」  てっきりパパ活かと思ったのだが、そうではなくて、画廊でアルバイトをしないかというのである。そういえば、店に入ったときにバイトの面接に来たと勘違いされたのだった。  早とちりをしてしまった。恥ずかしくて顔が上気してくる。 「お茶を出したり、応対やら受付を手伝ってくれる人を探していたんです。版画を見にくる人が多くてね。今週の金曜日からお願いできませんか」 「バイトねえ」  店に入って、かれこれ一時間くらい経つだろうに、その間、お客は誰一人としてやってこない。こんなヒマな店では受付など必要とは思えなかった。 「そんなによく売れるんだ、この版画」 「売り物ではありません。展示して見てもらうだけです」 「見せるだけ? 入場料は取るんでしょ」  孝夫は首を振った。  版画を見せるだけ、しかも入場料は取らないという。これではタダで入れる美術館ではいか。言われてみれば、なるほど壁の版画には価格のラベルが付いていない。 「こっちは詐欺と言われても仕方ないことしてるの。で、あなたはそれと真逆、タダで見せるなんて大層ご立派だこと」  版画は売買せず、しかも入場無料とくれば人がいいにも程がある。 「仕入れるのにお金がかかるでしょう」 「趣味で収集して展示しているだけです。意外と同じような趣味の人がいるんですよ」 「ふうん、まあ、なんとなく古そうで、趣きはあるけど」 「ラファエル前派」  と、孝夫が言った。奈々未は何のことだか分からないので、とりあえず「ぜんぱ」と繰り返してみた。 「世紀末の、ここで言うのは19世紀末ですが、英国の世紀末絵画、ラファエル前派を中心に象徴派をコレクションしています」  19世紀末というと1990年頃だろうか。違うな・・・頭を巡らせた。 「もしかして、19世紀末って1890年とか、その辺のこと?」  孝夫がそうだと頷いた。 「100年以上も・・・120年も前じゃない・・・驚いたわ」  ますます版画の値段を知りたくなった。 「高いの? これ。100年前のアンティークだったら、高いんでしょ」 「大きいサイズで二十万円くらい、小さいのは数万円」  思ったよりずっと安い。奈々未が持ってきた版画と同程度の値段だった。  奈々未は立ち上がって壁に掛かった版画へ近づいた。先ほど見た美しい女性と人相の悪い男の版画だ。  今度はじっくりと版画を鑑賞した。 『魔法にかけられるマーリン』  森の中だろうか、生い茂った木の枝には白い花が咲いている。画面の前を大きく占めるのは長いドレスを着て立っている女性である。手に持った本を広げ、右の後ろにいる男の方を振り向いている。その視線の先には、男がだらしなく寝そべった格好で大木の根元に寄りかかっている。  女性を誘惑している場面だろうと思った。男は目付きが悪い。寝転がってナンパしてもうまくいくとは思えない・・・  奈々未が視線を感じて振り向くと、吉井孝夫が版画の中の男そっくりな姿勢でソファに横たわっていた。
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