第8話 定時の理由

1/4
前へ
/64ページ
次へ

第8話 定時の理由

「係長、打合簿修正したんで確認してもらえますか」 「うん、そこに置いといて」  季節は秋になり、紅葉が美しく街を彩り始めた。  急に気温の寒暖差が激しくなったこともあり巷では風邪が流行していたが、課内でいち早くこの流行に乗ったのが俺だった。  数日前から咳が出て扁桃腺が腫れていたが、今日は朝から頭痛がする。  とりあえず市販薬を服用したところ痛みも治まったため、平常どおり出勤した。  これ以上ひどくならないことを願うばかりだ。  相変わらず小笹川の西山さんからは携帯に直接クレームの電話がかかってくるため、週に一度は顔を出してガス抜きをしている。  電話をかけてくる時は結構な勢いでまくしたててくるのだが、直接顔を出すと穏やかなもので世間話の相手をさせられている。  昨日も夕方にクレームの電話を受けたため、今日は朝から秋山と自宅を訪問した。  いつものようにリビングに通され、工事の苦情もそこそこに長い雑談が始まる。 「うちの娘ももう年頃で、29歳なんですよ。なのに結婚どころか付き合っている人すらいないなんて言うものだから心配で……」 「そこまで心配なさらなくても、最近は30歳を過ぎてから結婚される方も多い時代ですし」 「そうかしら?でも親としてはねぇ……。ところで、湯浅さんはもうご結婚なさってるの?」 「いえ、私は……」 「あら、じゃあ丁度よかった! うちの娘と会ってみて下さらない? 貴方みたいにお勤めが良くて、容姿端麗な方ならきっと娘も気に入ると思うの」 「……お気持ちは嬉しいんですが、職務上関係のある方とそういったお付き合いはちょっと……申し訳ありません」 「まあそうなの……? お堅いのねえ」  この一件が秋山の口から塚田さん達の耳に入り、俺がどれだけいじられたかは言うまでもない。  昼休みになっても食欲が湧かず机に突っ伏していると、課長に声をかけられた。  それは係長試験の受験に関することだった。  俺の係で試験に受けられる年齢に達しているのは、今年30歳になる塚田さんと32歳になる藤井だ。  藤井は昨年試験に合格しており、今年主任に昇進しているので問題はない。  問題なのは塚田さんの方だった。 「彼女、願書を出すようにと再三伝えてるんだが一向に出す気配がないんだ。締切も迫ってるし、君からも後押ししてもらえないか」 「はい。まあ本人の意向もあるとは思いますが、私からも一声かけてみます」  彼女は、たまに自分には能力がないと発言することがあった。  願書を出さないのもそういった考えが背景にあるからかもしれない。
/64ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1458人が本棚に入れています
本棚に追加